The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

虐待的環境とセクシュアリティの乱用モデル

リチャード・B. ガートナー『 少年への性的虐待 男性被害者の心的外傷と精神分析治療』(宮地尚子ほか訳、作品社)より

少女への虐待をめぐる家族力動

 

性的虐待を受けた女性に関する文献の中には、彼女たちの家族についての詳しい記述が多く見られる。例えばProce(1994) は、これらの家族に共通して見られる、混沌、秘密、境界の侵害、役割の混乱について記述している。そこでは過保護とネグレクトが交互に繰り返されているが、「すべては当たり前のことだと見なされたり、自分たちの家族は優れていて理想的だと思わされてしまっているかもしれない」(p.214) という。


これらの文献は、少女への近親姦的な虐待が起こるような家族の典型的なパターンを呈示している。最も多く記述されているのは、近親姦が、父親と娘か継父と継娘の間で起こる場合である。例えば Hermann(1981) は、彼女の画期的な著書『父-娘近親姦』(Father-Doughter Incest) において、父親としての権限を持つ大人と性的接触を持った経験のある40人の女性について研究した。

 

(中略)

 

Kirschner, Kirschner and Rappaport(1993) は、父-娘間で近親姦の起きている家族が文献の中でどのように扱われてきたのかの歴史的な変遷を書いている。

1960年代の家族療法の記述では、近親姦は、母親の心理的距離の冷たさのせいであるとして、母親に責を負わす傾向があったという。こういった女性嫌悪に染まった見方は、虐待に対するフェミニストの見解が1970年代に現れて、男性加害者自らの行動の責任が強調されるようになるまで続いた。

それ以後、家庭内の男性からの被害者、男性優位の文化の被害者として、娘たちは扱われるようになり、被害の発生に責任を負わされることはほとんどなくなった。

 

Kirschner らは家族システムと個人力動の両方の観点から、それぞれの良い部分を使って、近親姦的な家族の見方を確立していこうとしている。そこで指摘されるのは、父-娘近親姦の家族においては例外なく、夫婦の関係が機能を失っていること、貧しいコミュニケーションしか積み重ねられていないこと、紛争解決能力が低いことである。これらのスキルが乏しいために、両親は親としての効果的なチームを作ることができない。娘たちはしばしば両親の仲を取り持つ役を果たし、たいてい子どもたちは親の世話係と他の子どもの世話係を押しつけられる。

 

実質的に一つの家族パターンだけを記述した Herman とは異なり、Kirschner et al. は父-娘間の近親姦が起きている家族、母親が優位である家族、混沌とした家族、を記述している。これは、少年時代に近親姦を受けた男性を診てきた私自身の、虐待的な過族が持つ質や、能力、力動、機能不全の程度が多様であるという認識と一致する。

 

 


少年への虐待をめぐる家族力動

 

虐待を受けた少年に関するこれまでの文献には、少女についての Herman やその他の著者による記述に対応するような家族パターンは、まだ描かれていない。

これは少年については少女に対する虐待ほど家族について広く研究されえいないという事実によるものであろう。しかしそれだけでなく、少女に対する性的虐待は家庭内で起こることがほとんどだが、少年に対する性的虐待はかなりの場合で家族外で起こっているということからも来ているのかもしれない(Lisak et al, 1996)。

 

少年は家族の中か外かに限らず虐待を受けるため、近親姦が引き起こされるような家族の特徴のみならず、家族外の虐待者から性的被害を受けたり、受けやすくなるような家族パターンについても探る必要がある。

私は、治療した男性の家族に繰り返し見られるたった一つの力動パターンや、パターンの組み合わせには遭遇したことがない。しかし以下のように、これらの家族の多くに共通する点がいくつかあるのも事実である。

 

そこでは、親としてつながりが欠けていることが多く、それはコミュニケーションの領域において著しい。境界がうまく保てなかったり、侵害することがよく見られる。性については、会話さえ全く避けられるか、逆にいつもそこにあって過度に刺激をもたらしている。これらの特徴は、少女が被害を受ける場合の典型的家族像と一致する。しかしながら、これらによって近親姦の家族をそうでない家族から必ずしも区別できるわけではない。

 

Bolton et al.(1989) の研究は、被虐待少年の家族について典型的な家族力動を描き出すことは難しいことを暗に示している。彼らは、虐待的な家族の力動について普遍的な像を作り出すのではなく、虐待を引き起こすか引き起こさないかを左右する様々な環境要因について記述している。

