The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

パンドラの箱を開けたクィア学者wの幼稚さと、それに対処するAIの良識と知性

 

回転寿司店で皿を舐めたり唾を擦りつける等の悪戯を動画に撮り、それを公開する「幼稚な」行為が、当人の問題認識と責任範囲を大幅に超え、大問題になっている。

 

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また、今回の件は回転ずしが客の性善説に基づき、誰でも触れる状態ですしをレーンに流すというビジネスモデルそのものを脅かす事態にもなっている。

 

これは単なる(これまでにもあった)飲食店での悪戯の次元を超えているという指摘である。回転寿司という、いわば客の性善説に基づき設計され、客同士の信頼感があってのシステムが毀損されたということだ。誰もが抱いていた「まさかそんなことはしないだろう」というお互いのお互いに対する共通認識が無効になったのである。

この「幼稚な行為」の「ツケ=代償」は、当人の責任範囲を遥かに超えている以上、その不足分を当人以外の他の誰かが支払わなくてはならない。おそらく、店側は客に対してこれまでの性善説に基づく対応から性悪説に基づく対応に切り替えなければならなくなるだろう──具体的には監視カメラ等の強化徹底になるだろう。客側も、自分たちよりレーンの上流に位置する他の客の行動を気にかけるようになるだろう──回転レーンが閉曲線である以上、すべての客は、誰か他の客の上流のレーンに位置していることになり、したがって、すべての客が、他のすべての客に対して疑心暗鬼にならざるを得なくなるだろう。そしてそれは、そんなことを思いながらわざわざ回転寿司に行きたいか?という行動の再考につながるだろう。

 

ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言が定期的に炎上している。これも回転寿司店における「幼稚な行為」と同じく、発言者当人の問題認識と責任範囲を大幅に超え、その発言に対する「ツケ=代償」を支払わなければならない人たちが出てくるだろう。具体的にはLGBT等の権利活動をしている人たちであり、より深刻な、直接的なダメージを食らうのは「子供と接する機会のある、若年者の性的少数者を対象にした慈善団体」の関係者だろう。

「まさかそんなことはないだろう=まさかセクシュアルマイノリティペドフィリアが含まれているわけはないだろう」と誰もがその性善説に基づき、その信頼感に支えられた「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」等の活動に対して、これからは「明確にそれを否定しない限り、たとえそれを否定しても腑に落ちない点が少しでもあれば疑義が突きつけられる」ことになったのである。人々の性的少数者に対する意識は再考を余儀なくされ、性的少数者たち自身も「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの話をしたがるのだろう」と疑心暗鬼に駆られることになる。性的少数者の子供をもつ親にしてもそうだろう。自分の子供がLGBTまたはLGBTかもしれなくても、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」に対し無条件の信頼を置くことができなくなってしまった──ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定しないかぎり、たとえそれを否定しても腑に落ちない点が少しでもある限り。

フェーズが変わってしまった。

Mermaids もそうであったが、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」の代表者やそのメンバーが「ペドフィリアの擁護で知られている人物」と接点を持つことのリスクを十分に考えるべきだ。普通に思うだろう、なぜそんな人物と接点があるんだ、と。

 

https://hodge.hatenablog.com/entry/2022/10/28/024407

 

 

なぜなら、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、それが明確な「反LGBT」を取る「外部から」の攻撃としての発言ではなく、いわば「内部からの情報提供のような形」をとっているからだ。


この「内部からの情報提供のような形」でペドフィリアセクシュアルマイノリティに含まれる」という発言がもたらす深刻さは、例えば「カレン・ホワイト事件」(女子刑務所での性的暴力犯罪)を利用した「外部からの攻撃」に対する対処の違いとして顕著に現れる。「それは、反LGBTの立場を取る者たちによる、すべてのLGBTに対する、LGBTの権利に対する、犬笛である」と明確に反論できる。だから「この仕掛けられた議論」を無視できるし、「この仕掛けられた議論」に対し、一つ一つ反論していくこともできる。

