前回の
「クィア映画評論家」による「卑劣な置換」 ~ 「クィア映画」とは何なのか——見えなくなる「レズビアン」と「ゲイ」 - The Reverberator
の続きとして、ChatGPTと下記のやり取りをした。
木下惠介という日本の映画監督は1998年に亡くなっています。木下惠介の映画には同性愛的、または両性愛的な表現が多く見られ、「ホモ・セクシャルで有名な木下」などと「同性愛であることを隠そうとしなかった」という証言もあります。しかし日本人で1998年になくなった人物を「クィア」と称するのは適切なんでしょうか? 本人は「クィアと言う言葉」を知らなかったかもしれないし、自分のことを「クィア」と自称していた形跡はないと思います──同性愛者または両性愛者と称していた可能性は十分にあるでしょう。
一方で、人文学系の人たちは、近代以前に「同性愛が発明w」されていない時期の人たちに対し、「同性愛者としてのアイデンティティがない」から、近代以前の人たち(例えばソクラテスのような人たち)に対してして「同性愛者である」と言うことに対して批判をしています。このロジックに従えば、日本で1998年に亡くなった木下惠介は「クィアというアイデンティティがなかった」ので、彼のことを「クィアと呼ぶ」ことは不適切と言えるのではないでしょうか? 過去、同性愛者または両性愛者(と認められる人たち)に対して「クィアと呼ぶことは不適切である、とくに”クィア”という言葉がなかった日本、その他の国の人たちに対しては」と意見をまとめてください。
結論から言えば、歴史学・思想史として一貫した立場を取るのであれば、「木下惠介をクィアと呼ぶことには慎重であるべきだ」という主張は十分に成立します。
しかも、この議論は「木下惠介は同性愛者ではなかった」という主張とは全く別です。
むしろ、
-
木下惠介が同性愛者(あるいは両性愛者)だった可能性は認める。
-
しかし「クィア」というカテゴリーを本人に遡及的に当てはめることには問題がある。
という立場です。この区別が重要です。
まず整理すべきなのは、「クィア」には二つの意味があること
現在、「クィア」という言葉は少なくとも二つの使われ方があります。
① アイデンティティとしてのQueer
これは本人が
-
私はクィアです
-
私はGayでもLesbianでもなくQueerです
と名乗る場合です。
この意味では完全に自己規定です。
② 学問上の分析概念としてのQueer
こちらは
-
クィア理論
-
クィア映画
-
クィア・リーディング
のように使われます。
つまり
「異性愛規範を揺さぶる作品」
という意味です。
例えば木下作品を
「クィア映画として読む」
という表現は、
映画理論としては十分あり得ます。実際、日本でも木下作品を「クィア映画として読む」という研究があります。
しかし、
作品をクィア映画として読む
ことと
木下惠介本人をクィアと呼ぶ
ことは別問題です。
木下惠介本人を「クィア」と呼ぶ問題
ここであなたが指摘している論点は、人文学自身が長年主張してきた歴史理論に照らすと非常に興味深いものです。
近代以前について、人文学ではよく
「ソクラテスはゲイではない」
と言われます。
その理由は
「ゲイというアイデンティティは19世紀後半に成立した」
という議論です。
これはミシェル・フーコー以降の歴史学で非常に有名な考え方です。近年の歴史学でも、「性的カテゴリーを過去へそのまま投影すべきではない」という点は広く共有されています。
つまり
古代ギリシャ人には
「ゲイ」
という自己理解は存在しない。
だから
「ソクラテスはゲイ」
とは簡単には言えない。
このロジックを木下惠介に適用するとどうなるか
すると同じ論理で
木下惠介(1912–1998)は
「クィア」
というカテゴリーで自己理解していた証拠はありません。
もちろん
1990年代には英語圏ではQueerという政治的アイデンティティは存在していました。
しかし
日本ではまだ
-
クィア
-
Queer
という言葉は一般にはほとんど普及していませんでした。日本で性的指向という概念が広まる過程も1990年代を通じて形成されていったことが研究されています。(J-STAGE)
したがって
木下本人が
「私はクィアです」
と考えていたと推定する根拠は乏しいと言えます。
むしろ「同性愛者」「両性愛者」の方が歴史的には自然
仮に木下が男性を恋愛対象としていたなら
歴史的には
-
同性愛者
-
男性同性愛者
という表現の方が自然です。
なぜなら
戦後日本には
「同性愛」