その中で主に焦点が当てられているのが、家族向けの「セクシュアリティの乱用モデル(Abuse of Sexuality Model)」と呼ばれる、家族がセクシュアリティに対して持つ態度の幅である。これは、明白な性的虐待(abuse)が起きているか否かは別にして、どの程度家族がセクシュアリティの乱用(abuse)しているのかを見るために役立つモデルである。

 

Bolton et al.はまず、「理想的環境」と「おおむね養育的な環境」について記述し、どちらも虐待の起こる可能性は少ないとする。程度は様々だが、これらの環境には、セクシュアリティを攻撃的ではなく適切に表現できるようなモデルが存在し、子どもが不適切なセクシュアリティにさらされるのを防ぎ、セクシュアリティに関する正確な情報が手に入るようになっていることが多い。

 

彼らは次に、セクシュアリティの乱用や性的虐待が(必ずというわけではないものの)より起こりやすい環境について述べている。「回避的環境」においては、正確な性的情報がほとんどか全く提供されず、大人が不安を覚えるために性的なことは婉曲的に伝えられ、性についてのまことしやかな俗説や間違った情報が、しばしば無意識に行動の中に現れる。

他方、「環境的真空状態」では、性的な事柄は全く取り上げられない。子どもを守るという名目で、大人たちは故意にセクシュアリティについての情報を何も伝えない。

「許容的環境」では、大人は子どもが自由に性的な事柄に触れることを認める。これは良心的な動機からなされたかもしれないが、性的な事柄を処理するだけの能力を持ち合わせていない子どもは圧倒され、過度に刺激を受けてしまうかもしれない。

「否定的環境」においては、セクシュアリティは悪いものと見なされ、セックスは有害で悪であり、弱さのしるしだと、数え切れないほどのやり方で子どもに語られる。性的な情報が子どもにはほとんど与えられず、性について知ろうと思っても、子どもはじゃまされるか罰せされるであろう。

対照的に「誘惑的環境」においては、一人が数人の大人が、その子どもに対する性的な興味を、言葉で、もしくは行動によって直接伝える。明白は虐待は起きないかもしれないが、子どもは絶えずその大人にとって自分が魅力的だと意識させられ、その大人は「不注意」にその子どもに自分のセクシュアリティをさらすかもしれない。そういったことが重なり、この種の家族においては、刺激がそそられるような雰囲気の中で子どもは性のことを学んでいく。

 

最後に、著者らは、子どもの性的な悪用(misuse)や性的虐待が起きている「明らかに性的な環境」について記述している。この環境では、一人か複数の大人が子どもと明らかな性的接触をしている。性教育をするふりをして子どもにポルノを見せるなど、性的な情報の伝達が子どもを搾取するためになされる。それだけでなく、大人たちは子ども同士が性的接触をするように密かに謀ることもある。

 


p.157-160 

  

少年への性的虐待―男性被害者の心的外傷と精神分析治療

少年への性的虐待―男性被害者の心的外傷と精神分析治療

 

 

【関連】

「非常勤講師ノーマティビティ」とクィア格差 ∧ 「学歴ロンダ・ノーマティヴィティ」と幸せの筋立て

  既婚大学教授に捧げる反婚理論と「新しいレビ記

こういうことがあったとしよう。ある大学教授主催による読書会が開かれた。その読書会には、対象となった著書の著者も参加し、合評が行われた。主宰した大学教授は、その著作は重要な問題を提起しており、その問題を提起していることそれ自体が重要であり、その重要さを認識したことによって「自分自身も(自分自身が)」言いも言えぬ感銘を受けた、と評した。
ただし、それだけだった。
当該著書の中では、オリジナルかつラディカルな──と、その大学教授が評し、著書のセールスポイントにもなった──「反婚理論」が全編に渡って展開されていた。しかし、その著書を重要な作品と認めたのにもかかわらず、その著書によって大いなる感銘を受けたと著者の眼前で発言したのにもかかわらず、その大学教授は、その理論を実践することはなかった。その理論が命じている規定を「自分自身には」従わせようとはしなかった。そこで特権として遡上に挙げられた制度、差別を温存させていると批判されていた制度、つまり、その大学教授自らが享受している結婚制度による特権を自らは手放すことを一切せず(結婚を解消せず、離婚せず)、他の同僚の大学教員たちにもそのオリジナルな「反婚理論」に則り、既婚者は結婚の解消(離婚)を、婚約などをしている予定者にはそれを断念することを教授会等で求めなかった。また、「リベラルな」政治的信条の持ち主であると知られているその既婚大学教授は、懇意にしている政治家や支援を表明している政党があるにもかかわらず、そのラディカルな「反婚理論」をベースにした婚姻制度の廃止をリベラル政党における重要な政策として提言しなかった──あれほどまでに、その著書を重要だと称賛していたのにもかかわらず、だ。