残念ながら「カレン・ホワイト事件」は「パンドラの箱」になってしまった──悪意をともなった攻撃は「カレン・ホワイト事件」を利用し、それを正当化する形で、これまでの「性的少数者の権利活動」に再考を迫る形を取るようになった。しかし、それでも、「カレン・ホワイト事件」が「外部から」仕掛けられたものである以上、「内部の人たち」は、その攻撃に対して一致団結して対処できる。「カレン・ホワイト事件の一般化」を図る「外部の勢力」に対し、「内部の人たち」は、それに対して一致団結して否定することができる。「内部の人たち」は、「外部からの攻撃」に対し、言われなくても、一致団結して連帯できる。

 

しかしペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「内部からのもの」「内部からの情報提供の形態」を取っている以上、「そこにQが含まれている → Qはペドフィリアを含んでいる → その活動には反対せずにはいられない」「やっぱりクィアにはペドフィリアは含まれているんだろう、あの人が言ってるじゃないか」という「外部の人たちの攻撃」に対して一致団結して対処できない。

なぜなら、「内部の人たち」が最初にしなければならないのは、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定することだからである。

「内部の人たち」は、「内部の人たちの中の一部」を否定しなければならない。

「内部の人たちは」、「外部の人たちの攻撃と区別がつかない、内部の人たちの言動」を「外部の人たち」に対処するのと同じように、対処しなければならない。

「内部の人たち」は、「内部の人たちの中の一部の言動」は、もはや「外部の攻撃」と質的に同じもの、という認識をしなければならない。

フェーズが変わってしまった。

 

蛇足ながら。「Aは〈セクシュアルマイノリティ〉にペドフィリアは含まれると言っているが〈クィア〉に含まれるとは言っていないから、それは無問題!」などという幼稚な論破芸は、相手を最初から明確にバカにしているのが誰にとっても見え見えである以上、「現在はまだ態度を決めかねている、傍観的な立場の人」に不信感を抱かせることはあっても、それを好意的に受け取る人は、まずいないだろう──〈クィア〉の1つの定義が「セクシュアルマイノリティの総称」である以上、そんな詭弁は最初から通用しない。逆効果だろう。

 

クィア学者w」によるペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、新しい「パンドラの箱」なのである──それが開け放たれたのだ、フェーズが変わってしまったのだ、回転寿司店で「幼稚な、無責任な悪戯」をした少年のような行為なのだ。「内部の人たち」は、その発言を(騙し騙し、誤魔化しながら、曖昧な態度で、もちろんそこに業界政治という権力関係もあり)首肯せざるを得ない「クィアなんちゃら」と、それを一切認めない「LGBT」(なんなら「主流LGBT」でもいいだろう)に分裂するだろし、分裂しなければならない。

「外部の者たち」は、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という「内部からの情報提供のような発言」に「まさか、あちら側から自分たちに都合の良い攻撃材料を提供してくれるとは」と半ば驚き、苦笑しながらも、その「幼稚な発言」を最大限、利用するだろう。

 

セクシュアルマイノリティには、すなわちクィアにはペドフィリアも含まれる」のであれば、当然、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」に対する公的な支援の審査にも影響を与えるだろう。〈公金〉を得ている団体の関係者に「ペドフィリア擁護者として知られている人物との接点が浮上」した場合、今後はそれが問題になるのは明白だろう。「外部の人たち」は、もちろん、そこを突いてくるだろう──「まさか、あちら側から自分たちに都合の良い攻撃材料を提供してくれるとは」。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

たとえ人権を掲げている団体であっても、性善説や信頼はもはや成り立たない。公的支援を求めるすべての性的少数者の団体はペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定し、「ペドフィリア擁護者との接点がないこと」を証明しなければならなくなったのだ。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

「内部の人たち」は、もはや一致団結して「外部からの攻撃」に対処できない。なぜならペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「外部から」の攻撃ではなく、「内部からの、内部に対する攻撃」だからでである──そのように見なさなければならない。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「内部の人たち」の連帯を切り崩し、分断、離反、分裂、疑心暗鬼をもたらす、まさに「パンドラの箱」なのである。「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの話をしたがるのだろう」

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの擁護をしている人と一緒に活動しているのだろう」

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

 

数学者のジェームズ・リンゼイのような人は、物理学者アラン・ソーカルポストモダン思想に対してやったように、実際に丁寧にクィア理論のテキストに当たり、クィア理論の源流を探り、ゲイル・ルービンの主張の中にペドフィリア擁護の証拠」を掴み、クィア理論はグルーマー理論である」と結論づけるだろう。