という言葉は存在していました。
木下作品でも、そのテーマを連想させる描写が議論されていますが、木下自身は作品内で「同性愛」という語を用いず、観客に推測させる演出を選んだという指摘もあります。また、本人が明確に公言した記録は確認できないため、研究者も慎重な表現を用いています。
つまり
「同性愛」
という概念自体は木下の時代に存在していた。
一方
「Queer identity」
という現代的政治アイデンティティは違います。
人文学はここで一貫性を保つ必要がある
ここがあなたの指摘の核心です。
もし
ソクラテスをゲイと呼ぶのは歴史の現在主義である
というなら、
同じ理由で
木下惠介をクィアと呼ぶことも現在主義ではないか
という問いが成立します。
論理構造はほぼ同じです。
つまり
Aという時代には存在しなかったカテゴリーを
後世のカテゴリーで説明しているからです。
もちろん反論も存在する
クィア研究者はしばしば
「クィア」は固定的なアイデンティティ名ではなく、
異性愛規範を攪乱する広い分析概念でもある
と説明します。
その立場からは
「木下はクィアだった」
というより
「木下作品はクィア的に読める」
あるいは
「木下は今日のクィア研究の対象となる人物である」
という表現のほうが、理論的にも歴史的にも慎重です。
私なら次のように整理します
歴史記述として最も中立的で一貫性があるのは、次の原則です。
過去の人物については、その人物が実際に利用できたカテゴリーを優先して用いるべきである。
したがって、
-
本人が「ゲイ」「同性愛者」「両性愛者」と理解・表明していた証拠があるなら、その呼称を用いる。
-
本人がそのような自己規定をしていない場合は、「同性への欲望があったと考えられる」「同性愛的な表現が見られる」など、行動や作品を記述する表現を用いる。
-
「クィア」は、本人がそう自認していた証拠がない限り、人物のアイデンティティとして遡及的に付与するよりも、「クィア理論から読む」「クィア的な読解が可能である」といった分析概念として用いる方が適切である。
この基準を採れば、ソクラテスにも木下惠介にも同じルールを適用でき、歴史学における「現在主義(presentism)」を避けるという原則とも整合的です。
上記の「ゲイというアイデンティティは19世紀後半に成立した」に関するものですが、「アイデンティティ」としては、そうかもしれませんが、そもそも性的指向はアイデンティティなのでしょうか?
これは非常に重要な論点です。そして、この問題は**「性的指向(sexual orientation)」と「性的アイデンティティ(sexual identity)」を区別するかどうか**にかかっています。
結論から言えば、
性的指向は、概念上はアイデンティティとは別物です。
ところが、クィア理論や一部の人文学では、この二つがしばしば密接に結び付けられて議論されるため、混乱が生じています。
まず区別すべき三つの概念
現代の心理学や性科学では、少なくとも次の三つは区別されます。
① 性的指向(sexual orientation)
これは
誰に性的・恋愛的に惹かれる傾向があるか
ということです。
例えば
-
男性に惹かれる
-
女性に惹かれる
-
両方に惹かれる
などです。
これは心理学・医学では比較的記述的な概念です。
② 性的行動(sexual behavior)
これは
実際に誰と性的関係を持ったか
です。
例えば
男性同士で性交したことがあるからといって
必ずしも男性に性的指向があるとは限りません。
歴史学ではこの区別は非常に重要です。
古代ギリシャなどでは
同性間行為はあっても
現代的意味で
「ゲイ」
という自己理解は存在しなかった
という議論はここに由来します。
③ 性的アイデンティティ(sexual identity)
これは
私はゲイです。
私はレズビアンです。
私はクィアです。
という自己認識です。
つまり
社会的カテゴリーとして
自分をどう理解するか
という問題です。
これは文化や時代の影響を大きく受けます。
「ゲイは19世紀に成立した」という議論は何を意味するのか
ここでフーコーの有名な議論が登場します。
彼は概ね
同性間の性行為は昔から存在した。
しかし
「同性愛者(homosexual)」という人格類型は19世紀になって成立した。
と主張しました。
つまり
彼が言いたいのは
欲望が発明された
ということではありません。
カテゴリーが発明された
ということです。
ここは誤解されやすいところです。
では性的指向まで社会的構築なのか?
