ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)より
多くの被虐待児は大人になれば逃れられ、自由になれるという希望にしがみついている。しかし強要的コントロールという環境の中で形成された人格は成人の生活によく適応できない。
児童虐待経験者は基本的信頼、自立およびイニシアティヴに基本的な問題を積み残されたままである。
児童虐待経験者は自己管理、認知と記憶、自己規定および安定した人間関係を形成する能力に大きな欠陥があるというハンディキャップを負って、自己と親密関係とを確立するという成人期初期の仕事に近づく。
児童虐待経験者は依然その児童期に囚われている人である。新しい人生を築こうとすると外傷に再会してしまう。
(中略)
児童虐待経験者は親密関係の枠内(コンテクスト)で自分を守るのに非常な困難を覚える。このことも避けがたく起こる。ケアと養育とに憧れそれを執拗に求める結果、過不足のない安全な関係を他者たちとの間に結ぶことが困難となる。
自分を黒く塗り潰し、愛着の対象の人々を理想化する傾向によって、判断力はいっそう曇る。
他者たちの絶望に対して、相手の身になってそれに合わせようとする態度と、自動的な、ほとんど無意識的な服従の習慣とは、これまた、力と権威を持つ位置にある人たちに対して被虐待者を弱くし、傷つきやすくする。その解離という防衛形式も危険を意識的、客観的、正確に秤量するのを妨げる。
そして、危険な状況をもう一度生き直してそれを正したいという願いがあるために、結局虐待を再演するという羽目にもなりかねない。
このような理由はすべて、虐待を経験した成人が成人期においてもくり返し虐待の犠牲者になる危険率を高めるものである。
この点に関するデータは反論しがたい。少なくとも女性にかんしてはそのとおりである。レイプ、性的ハラスメント、殴打の危険率は、そもそも女性一般に高いものであるが、児童期虐待の経験者の危険率はさらにおおよそ倍増する。
ダイアナ・ラッセルが児童期に近親姦的な虐待を受けた経験のある女性を調査したところによれば、その後レイプされた女性は3分の2に上る。このように児童期に被害を受けた者は大人になった今も、その外傷体験を記憶の中だけでなく現実の生活において再体験するという悲しい運命にある。
ある被害経験者はその小止みなく暴力を受けつづけた半生をふり返ってこう述べている。すなわち「まるで自己実現性予言でした。暴力を予期しつつ人生をスタートさせ、幼い時に暴力と愛とをイクォールとみなすとしましょう。私はレイプを6回受けました。私は家出をしたり、ヒッチハイクをしたり、したたか酒をあおったりしました。そういうこと全部が組み合わさって、私は目につきやすく射止めやすい標的になったのです。まったくひどいものでした。おかしいのは、私ははじめ(レイピストたちは)私を殺すにちがいないと思ったのですが、それは私を生かしておいたら、奴らはどうして罪を逃れるだろうかと思ったからです。とうとうわかりました。奴らにはぜんぜん心配することなどなかったのです。私のほうから”してくれ”とたのんだということになって全くお咎めなしなんですね」
被害者の反復は疑いなく現実に起こっているが、この現象を解釈するには非常に慎重でなければならない。これまであまりに長い間、精神科医の意見は無情な世間の判断を反映したものでしかなかった。
すなわち、被害者は虐待を「求めていた」というのである。
かつてのマゾヒズム概念も最近の外傷嗜癖という定式も、要するに被害者は虐待の反復を求め、それによって満足を得ているといわんとするものである。
そんなバカなことがあろうか。たしかに被害者の一部が被虐待状況において性感の高まりを、さらには快感を覚えたと語ることはある。
しかしこのようなケースは、幼少期の被虐待のシーンが意識的にエロス化されて強迫的に再演されているだけのことである。
そういう場合でさえも体験の望ましい面と望ましくない面とがはっきり区別されているのはある被害者経験者が語るとおりである。
すなわち「私は自分に身体的虐待を加えるのが好きです。それをさせるためにお金を払うのも、好きだからです。しかし、私は自分でそれを支配し制御していたいのです。一時期、私が酔っぱらっていた時期、私はバーに行っては目についたいちばん汚れた、オエッとなるような男を拾ってセックスをしました。自分を低めたかったのです。今はもうそんなことはしていません」。
解離という対処形式がしっかり身についた生存者は、ふつうながら危険の警告となるはずの社会的なキューを無視するか軽視するようになる。
ある生存者はどうして自分がくり返し危険な状況に陥ったかをこう語っている。すなわち「私はほんとうはわかっていませんでしたが、いろんな経験はしていました。私の目につくのはお父さんみたいな老人たちでした。そして最初に私がした経験は(中略)私は当時木賃宿に住んでいました。売春婦とアルコール中毒と私とが住む宿です。そこである時私はある老人といっしょに住みました。私は彼を身づくろいし、だんだん彼を愛するようになりました。それからのこと、ある日彼はベッドに横になっていました。彼がいうのには医者が彼に売春婦を買ってはいけないと言ったというのです。だから私に助けてほしい、一寸手をかしてほしいといいました。一体何のことを言っているのかわかりませんでしたが、老人はこうするのだとまねしてみせました。私は(マスターベーションを)してあげました。それからいけないことをしたと罪悪感を感じました。私が発狂したのはずっとたってからです」。
児童期虐待を経験した人は他人を虐待するよりも虐待されるほうにまわること、あるいは自分を傷つけるようになる確率のほうがずっと高い。被害経験者がもっと加害者側にまわらないのかほんとうにふしぎである。おそらく自己嫌悪が心に深く刻み込まれているために、被害経験者はその攻撃性を自分に向けるような素質をいちばん持つ人になってしまうのであろう。
自殺企図と自己身体毀損とは児童期虐待の既往歴ときわめて高率に相関しているが、児童期虐待と成人の反社会的行動との関係はそれに比べて弱い。900人以上の精神科患者の調査によれば、自殺は児童期の被虐待の既往歴と高い相関をしているが、殺人はそうではないのである。
p.172-177
- 作者: ジュディス・L.ハーマン,Judith Lewis Herman,中井久夫
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