一方、それに対し、「反婚理論」の著者は、どういう態度を示したのだろうか? ラディカルかつオリジナルな「反婚理論」を掲げ著作を社会に問うた著者にとっては、その「反婚理論」が実践されることが何よりも目的であったはずだ。読書会はその実践の場の一つであったはずだ。婚姻制度に囚われた人々を解放し、回心させること。理論を広め、回心したメンバーを増やすこと。そしてその理論を実行に移すこと。それによって社会を変えること。

注意深い観察者なら、次のことを見逃さないであろう。既婚大学教授に対する痛々しいまでの低姿勢。「反婚理論」を重要だと認めたのにもかかわらず、それを実行に移していない者がいる。それなのになぜ、「反婚理論」の著者は大学教授を問い詰めないのか。

注意深い観察者なら、次のことを見逃さないであろう。既婚大学教授に対する見苦しいまでの低姿勢。「反婚理論」を重要だと認めたのにもかかわらず、それを周囲の人たちに推し進めない者がいる。それなのになぜ、「反婚理論」の著者は大学教授を問い詰めないのか。

注意深い観察者なら、次のことを見逃さないであろう。既婚大学教授に対する腹立たしいまでの低姿勢。「反婚理論」を重要だと認めたのにもかかわらず、国会議員や支援政党にそれを実現させるための法案提出の提言をしなかった者がいる──その機会があったのに、だ。それなのになぜ、「反婚理論」の著者は大学教授を問い詰めないのか。

著者自身、「反婚理論」を実際に実現させようとなんて気はさらさらないのだろうか? 現実社会の悪行の存在をすべてサタンの仕業と見做し、あれこれ無駄なお喋りを費やした昔の人のように、自分が感じる邪悪なことをすべて結婚制度に結び付けて適当に整合性を持たせただけなのだろうか。

既婚者や現状のまますぐに結婚できる人たちに対して何の影響も与えないどころか、その人たちの持っている特権を強硬手段に訴えて剥奪しようともせずに、抵抗どころか、ひたすらそういった人たちに対して穏便で物わかりの良い微温的な振舞いを見せている。「リベラルな」既婚者は、「自身の」結婚を解消することなく、何も手放さずに、その代わりに「反婚理論」をひたすら重要だと持ち上げるだけで贖罪を得る(与える?)。

その一方で、それとはまったく対照的に、結婚の権利をまだ得ていない人たちに対しては低姿勢どころか高圧的で権威的に振る舞い、結婚を望むことそれ自体が何かの罪に相当するかのような物言いで、その人たちに罪悪感を負わせ、その罪悪感を利用して自分の権威を認識させ、その上で、まるでこの世の不正義をすべて背負わせるかのごとく彼ら彼女らを裁く。

既婚者に対しては痛々しいまでに、見苦しいまでに、腹立たしいまでに低姿勢だったのに、結婚の権利がいまだない人たちに対しては、それを望むことによって彼ら彼女らをまるで悪魔に魅入られた人のように見做し、頼まれてもいないのに勝手に悪魔祓いの儀式を執り行い「婚姻の権利を望んだ」というそれだけの罪でもって彼ら彼女らの内心を裁く。

まるで旧約聖書レビ記』の一節を大声で読み聞かせ自分の正しさに得意になっている者のように、どっかのアメリカ人が書いた「新しいレビ記」(選ばれた民、というより支配しやすい民を目敏く選んで勝手に強引に「クィアという名」を与え、自分たちの権威下に置き、それによって、あれをしてはならない、これをしてはならないと定めた「規約」の総称。もちろん「例外主義」を取っているので、「自分たち自身は」その「規約」に従わなくてもよいとの解釈が成立している)を聖典に祭り上げ、その中に「ネオリベラリズムの罪」を目敏く見つけ、自分の著書はその正統な注釈であり、だからその正しさによって、「婚姻の権利を望んだ人」を──既婚者には全く通用しない、無力かつ欺瞞的なものであることを誰もが知っているにもかかわらず──「婚姻の権利を望んだ人」だけを選びだし、知ったかぶりを絵に描いたような得意な面持ちで、「そういう者たちが集う学会の自滅」などなかったかのごとく、彼ら彼女らを生き生きと断罪する。

 