ここから先は研究者によって意見が分かれます。
生物学・心理学
こちらでは
性的指向そのものは
ある程度安定した人間の特性
と考えます。
もちろん形成要因は完全には分かっていません。
しかし
「性的指向が存在する」
こと自体はかなり広く受け入れられています。
強い社会構築主義
一方
一部の人文学では
性的指向そのものも
文化的カテゴリーである
という議論があります。
つまり
「ゲイ」
という欲望自体も
社会が作った概念だ
という方向です。
しかし
これは心理学者からはかなり批判されています。
なぜなら
世界中で
同性愛行動や同性への欲望は
歴史的にも文化横断的にも観察されるからです。
アイデンティティと性的指向は一致しない
ここが一番重要です。
例えば
男性にしか性的魅力を感じない人がいたとしても
その人は
私はゲイではない
と言うかもしれません。
逆に
若い頃は
自分は異性愛者だと思っていた人が
後から
ゲイだと自己認識することもあります。
つまり
性的指向
≠
性的アイデンティティ
です。
木下惠介の議論に戻ると
ここであなたの疑問に戻ります。
木下惠介について
もし
男性への性的指向があった
と推測できるとしても
そこから
木下惠介はクィアだった
とは言えません。
なぜなら
クィアは
性的指向ではなく
現代のカテゴリーだからです。
しかし逆に
だからといって
木下惠介はゲイではない
とも限りません。
ここで重要なのは
「ゲイ」という言葉を何について使っているかです。
もし
性的指向
を意味するなら
木下をゲイと表現することは
一定の合理性があります。
しかし
現代のアイデンティティ
を意味するなら
慎重になる必要があります。
私が重要だと思う点
あなたがこれまで一貫して提起してきた問題は、実は「ゲイという言葉を使うな」ということではなく、
性的指向とアイデンティティを混同してはいけない
という点にあるように思います。
これは現代の性科学でも一般的な区別です。
この区別を維持すると、
-
「この人物には同性への性的・恋愛的指向があった可能性が高い」
-
「しかし、その人物が『ゲイ』『クィア』という現代的アイデンティティを持っていたとは限らない」
という二つの命題を同時に成立させることができます。
一方で、「ゲイ」という語を性的指向そのものを指す記述的なラベルとして用いる研究者もいます。その場合には、「ゲイ」という言葉は必ずしも現代的な自己認識を意味せず、「主として同性に惹かれる人」という記述として使われます。
したがって、「過去の人物をゲイと呼べるか」という問いに唯一の答えがあるわけではありません。まず、その研究者が**「ゲイ」を性的指向の記述として使っているのか、それとも歴史的・社会的アイデンティティとして使っているのか**を区別して読むことが重要です。この区別を明確にしないことが、多くの議論のすれ違いを生んでいる原因の一つだと言えるでしょう。
「クィアとして読む」というときの「異性愛規範を攪乱する」のが「クィア概念」ということに問題を感じます。
①異性愛概念を攪乱するのは、「クィア」だけなのか。
②異性愛規範を攪乱するのがクィア概念であるのならば、異性愛規範がなくなれば、”クィア”と言う概念はなくなるのか。
③同じことですが、むしろ”クィアと言う概念”を主張したために、異性愛規範なるものを捏造することはないのか。
④そもそも異性愛規範を攪乱することに「何の意味があるのか?」、異性愛規範を攪乱するとは「何をして、どうすれば」、”異性愛規範を攪乱した”ことになるのか?
⑤これまで多くのクィア研究者が「異性愛規範を攪乱してきた」とすれば、異性愛規範は漸進的に縮減しているはずです──このことについては調査あるのでしょうか?
僕は「こういうこと」を「わかりやすく適切に明示し、検証」しないと納得できません。
あなたが挙げた疑問は、実はクィア理論に対して哲学・社会科学・歴史学の内部からも繰り返し提起されてきた論点です。特に、概念がどのように定義され、どのように経験的に検証できるのかという点は、理系的な発想では非常に重要になります。
以下では、あなたの5つの疑問を順番に整理します。
まず前提:「異性愛規範(heteronormativity)」とは何か
クィア理論でいう「異性愛規範」とは、単に
多くの人が異性愛者である
という統計的事実ではありません。
通常は、
「社会制度・文化・法律・教育などが、異性愛を自然・正常・標準として扱い、それ以外を例外視する構造」
を指します。
例えば
-
男女を前提とした結婚制度(同性婚導入前)
-
「将来は異性と結婚するでしょう」と子どもに当然視する文化
-
男性・女性という二元的性別を前提とした制度
などをまとめて「異性愛規範」と呼びます。
つまり
「規範(norm)」
とは
「社会的期待」
という意味です。
① 異性愛規範を攪乱するのはクィアだけなのか?
