The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

確率的ペドファイル クィアの中のペドファイル判定法

 

世間体を取り繕ったスローガン「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」

 

クィアクィア理論」を全否定する僕が言うのもなんだが、「クィアクィア理論」って「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊(ゲイル・ルービン)」を謳っておきながら、情勢が変化すると世間体に阿って「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」と軌道修正するようだ。しかしその軌道修正は恒久的なものなのか、それとも「情勢」に対処しただけの一時的なものなのか、それをきちんと見極める必要がある。

僕が「クィアクィア理論」を問題視してきたのは「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が、まさに「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジックを持つ」からで、実際に「このロジック」がペドフィリア擁護に有効に使用されているはずだ。そして重要なのは「このロジック」が「あなたがクィアならば……だからペドフィリアを排除してはいけない」という形で恫喝的な効力をもつことだ。相手をダブルバインドに追い込み、「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」以外、選択しようがない仕掛けになっていることだ。

だから「クィアペドフィリアを排除する(クィアにペドは含まれない)」のならば、「正常と異常の脱構築は必ずしもできない」「欲望の線引きはある程度の精度で可能である(分類できる)」「そもそも性の序列なんて詭弁」が導かれるはずだし、「クィアクィア理論」のインチキ、詐欺性、何よりも「他人を勝手にクィアに包摂する」危険性、カルト性を訴えてきた僕にとっては望むべき帰結だ。実際「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」の対偶を取れば「ペドフィリアを擁護しないのであれば、あなたはクィアではない」になる。

 

 

ペドフィリアクィア(理論)の射程圏内」にあるが「実在するペドファイルの居場所はクィアという集合の中にはない」というのは本当か?

 

 

以前、珍しく顔出しでペドフィリアであることを公言していた人(だからそれなりに界隈に知られていた)が「これからはクィアを名乗る」と宣言したことを覚えている人も少なくないはずだ。

「非規範的な性という極めて曖昧なクィアの定義」とともに「クィアクィア理論」の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーは「ペドファイルを引き寄せ呼び寄せる」のに十分な効果をもっているのではないか。

 

注意しておきたいのは「クィア理論は〈ここ〉まで射程を広げている」と発言することは、「〈そこ〉にいる該当者」に向けて何かメッセージを送っていることも含んでいる、と言えることだ。同じことだが「〈αのその先へ〉、という議論」は「αのその先の、さらに先の、またさらにその先の……〈その極限〉へ向かう議論」を含んでおり/それを目指していることも、やはり注意しておくべきだろう。

https://hodge.hatenablog.com/entry/2022/10/28/024407

 

クィアペドフィリアが含まれる」のではなくて「曖昧なクィアの定義」と「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーによって、「クィアの中にペドファイルが紛れ込みやすい構造になっている」、むしろ「意図して、その中にペドファイルが紛れ込みやすい構造を採用している」と言ったほうがいいかもしれない。

 

チェスタトンの言葉が浮かぶ。「木の葉は森に隠せ、そして死体を隠すために、戦争を仕掛けろ」と。

クィア理論は、いったい、誰を利しているのか。できるだけ多くの人を──その意に反して──「外国の侮蔑語」で十把一絡げにまとめあげ、「共同戦線」を呼びかけることによって、どんな「セクシュアリティX」が利するのか。

 

AがBの利害に反するようなやり方でBに影響を及ぼすときAはBに権力を行使する - HODGE'S PARROT

 

そしてこんなことは少し考えればわかるはずなのに、「知っているのに、知らない振りをしている」クィア界隈の様子が薄気味悪くて仕方がない。これはジャニーズ事務所での性加害について「薄々気がついているのに、知らない振りをしてきたこと」と似ている。

 

 

確率的ペドファイル

 

クィアクィア理論」に特有の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジック」であるならば、「このロジック」を好んで採用する者は何者なのかが次の問題になる。注意を払っておきたいのは、「このロジック」が使用されるとき、「必ずしも、そのときペドフィリアに言及するとは限らない」ということだ。時間的なズレがあり、その時間的なズレを利用するのだ──ペドフィリアに言及しないで「このロジック」が使われ(例えばかつての同性愛の状況を説明するときなど)、「それに同意させておいて」、後で「ならば、〈同じように〉、ペドフィリアを擁護すべきだ」というダブルバインドに追い込む形で。


先日書いたようにアンドリュー・ヴァクスの著作から学ぶべきことはペドファイルLGBTの権利活動を狙い、正体を隠して紛れ込み、オルグし、同性愛等とペドフィリアを同列・同一視することを画策していることに危機意識を持つことだ。

クィアの中に紛れ込んだペドファイル」の手法が「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」ならば、「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」である確率は、そうでない者よりも高くなるはずだ。さらに「この手法」とは別に、別の記事などで「意外な形でペドフィリアに言及していること」も、その確率をより高める材料になるだろう。

素数判定法のように「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」かどうかを見当付けられる──「クィアの中のペドファイル判定法」。ただし重要なのは「この手法」を使う者は、そのとき必ずしもペドフィリアに直接言及しない場合もあることだ。

たとえそのとき直接的にペドフィリアに言及しなくても「この手法」を使用する者の最終的な目的、「その極限」は「ペドフィリア擁護」だということを、ある程度の確率で示していることを常に念頭に置き、常に警戒すべきだろう。

 

 

 

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