旧帝大クィア」と新しい学歴主義

 先生の「ラディカルな政治(ポリティクス)」の講義ですが……これまで自然で自明だと思っていたことに対し、先生の「ラディカルな政治」の講義を受講したことによって、それらのことを一つ一つ精査する──精査することを可能にする新たな視点を獲得したような気がします。なんだか目から鱗のようなものが落ち、代わりに最先端と称されるコンタクトレンズを装着したとでも、あえて言いたいような。だからこそ、様々な疑問が湧いてきました。それは自然の流れです──あの、様々なシチュエーションにも適用できそうな、まさに示唆に富んだ「ラディカルな政治」の講義を受けたのですから。むしろ、そういった次々に湧いてくる疑問のために居ても立っても居られない焦燥感に苛まれている、といったほうが今の私の精神状態をより正確に表しているのかもしれません──私は、そのときまで幼子のように感じ、幼子のように語り、幼子のように考えていたのです。しかし「ラディカルな政治」の洗礼を受けた今、幼子だったときのものは捨ててしまわなければならない、そう思いました。先生から見れば私はまだ幼子のような学生ですが。

それで私が幼子のように従順に先生の講義を聴講していたあの日、私は鏡に映して見るように「ラディカルな政治」について講義する先生のことを、おぼろげに見ていました。そのとき私が見ていたのは単なる一面に過ぎなかった──今では顔と顔を合わせるように先生のことがくっきりと見えるようになりました。先生は、ここの大学、すなわち現在私が学生として通っているこの私立大学のご出身ではありません。私が受講している他の教科でも先生と同じ出身の先生が多くいらっしゃいます。でも、調べたのですが、先生のご出身の大学では、ここの大学を卒業した教員の方は、ほとんどいないようです──「その」学科では専任の方は皆無でした。他大学についても調べました──同様の結果でした。これだけ日本には多くの大学が存在しているのに、日本の大学の教員は特定の大学出身者によって占められている事実──このことは「ラディカルな政治」を学ぶ前は自明で当然のことだと思っていました。しかし今は違います。「ラディカルな政治」は、このようなヒエラルキーを絶対に許さない、そういったことを温存し永続させてはならない、そしてそのような問題を「回避させる」あらゆる事由を問題化する。私が「ラディカルな政治」から学んだのは、このことです。現状のこのあまりの非対称な大学間格差に対して「ラディカルな政治」は、どんな回答を示してくれるでしょうか。

そして「ラディカルな政治」によって幼子らしいことを捨ててしまった私は、先生という鏡を通して「ラディカルな政治」という学問に専門的に関わっている他の人たち──すなわち先生と同じく「ラディカルな政治」の使徒とも言うべき人たちのことが自然と視野に入ってくるようになりました。もちろん「ラディカルな政治」に携わっている研究者の方々は日本ではまだ多くありません。ニッチな学問領域です。しかし、携わっている人が少ないからこそ、他の例えば経済学や英文学のように携わっている研究者が数多くいる学問領域と比べて、際立ってくっきりと見えてしまう「ある傾向」に行き当たりました──単にその集合の例外的な側面にすぎないのではなく、それが「全て」であるかのように見做してさしつかえないようなものとして。ほとんど真実なものとして。

最初、それはおぼろげに目に映っていました。それを把握するのに時間がかかりました。「ラディカルな政治」を知らなかったなら、気にも留めなかったでしょう。私はそれを「ラディカルな政治」というレンズを通して見ることにしました。するとそれは、「ラディカルな政治」を学び、「ラディカルな政治」による視点を手に入れた私には、どうしても納得のいかない事態、つまり「反-ラディカルな政治」とでもいうべき事態だったのです。それはこうです。二人の「ラディカルな政治」を専門としている教員がいる。つまり、同じ「ラディカルな政治」という学問領域を専門とする教員であり、同じくらいの経歴があり、年齢もほぼ同じで、さらに……。しかし二人のうち一人は大学で常勤のポストを得ており、もう一人は非常勤のポストにしか就けていないということです。私は「ラディカルな政治」で学んだ調査法を駆使しました。にもかかわらず、様々な「同じ」という状況の中で「違う」ことといえば出身大学の違いしか二人の間の差異を見出すことはできませんでした(先生もそうですが、先生と同じ大学出身者は比較的若い年齢で「有力」と見做されている日本の大学の常勤ポストを得ているように見えます)。