これは論理的には NO です。
実際には
異性愛規範を揺さぶるものは数多くあります。
例えば
-
同性愛運動
-
バイセクシュアル運動
-
トランスジェンダー運動
-
ジェンダー平等運動
-
独身主義
-
非婚
-
DINKS
-
ポリアモリー
-
アセクシュアル
など。
つまり
「異性愛規範を揺るがす」
こと自体は
クィア理論の専売特許ではありません。
むしろクィア理論の特徴は
「異性愛だけではなく、
『正常/異常』
という区別そのものを疑う」
ところにあります。
つまり
Gay運動が
「私たちも普通です」
という方向なら
Queer理論は
「そもそも『普通』って何?」
と問い直す。
② 異性愛規範がなくなればクィアはなくなるのか?
これは非常に面白い問題です。
理論内部でも完全には答えが一致していません。
もし
Queerを
「異性愛規範への抵抗」
と定義するなら
異性愛規範が消えれば
抵抗対象も消えます。
つまり
論理的には
Queer概念も役割を終えることになります。
ところが
実際のクィア理論は
もっと広く
-
あらゆる規範
-
あらゆるカテゴリー
を疑います。
そのため
ある研究者は
「異性愛規範がなくなっても
別の規範を批判する」
と言います。
すると
Queerは
「永遠に終わらない理論」
になります。
ここであなたが感じる違和感は
理系なら当然出ます。
定義が
固定されないからです。
③ クィア概念が異性愛規範を作っているのでは?
これは社会学では
ラベリング
あるいは
カテゴリー形成
として昔から議論されています。
例えば
犯罪学では
「非行少年」
というカテゴリーを作ることで
逆に
非行という集団意識が形成される
という議論があります。
同様に
もし
「異性愛規範」
という概念を非常に広く定義すると
以前は
誰も問題と思っていなかったものまで
異性愛規範として認識される可能性があります。
つまり
概念が
対象を発見するだけではなく
対象を構成してしまう。
これは社会学でいう「構築主義」の典型的なテーマです。
ただし、ここで注意すべきなのは、「異性愛規範」という概念が導入される以前から、同性間の関係が法制度や慣習の上で制約を受けていた事例は多く存在します。そのため、「異性愛規範という概念があるから規範が存在する」のではなく、「既存の社会構造を説明するための概念として提案された」という側面もあります。一方で、その概念の適用範囲が広がるにつれ、何を規範とみなすかまで変化していく可能性は、あなたの指摘どおり検討に値する論点です。
④ 「攪乱する」とは何を意味するのか?
ここが最も曖昧です。
理系の研究なら
例えば
「攪乱」
を
測定可能に定義します。
しかし
クィア理論では
かなり抽象的です。
例えば
ある論文では
ドラァグ・パフォーマンスが
異性愛規範を攪乱すると言います。
理由は
男性/女性という区別が
演技可能であることを見せるから。
別の研究では
同性婚も
異性愛規範を揺さぶると言います。
さらに
ある研究では
非婚も
攪乱です。
つまり
「攪乱」
の操作的定義
(何をすれば攪乱なのか)
は
かなり曖昧です。
これは理系から見ると
再現性が低い
と感じやすい点でしょう。
⑤ 「本当に異性愛規範は弱くなった」のか?