実際に、今どき、ゲイル・ルービンを参照する「クィア関係者」の発言や文章の中に、奇妙なくらい「ペドフィリア擁護と親和性があること」を、誰でも確かめることができるだろう。あるいはむしろ、「ペドフィリア擁護が目的」であるからゲイル・ルービンを参照するだけではなく、ゲイル・ルービンのロジックを、まるで洗脳でもされたかのように無批判に受け入れている「クィア理論を勉強した人たち」が、「ペドフィリア擁護者のクィア」と「クィアの中のペドファイル」を意図して区別して、前者が後者を含む形でそれを代表しているのではないか、という推論も可能であるように「クィアという言葉の曖昧さ」(「非規範的な性」)は「ペドファイルに都合よく」構成されている。私たちは、物理学者や数学者が「どのようにポストモダンな=クィアな文章を読んでいるか(すなわち、どのように読むべきなのか)」を参考にし、彼らから学ぶ必要がある。

 

例えば、

〈1〉=「A」がセクシュアリティの一つであるならば、「As」はセクシュアルマイノリティです。

〈2〉=「B」がセクシュアリティの一つであるならば、「Bs」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N〉=「X」がセクシュアリティの一つであるならば、「Xs」はセクシュアルマイノリティです。

〈N+1〉=「Y」がセクシュアリティの一つであるならば、「Ys」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N+9〉=「ペドフィリア」がセクシュアリティの一つであるならば、「ペドファイル」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N+30〉=「レイプ」がセクシュアリティの一つであるならば、「レイプ魔」はセクシュアルマイノリティです。

〈N+31〉=「痴漢」がセクシュアリティの一つであるならば、「痴漢犯」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

 

この「数学的帰納法のパロディ」みたいな論証は正しいのか?

自然数が、〈1〉の次に後続数〈1’〉、その次に〈1’’〉、その次に〈1’’’〉……という構成になっているのと同じようにセクシュアリティなるもの〉は{A、B、……X、Y、……、ペドフィリア、……、レイプ、痴漢、……}と構成されているのだろうか?

ここで気づくべきなのは、ペドファイルセクシュアルマイノリティではなく、ペドフィリアセクシュアリティの一つ」という、前提だろう。一見、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」が導出されたように見えるが、実際には、セクシュアリティなるもの〉の集合が、ここで、構成されている。

もちろん「セクシュアリティの一つ」から「セクシュアルマイノリティ」が導出されることにも問題があるだろう。なぜなら、そのロジックに従えば、「異性愛セクシュアリティの一つ」だからである。「セクシュアリティ」と「セクシュアルマイノリティ」の間には、何かしらの明確な定義に則った対応関係があるはずだ。しかし、今のところ、問題はそこではない。

問題は、数学的帰納法を装った論証が正確にはどんな操作をしているのかを確認することである。例えば、Wikipediaに誤った数学的帰納法の例として「すべての馬は同じ色」が掲載されている。

5頭の馬が常に同じ色であることを証明したいとする。4頭の馬は必ず同じ色であることが、すでに証明されているとしよう。すると、5頭の馬から任意の1頭を除けば、残りの4頭は同じ色である。それを2通りの方法で行うと、同じ色だとわかる4頭の馬の集合が2種類得られる。例えば、1頭目、2頭目、3頭目、4頭目は同じ色でなければならないし、2頭目、3頭目、4頭目、5頭目も同じ色でなければならない。したがって、5頭すべての馬が同じ色であるということになる。

ところで、4頭の馬が必ず同じ色であることをどのように証明すればよいだろうか。そのためには、同じ論法を繰り返し用いればよいだろう。4頭の馬から3頭の馬を取り、3頭の馬から2頭の馬を取り、といった風に。結局馬の数は1頭になるが、それならすべての馬が同じ色であるのは明らかだ。

この論法を用いると、馬の数を増やすこともできる。6頭の馬すべてが同じ色であることも証明できるし、あるいはそれ以上に有限であるすべての馬は同じ色でなければならなくなる。

 