「ラディカルな政治」という学問を学んだからこそ、私には、そのことがどうしても納得がいかないのです。同一労働同一賃金の原則を反故にしているのではないか。しかもその状態をずっと続けてきた。もし、それが何年も続いてきたとしたら、二人の間にどれほどの収入格差がすでに生じてしまっているのか。収入の格差は勤務先からの賃金だけではありません。共済組合に加入しているかどうか(加入する権利があるか)──国民健康保険との格差は「ラディカルな政治」を学ばなくとも知っています。また、それなりの収入があれば各種民間医療保険個人年金保険に加入しているでしょう──それらは一定金額までは非課税ですよね。それがある年数以上続いていたら、二人の生涯賃金にどれほどの差が生じてしまうでしょう。機会の平等だけではなく、結果の平等も、さらには潜在能力の平等ということまでをちゃんとその視野に入れている「ラディカルな政治」に携わっている人たちに関することだからこそ、この状況は、私には重くのしかかります。

同じ「ラディカルな政治」を教え説く仕事に就いていながら、どうしてある教員は安定した地位と恵まれた賃金を得ることができ、その一方で、そうでない不安定な身分に甘んじなければならない人がいるのでしょう。どうして「ラディカルな政治」を講じている先生たちの中で(もちろん様々な「同じ」という条件の下で、です)、「特任ナントカ」という肩書のまま何年も何年も「そのまま」の人がいるのでしょう──「ラディカルな政治」に触れたことのある学生や一般の人たちの中には、そのことに疑問を持ち、そのことを「突き詰めて」考える人もいるでしょう。だから知っておきたいのです。いったい何がそうさせてきたのでしょう。根本的な原因はなんでしょう。多分、そこに「日本におけるラディカルな政治」の死角があると思います。そしてその死角を見るためには「ラディカルな政治」の外部に「自分自身を」置くことが必要になるでしょう──「ラディカルな政治」の外側にいる人たちは、言わないだけで、すでにその死角に気がついているかもしれません。

大学の講義だけではありません。先日、一般の人向けの「ラディカルな政治」の講座が開かれることを聞き、参加したいと思い調べてみました──「ラディカルな政治」で学んだこと、つまり物事をどういう視点で見て、その状況をどう適切に判断したらいいのか、ということを意識しながらです。結果はこうでした。講師は三人、その講師全員が同じ大学の方であった──言うまでもなく、先生のご出身大学です。また、最近目にしたNPO主宰の講座や他大学の講座でも同様でした──先生と同じ大学の出身者が講師をされていました。

それに……私は知っているのです。先生のご出身の大学とは別の大学をご卒業した方で、例外的に先生のご出身の大学で「ラディカルな政治」を担当をされているようなんですが……私は見てしまったのです……その大学の学内報みたいなものに「学歴を超えた」とその講師の方が紹介されていたことを。先生のご出身大学とは違うとはいえ、ちゃんと別の私立大学をご卒業したのにもかかわらず「学歴を超えた」という大学側の評価の意味がわかりませんでした。そのときです。なぜか部屋にある鏡が目に入りました。なぜかそこに鏡があることが意外に感じられました。なんとなしに鏡に近づくと……私の顔が映っていました……その鏡面を見ながら私は無意識に呟いていました……アンハッピー・クィア……と。私は、そのとき、合点しました。この場合の「学歴」とは、先生のご出身の大学を卒業したか、そうでないかを意味するものであり、それ以外の意味はないことを。
「ラディカルな政治」には、Aという事象と同時にBという事象が起こっていると観測されれば、そこには「任意の因果関係」があるという優れて汎用性の高い理論があります。もちろん、理系の学生や「ラディカルな政治」周辺以外の学問領域の人たちならば「それは相関関係と因果関係の混同だ」と一蹴にされてしまいますが、「ラディカルな政治」では、これを「相関関係と因果関係を脱構築するのがラディカルなのである」と主張することで批判を「回避させる」ことができます。ですから「ラディカルな政治」特有の優れて汎用的なその「ピンクなんちゃら」という理論によれば(ですから、これは直感ではありません、念のため)、これは「学閥と呼ばれるもの」だと思います。学閥と親和性のある、または学閥に浸食されている──「ラディカルな政治」の語彙を使用すれば、そのようにも表現できるでしょう。私は、何年間も同じことを言っている最先端の「アメリカの新興学問」(アメリカ至上主義学問)である「ラディカルな政治」において、日本で古くからその存在が自明視され、古くから日本社会で公然とまかりとおっている学閥の問題が「ラディカルな政治」によって導かれたことに驚きを隠せません。