ここは比較的データがあります。
例えば欧米では
1970年代以降
以下のような変化が起きています。
-
同性婚の合法化
-
同性愛犯罪化の撤廃
-
LGBT差別禁止法
-
カミングアウト率の増加
-
世論調査で同性婚支持率の上昇
こうした指標は、各国の法制度の変化や、長期的な世論調査(たとえばPew Research CenterやWorld Values Surveyなど)でも確認されています。
つまり
制度や意識は
確かに変わっています。
しかし
これを
クィア理論のおかげ
と証明する研究は
ほとんどありません。
理由は
因果関係が極めて複雑だからです。
変数が
-
市民運動
-
HIV運動
-
法律
-
メディア
-
インターネット
-
若年世代
など
無数にあります。
つまり
クィア理論だけの効果を
切り出すことは
ほぼ不可能です。
理系的な視点から見た最大の論点
あなたの疑問をまとめると、実は一つの方法論的な問いに集約できます。
クィア理論における主要概念は、どこまで操作的に定義され、経験的に検証可能なのか。
理系では、「温度」「圧力」「速度」のような概念は測定方法が明確です。社会科学でも、たとえば「失業率」や「投票率」は操作的定義が与えられています。
一方で、「異性愛規範」「攪乱」「規範の転覆」といったクィア理論の中心概念は、批判理論・解釈学的な伝統に属するため、必ずしも数量化や実験による検証を主目的としていません。そのため、理論の支持者は「概念の有用性は現象を新しく理解できることにある」と考える傾向があり、批判者は「定義が流動的で、反証可能性や再現性に欠ける」と指摘します。
この点は、「クィア理論が正しいか間違っているか」というよりも、自然科学や実証的社会科学と、批判理論・人文学では、何をもって良い理論とみなすかの評価基準自体が異なるという方法論上の違いとして理解するのが適切です。
そのうえで、もし「異性愛規範を攪乱する」という主張を社会変革の実証的効果として提示するのであれば、どのような行為が攪乱に当たり、その結果どのような測定可能な変化が起きたのかを、できるだけ明確に示すことが求められるでしょう。これは、あなたが求めているような理系的・実証的な評価基準から見れば、ごく自然な要求です。
木下惠介の映画作品を「クィア映画とラベリングする問題」に戻ります。あるクィア映画評論家は、木下惠介作品だけでなく他の映画についても「クィア性がある」ということを論拠に「これはクィア映画である」とラベリングします。しかしその「クィア性」というものは、「そのクィア映画評論家による恣意的な判断に基づている」ことが問題です。「誰の同意を取っているのか」がまったく不明です。
そのクィア映画評論家によれば「異性愛関係にもクィア性がある」とし、したがって、「無数のクィア映画が存在する」ことになります。その場合の「クィア」は「性的マイノリティの総称」でさえありません。
これは「クィア映画として、論じるために」、「クィアを、その都度、恣意的に再定義する」ことに他なりません。それは研究倫理として問題はないのでしょうか?
そして最大の問題は、そのクィア映画評論家は、そのクィア映画批評の中で、自分がラベリングした「クィア映画」に登場するレズビアンやゲイに対して、「レズビアンやゲイの同意なし」に、「レズビアンやゲイを”クィア呼ばわり”する」ことです。こういったクィア映画評論家は、レズビアンやゲイ、その他の人たちが「クィアというアイデンティティを持っていない」のにもかかわらず、自身のクィア映画批評の中で、「レズビアンやゲイとして登場した人物を、クィアとして再定義する」のです。
これは「木下惠介はクィアなのか」と言う問題と繋がっています。そして「クィアというアイデンティティを有していないレズビアンやゲイ」を「クィアと呼ぶ」ことの「倫理的な問題」とつながります。ある映画を「クィア映画として読むこと」が、一般のレズビアンやゲイを「クィアとして再定義する」に繋がっていることが問題なのです。
このプロンプトの「クィア映画批評が現実のレズビアンやゲイを”クィアとして拘束”してしまう問題」として、これまでの議論を踏まえ、論理的に詰め、再構成してください。
「クィア映画」とは誰が決めるのか──映画批評がレズビアンやゲイを「クィア」と再定義してしまう問題
近年、映画研究では「クィア映画(Queer Cinema)」という言葉が広く用いられるようになった。
しかし私は、この概念そのもの以上に、その使われ方に強い疑問を抱いている。
問題は、「クィア映画」という分類が、しばしば映画作品だけを対象とする分析概念にとどまらず、現実に存在するレズビアンやゲイ、あるいは過去の人物までも「クィア」というカテゴリーへ再配置してしまう点にある。
この問題は、木下惠介を「クィア」と呼ぶことの是非とも深くつながっている。
「クィア映画」は分析概念だと言われる
クィア映画研究では、しばしば次のような説明がなされる。
この作品にはクィア性(queerness)がある。
したがって、この作品はクィア映画である。
一見すると、これは単なる批評用語のようにも見える。
しかし実際には、「クィア性」とは何かという定義が必ずしも共有されていない。
ある研究者は同性間の欲望をクィア性と呼び、別の研究者はジェンダー規範への逸脱を指す。また別の研究者は、異性愛関係そのものにもクィア性を見いだす。
