The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

性暴力表現の社会問題化による「調査者自身が受ける被害」

社会問題化によって生じた第三のジレンマは、社会問題化を推進する主体が、映像を上映したり、分析したりする作業を通じて、さらなる心理的被害を重ねてしまうことである。

 

私自身の経験を振り返ると、恐怖、怒り、不安、無力感や孤立感に襲われた。性暴力映像そのものがもたらす効果に加え、このような映像が社会的に容認・肯定されていることが、それらの感情を強化した。思い出したくもないのに、虐待シーンが突然浮かんできたり、映像を思い出させる引き金となるようなものを日常の中で発見すると、心臓がドキドキと高鳴って苦しくなったりした。 性暴力映像のタイトルや「監督」「男優」の名前を口にすることも耳にすることも苦痛だった。私にとっては「犯罪者」「レイピスト」としか言いようのない人々が、マス・メディアに登場し、社会的にもてはやされているのを見ることは、この社会に対する絶望感を強めた。

 

映像に対する他者の反応に対しても過敏になり、人間不信にも陥った。性暴力映像は、出演女性にも非があるかのような印象を与える作りになっている。具体的には、映像の冒頭に、女性をインタビューするシーンが収められている。「海外旅行に行くお金がほしいから」とか「クルマを買いたいから」などのAVに出演した動機を語らせる。うれしそうにはしゃいで見せる女性の姿を映し出し、出演女優たちの無防備さや安易さをわざと印象付けている。その後でひどい目に遭わせるつもりなのだから、これは出演女性への騙し行為にほかならず、製作者側の徹底した悪意を感じさせる。

しかし、そのような「演出」「編集」の効果は確実に発揮されている。視聴者の中には、このような製作者側の意図通りに、「確かにひどい映像かもしれないが、出演する女性にも問題がある」といった感想を持つ者も少なくないからだ。

 

社会問題化の主体は、性暴力映像に対して、すでに一定の耐性を持っていると思われるかもしれない。しかし、私個人のケースで言えば、耐性ができるどころか、むしろ視聴のたびに強度のストレスにさらされた。すでに視聴したことのある映像であってもそうである。視聴する数日前から緊張や不安が高まったり、視聴後も気分が落ち込んだり、不安や恐怖に駆られたりした。

日常生活においても、映像が蘇ってきて、心理的に不安定になるような状況が続いた。現在はかなり回復したが、思い出したくもないのに、映像のことを思い出してしまうことがしばしばだった。問題化を行っていくことによって、性暴力映像によって奪われた自己の力を取り戻すことも可能になった。その意味で、社会問題化に取り組むことは、私自身にとってはエンパワメントの過程だったといえる。しかしながら、問題化するために、映像を繰り返し視聴しなければならず、そこからまた新たな被害を受けるという問題に私は直面した。

 

 

浅野千恵「性暴力映像の社会問題化 視聴がもたらす被害の観点から」(『身体のエシックス/ポリティクス』所収、ナカニシヤ出版)p.147-149

 

 

身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉 (叢書・倫理学のフロンティア)

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