率直に言って、「ラディカルな政治」のことを知ってしまった私には、旧帝国大学の出身者をその資格とする学士会は家父長制に似ているような気がしてなりません──今でも旧植民地だった台湾や韓国の大学もそこに含まれていることがどうしても気になります。でも、それに包摂されていれば──すなわち他の大学出身者を排除して成り立っている学士会に包摂されていれば──そこに包摂されている以上、それを手放すことなく、手放す必要もなく、そのことを問題にすることなく、問題にされることもなく、他の包摂や排除についての問題を「それ」と切り離して安心して議論できる。幼子らしさを捨ててしまった私には、そこに何かしら抗いがたい日本社会の、それを維持し永続させようとする日本社会の無意識の構造のようなものが映った鏡を見てしまったような気がします。さきほど述べたように「ラディカルな政治」に携わっている人はそれほど多くありません。だからこそ、私が見ている鏡には「それ」が鮮明に映っているのです──言っていることと、実際にやっていることが反転しているように見えるのは鏡のせいだけでしょうか。

先生はどう思っているのでしょう。「それ」を知ってしまった私が今後も「ラディカルな政治」を学んでいくことを。私がもし、この大学の大学院に進学したとして、その後、どこかの日本の大学でその専門家として常勤のポストを得ることができるのかどうか。少なくとも院は「そちらへ」ロンダリングするべきでしょうか。そして非常勤のポストを得るなら「お世話してくれる人」をまず探さないといけないのか──でも、それは、「ラディカルな政治」でいう権力関係に巻き込まれるということを意味していることにならないか、そう私は自問してしまいます。
こうして今、この立派な学士会館で先生と一緒に食事をしていますが、先生と一緒でなかったら、多分、こういう場所でさえ何かしら疎外されている感じ──アカデミックな場における自分の出自を常にまなざされているかのような感じに苛まれたかもしれません。でも、今だけは、そうでない気がします。
今後の人文学系のことを思うと、その中でもニッチな学問領域であることを思うと、何かをしなければならない気にさせられるのは先生も私も一緒です。だから「ラディカルな政治」における対象者──大学関係者ではなく、その研究のために利用可能な人たち──をできるだけ増やすよう心がけています。簡単です。その人たちを「その学問名=クィア」で呼び直せばいいのですから。「クィア」に包摂し、そのことを既成事実化すればいいのですから。本当に簡単です。”自然”と言う言葉をカッコに入れて「自然」と表記するだけで何か証明した気になれるくらい、すこぶる簡単です。利権がかかっ……いえ、そうではなく、私も「ラディカルな政治」という学問の制度化によって、「私たちの」ポストが増えることを願っている一人です(もちろん、常勤/非常勤の身分差別を解消することなしに「特定の者」だけがアクセスできる大学のポストの増量を図ることは「p ならば q はネオリベラリズムと親和性がある」という命題を成立させてしまう可能性があります、しかし、そこで、「例外主義」を導入することで「私たち自身は」それを「回避させる」ことができます)。

だから私たちは「その人たち」を「その名=クィア」で呼び、「その人たち」を「その名=クィア」に問答無用で改名します。私は「先生の学派」のためにできるかぎりのことを今後もしていくつもりです。「先生の学派」の勢力拡大を願っています。「先生の学派」の繁栄なしに「私の幸せ」はありえません。先生のご出身校である「そちらへ」ロンダリング進学することも含めて──学歴ロンダは「主流社会」へのアクセスを約束してくれる「幸せの筋立て」の一つですから。

そういえば先日、友人がレディー・ガガを聴いていたので私は言いました。レディー・ガガを聴くと「ラディカルな政治」の妨げになるからやめて、悪い交わりは、良いならわしをそこなうのだからと。すると友人は言いました。「じゃ、ピエール・ブーレーズを聴いてみる? トータル・セリエリズムを採用しているので本当にこれこそがラディカルな音楽なんだ」。

 

 

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「私は生きるか自殺するか決めなきゃいけないの?」 ~ 宗教指導者による子どもへの性的虐待とその影響

ピア・メロディ『児童虐待と共依存 自己喪失の病』(内田恒久 訳、そうろん社)より。ピア・メロディは共依存やトラウマの治療施設「メドウズ」の責任者。

宗教代表者から身体的・性的・もしくは情緒的虐待を受けることは子どもにとってとても悲惨なことだ。化学物質嗜癖、食べ物嗜癖、それに加えて共依存の治療のためにメドウズに来る患者の中にも、相当数の人が男性や女性のスピリチャルな指導者や宗教指導者から性的虐待を受けたと述べている。医者やカウンセラー、治療者それに援助職にある他の人たちから虐待が行われることもある。

 

宗教の指導者といえどもセックス・アディクションになるのを免れない。それに、とても傷つきやすい多くの人々がスピリチャルな保護と指導を求めて宗教専門家のところへ内密にやってくるから、セックス・アディクション宗教的な背景が隠れみのになりやすいと私は考える。