その結果、「クィア映画」と呼ばれる作品の範囲は際限なく広がっていく。
ここで生じる疑問は単純である。
「クィア映画」とは、一体誰が、どの基準で決めているのだろうか。
「クィア性」が批評家ごとに変わるという問題
もし「クィア性」の定義が批評家ごとに異なるのであれば、「クィア映画」という分類は、客観的なカテゴリーというよりも、その批評家自身の理論的立場を反映したラベルという性格が強くなる。
もちろん、人文学では解釈の多様性は重要である。
しかし、多様な解釈が認められることと、概念の適用基準が曖昧であってよいことは同じではない。
ある映画が「クィア映画」であると主張するのであれば、
-
「クィア性」をどのように定義しているのか
-
なぜその定義を採用するのか
-
他の定義ではなぜ不十分なのか
を明示する必要がある。
そうでなければ、「クィア」という言葉は、作品を説明する概念ではなく、「クィアとして読みたい作品に貼るラベル」になってしまう。
映画だけの問題では終わらない
ここからが、より重要な問題である。
映画批評の対象は作品であっても、その作品にはレズビアンやゲイの登場人物が描かれることがある。
また、木下惠介のように、作家本人の性的指向について議論されることもある。
そのとき、
この作品はクィア映画である。
というラベルは、
この作品に描かれたレズビアンやゲイはクィアである。
という理解へと容易に接続される。
さらに、
木下惠介はクィア映画を作った。
という言い方は、
木下惠介はクィアである。
という人物評価へと発展しやすい。
つまり、「作品へのラベル」が、「人物へのラベル」へと転化するのである。
「クィア」は本人の自己認識なのか
ここで一つの疑問が生じる。
そのレズビアンやゲイ本人は、自分を「クィア」と考えているのだろうか。
現代でも、「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシュアル」「クィア」は、当事者によって異なる意味を持つ言葉であり、互いに完全な同義語ではない。
実際、自分をゲイやレズビアンとは呼んでも、「クィア」とは呼ばない人は少なくない。
まして木下惠介のような20世紀の日本人について、「クィア」というアイデンティティを本人が採用していたことを示す証拠は知られていない。
それにもかかわらず、批評の中で当然のように「クィア」と位置づけるのであれば、それは本人の自己理解を説明しているというより、批評家自身の概念を過去へ投影していることになる。
「ソクラテスはゲイではない」という議論との整合性
人文学ではしばしば、
「ソクラテスをゲイと呼ぶべきではない」
という議論がなされる。
理由は、「ゲイ」という近代的アイデンティティは当時存在しなかったからである。
もしこの歴史学的立場を採るならば、
「木下惠介をクィアと呼ぶこと」
についても同じ慎重さが求められるはずである。
過去の人物に、その人物自身が持っていなかったカテゴリーを遡及的に適用することは、「現在主義(presentism)」の問題を生むからである。
同じ原則を適用するなら、「ゲイ」という概念にも「クィア」という概念にも、同じ基準が求められる。
研究倫理の問題
ここで論点は、単なる用語法ではなく研究倫理に及ぶ。
学術研究では、分析概念を用いる自由は広く認められている。
しかし、その自由は、対象となる人々の自己理解や歴史的文脈を十分に説明したうえで行使されるべきである。
たとえば、
「本稿では『クィア』を分析概念として用いる。これは登場人物や作者がそのアイデンティティを有していたことを意味しない。」
というような限定を明示することは、読者の誤解を防ぐうえで重要である。
逆に、その区別を曖昧にしたまま「クィア映画」「クィア作家」という表現だけが独り歩きすると、分析概念が人物のアイデンティティそのものを上書きする危険が生じる。
「読む自由」と「再定義する権限」は同じではない
私は、映画をクィア理論から読むこと自体を否定したいわけではない。
作品にはさまざまな読解があり得る。
しかし、
「クィアとして読むこと」
と、
「作品や登場人物、作者はクィアである」
と述べることは別問題である。
前者は批評である。
後者は人物のカテゴリー化である。
この二つを区別しないなら、批評は解釈ではなく、他者のアイデンティティを再定義する営みになってしまう。
おわりに
「クィア映画」という概念は、本来は映画を理解するための分析枠組みとして提案されたものである。
しかし、その概念が現実のレズビアンやゲイ、さらには過去の人物までも「クィア」というカテゴリーへ包摂していくならば、その影響は映画批評の範囲を超える。
重要なのは、「作品をどう読むか」という自由と、「人を何者として呼ぶか」という問題を混同しないことである。
分析概念は有用であり得る。しかし、その概念が現実の人々の自己認識や歴史的文脈を上書きし始めるならば、その適用の仕方そのものが批判的に検討されるべきではないだろうか。
この形であれば、論点を「映画批評の自由」ではなく、「分析概念が現実の人物のアイデンティティをどこまで再定義してよいのか」という研究倫理・歴史記述の問題として提示でき、木下惠介の事例から一般的な議論へと展開しやすくなっています。
【関連】