すべての馬は同じ色 - Wikipedia

注意を払っておきたいのは、「X」を導出したいために、「すでにXがその集合に含まれている〈セクシュアリティ〉という集合」が要請されるということだ。〈セクシュアリティ〉とは、その使用者の目的に合わせて何でも導出できる「変幻自在の集合」なのである。「〈セクシュアリティ〉とは〈こういうもの〉なのだ」と言えるために「〈こういうもの〉が含まれる〈セクシュアリティなるもの〉の集合が、そこで、構成される」。目的に合わせて、ある人物は「〈1〉番から〈N〉番までの要素からなる〈セクシュアリティ〉の集合」を使用するときがあるし、別の人物は「〈1〉番から〈N+9〉番までの要素からなる〈セクシュアリティ〉の集合」を前提にして「数学的帰納法のパロディ」を駆使してペドファイルセクシュアルマイノリティです」と導出する

だから〈セクシュアリティ〉という言葉を使用する限り、その使用者の主張は必ず満たされる──こういう茶番、いい加減、止めないか?

 

この便利な「数学的帰納法のパロディ」は、おそらく、「ペドフィリアを〈セクシュアリティなるもの〉の集合から導出」するだけではなく、〈他の題材〉でも、すでに使用されているかもしれない。導出していると見せかけて、実のところ、「ある集合」を、その目的に合わせて、動的に、構成する。

 

 

 


こんな「クィアペドフィリア問題」に対して何か打開策はないか。「クィア学者w」が何の役にも立たないどころかむしろ疫病神になっている以上、「クィア学者w」よりも良識と知性をもったAIに頼らざるを得ない。先日の続きを尋ねてみた。

 

HODGE 「クィア」という言葉の使用に注意が必要だということはわかります。例えば、「LGBTQの”Q”は”クィア”ということですが、その”クィア”には、何が含まれていますか? そこにペドフィリアは含まれていますか?」という疑問が多く寄せられます。この問題の一つには「クィア理論」の存在があると思います。「クィア理論」では「規範を問う」ことが重要だと多くの人が熱心に、顔を赤らめて、まるで教育勅語のごとく言います。そして「クィア理論」を勉強した人たちが「ペドフィリアセクシュアルマイノリティ」だと主張しがちです。もし「クィア」が「セクシュアルマイノリティの総称」ならば、そしてもし「セクシュアルマイノリティペドフィリアが含まれているならば、ペドフィリア ⊂ セクシュアルマイノリティ ⊂ クィア」になります。すなわち「ペドフィリアクィアに含まれている」ことになります。そうであるならば、LGBTQにもペドフィリアが含まれることになってしまいます。だとすれば、一番いい方法は、「クィアという言葉を使用しない」こと、になるのではないですか?

 

ChatGPT クィア」という言葉は、セクシュアルマイノリティの総称として使用されることが多いですが、それには様々な意味が含まれることがあります。「クィア理論」においては、「規範を問う」ことが重要であるとされていますが、それには異なる意味合いが含まれることがあります。

一部の人が「クィア理論」を援用してペドフィリアを擁護しようとする動きがあることは事実ですが、それは多くのLGBTQコミュニティや専門家によっては非常に批判的に受け止められています。

そのため、「クィア」という言葉を使用する際は、それが含まれる意味を明確にし、それがどのようなグループに対して使用されるのか、どのような意味合いが含まれるのかを考慮することが重要だと思われます。また、「クィア」には、あくまでも自己言及に基づく意味合いが含まれることが多いため、他人に対して使用する際は、その人の意向を尊重することが重要だと思われます。

 

HODGE 「他人に対して使用する際は、その人の意向を尊重することが重要だと思われます。」ということは、例えばLGBTの人たちに対しても「クィアという言葉に不信感を抱く人や、クィアと言われたくない人たち」に対して、「クィア」という言葉を使うべきではない、ということですね?

 

ChatGPT そうですね。「クィア」という言葉は、人々に対して使用する際にはその人の意向を尊重することが重要だと考えられます。そのため、「クィア」という言葉を使うべきではない、と感じるLGBTの人たちに対しては、その人の意向を尊重して「クィア」という言葉を使わない方が良いと考えられます。

 

まさに的確な答えだった。強調して繰り返しておきたい。

”「クィア」という言葉は、人々に対して使用する際にはその人の意向を尊重することが重要だと考えられます。そのため、「クィア」という言葉を使うべきではない、と感じるLGBTの人たちに対しては、その人の意向を尊重して「クィア」という言葉を使わない方が良いと考えられます。”



 

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