宗教の指導者は比較的安全にかつ隠密にこれらのとても困った人たちに対して自分のセックス・アディクションを行動に移すことができる。宗教の指導者にそのようなことが起こるなんて誰も考えないからだ。犠牲者は性的加害者を告発することには強い抵抗がある。また、たとえ虐待を受けたその人が実際に誰かに話しても信じてもらえないのだ。

 

親から受けたスピリチャルな虐待と対照的に、宗教の専門家は通常はその子どものハイヤーパワーとはならない。しかし、そのスピリチャルな指導者は神の代表者であるから、その虐待の発生を許したことでその子どもが神を憎んだり神に腹を立てたりすることがよく起こる。

あるいはその子どもは恐れて、「ハイヤーパワーと結ばれているといういことは、起きたことがもとで自分が傷つけられることなのだ。そしてハイヤーパワーが私にそんなことが起こるのを許したので私はハイヤーパワーを恐れる」という受け止め方をする。

 

宗教の代表者からの性的虐待はことのほか破壊的だ。私は宗教の代表者によって性的虐待を受けた多くの人を取り扱ってきて、このようなことが起こるたびに、深刻な不道徳な行為が行われていると考える。多くの犠牲者は回復のある時点で「私は生きるか自殺するか決めなきゃいけないの?」という疑問と苦闘しながら、生死の間をさまよっていることに私は気づいた。

ほとんどの時間は彼らも意識的に自殺と格闘しているわけではないが、自分たちの過去と直面すると、生死に相当する重大な問題を相手にしているということが明らかだ。

 

治療において性的虐待の問題が表面化すると、これらの患者はすでに強烈なトラウマと苦しみを感じることが多い。神の代弁者がそれほど恥知らずで虐待的なことをしたというその現実を認めることは厳しいことだ。ただ「その全貌を知る」だけのことでもその患者にはとても不快きわまりないことだ

 

しかし彼らは前進し、安全で神として限りない力を代表していると考えられていたある人から実際に汚されたという認識を受け入れなければならない。ほとんどの人が愕然としてとても腹が立ってくる。しかし、神に腹を立てることについては反対する多くの訓戒や恐れがあり、この怒りを感じることを自分自身に許すことは困難だ。

ほとんどの患者がこの怒りを自分自身に向けて、極端なうつになったり自殺しそうになる。「自分の感情にまかせてもいいのだ、重くわだかまっている感情から自分自身を解放するためにハイヤーパワーや神に対して言うべきことは何でも言っていいのだ」と彼らを助けてそのようにさせるのは実に難しい。その種のスピリチャルな性的虐待にまつわる感情に面と向かって取り組むための内的な決断は真のスピリチャルな危機を象徴している。しかし、この抵抗が克服されるまでは回復も真のスピリチャリティも得られない。

(中略)

私にはいつも自殺を考えている友だちがいる。僧侶から受けたあるとてもひどい性的虐待の結果、彼女の身に生じた恐ろしいことを納得できないでいる。彼女とハイヤーパワーとの間に立ちふさがるあらゆる怒りや苦しみのために、プログラムのスピリチャルな贈り物を活用できているようには見えない。

虐待を生き延びた多くの人たちの経験に基づいた私の意見では、スピリチャルなリーダーの手による身体的、情緒的、スピリチャルな虐待は、結果としてとても深刻な否認、欺瞞、抑圧につながる。彼らによる性的虐待は深刻で治療は一段と難しい。

 

p.298-301 

  

児童虐待と共依存―自己喪失の病

児童虐待と共依存―自己喪失の病

 

 

【関連】

”ジャーナリストによる監視がなければ、権力者は好き勝手なことを言い、ウソをつく。政治家に限らず、大企業、大銀行、大学などすべてに共通する”

 

実話の調査報道を活写 米アカデミー賞作品賞「スポットライト」、マッカーシー監督

「スポットライト」はグローブ紙に設けられた、調査報道の専門チームの名前だ。「焦点をあてる」「暗闇の中から照らし出す」といった意味を持ち、隠された事実を掘り起こす調査報道の意義も込められている。映画は、新しく着任した編集局長の指示をきっかけに、4人のチームが性虐待の被害者や弁護士らに取材を重ね、カトリック教会が長年にわたって虐待を隠していたという記事を出すまでの経緯をたどる。 

 

(……)

 

 結果的に報道はカトリック教会の中枢を直撃し、影響が全米だけでなく、全世界に広がった。「もしグローブが取り組まなければ、今でも明らかになっていないかもしれない」。米大統領の辞任へとつながったウォーターゲート事件も、民主党本部への侵入事件というローカルニュースが報道のきっかけだった。「腐敗は思わぬ場所に潜んでいる。だからこそ、地元に密着したジャーナリズムが大切」という。

 だが、現実には米国の地方紙の多くが経営難で苦しみ、人員も部数も減っている。その影響の深刻さが十分に理解されていないとの懸念をマッカーシー氏は抱く。「今年の大統領選をみても、好き勝手に発言する政治家が横行している。特に共和党は政策についての言及が少なく、ディベートも冗談のようだ。大きな理由は、本当のジャーナリストから質問を受けていないことだ」と考えている。

 それだけに、映画が調査報道への関心を呼び起こす期待もあるという。「ジャーナリストだけでなく、起業家らが、報道が力を取り戻すための方策を生み出すことを願っている。なぜなら、それは私たち市民にとっては不可欠なことだから」との思いからだ。

 「ジャーナリストによる監視がなければ、権力者は好き勝手なことを言い、ウソをつく。政治家に限らず、大企業、大銀行、大学などすべてに共通する」

 

http://www.asahi.com/articles/DA3S12307084.html

 

 

 

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非常勤講師ノーマティビティとネオリベラリズム、そして薄汚い例外主義 ~ 「クィア政治」とは既存の秩序に順応し、平然とそれに乗り、それによってその地位を得、出世した者が人に見せるために、人にみせるためだけに行う空疎なアジテーションなのか?

差別的身分制度を解消することなく、すなわち不安定な立場のおかれた他の人たちを置き去りにしつつ「その名において」特定の者だけがアクセスできる特権に与ること、制度を壊すと言いながら、自分たちへ利益をもたらすそういった制度は都合よく温存させ、むしろそのような制度を模倣し、そのような制度を自分たちのために構築し、その制度に乗り、その制度を永続させること、それがそこにおいて問題にされているネオリベラリズムでなくていったい何なのか。どうしていつもそこにおいて例外主義がまかりとおるのか。「ラディカルな政治」とは既存の秩序に順応し、平然とそれに乗り、それによってその地位を得、出世した者が人に見せるために、人にみせるためだけに行う空疎なアジテーションなのか? 「それ」に加担しているなどと他人に罪悪感を負わせ、その罪悪感でもって自分たちの権威を認識させ、その権威下に組入れ、「その名」を押しつけ、外的な境界、内的な境界を破損させ、他人をコントロールすることなのか? 薄汚いクィア例外主義、薄汚いクィアポリティスク。

 

 早大、非常勤講師の契約「5年上限」を撤回 労組と和解 朝日新聞 2015年11月27日

 

早稲田大学が、非常勤講師の契約上限を「5年」とした規定を撤回したことがわかった。撤回を求めていた労働組合東京都労働委員会で和解した。短期契約を更新しながら働いてきた非常勤講師雇い止めになる恐れがあったが、解消された。

 首都圏大学非常勤講師組合・早稲田ユニオンが25日に会見して明らかにした。和解は18日付。

 問題の発端は、労働契約法の「5年ルール」ができたことだ。有期契約で働く人でも、契約が繰り返し更新されて通算5年を超えた場合、無期契約への転換権が与えられるというもの。2013年4月に施行され、18年4月から順次権利が発生する。

 ところが、早大や大阪大など、非常勤講師との契約が無期になることを嫌う一部の大学では、「5年ルール」を免れるために、あらかじめ5年上限の規定をつくる動きがあった。早大は13年3月に5年上限の規定を新たにもうけた。反対する組合が大学を労働基準法違反で告訴するなど、対立が激しくなっていた。

 

 

http://www.asahi.com/articles/ASHCT53TMHCTULZU00L.html

 

 年収250万…早稲田大の非常勤講師らが、大学を刑事告発 突然の雇い止めの実態 2014.06.07

 

2013年3月末、突然、非常勤講師を5年で雇い止めにするという就業規程が非常勤講師らのもとに送られてきた。そうでなくとも首都圏大学非常勤講師組合などの調査によると、非常勤講師の平均年収は300万円そこそこで、そのうち250万円未満が4割もいるといい、彼らにとっては死活問題だ。

 一方、専任教員の平均年収は、組合との団体交渉の場で副総長が約1500万円と明らかにしているが、実際には1400万円を切っていると専任教員たちは話している。授業計画の作成・実施、試験問題作成、採点、成績評価など、専任と非常勤の仕事内容に大差ない。

 早大の教員のうち非常勤講師は59%(12年度末)で、授業の半分近くが非正規の教員によって行われている。

 

http://biz-journal.jp/2014/06/post_5050.html

 

 あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。

 

エゼキエル書 3.18-20 新共同訳 

 

 

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