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The Reverberator

メモ用

「平等法」と「表現の自由法」は衝突へ向かっている。世界中において、「表現の自由」保障は、社会的不平等の問題や大幅な法的平等が必要であることなどに真剣に取り組むことをせずに発展してしまった。

子どもへの性的虐待とセクシュアルハラスメント問題

「平等法」と「表現の自由法」は衝突へ向かっている。世界中において、「表現の自由」保障は、社会的不平等の問題や大幅な法的平等が必要であることなどに真剣に取り組むことをせずに発展してしまった。平等と表現のあいだに存在する緊張は、アメリカにおいて特に際立っている。アメリカでは、その両方が高度に発達しているのに、お互いが見えなくなってしまっているからだ。


表現保障とつりあうような文脈や標準を提供するような平等保障条約はもともとアメリカ合衆国憲法には含まれていなかった。現代の「表現教義」は、修正第十四条(1868年)の「平等」が確立されてからかなり後にできたものにもかかわらず、修正第一条(1791年)の「表現」を解釈するときには今でも、少ない例外を除いて、修正第十四条は完全に無視される。ヨーロッパでは、平等と表現は同等なものとして最初から欧州議会に含まれてきたが、それでもお互いを意識してはいないし、少なくともそうしたというはっきりした証拠も見られない。


アメリカでは、表現を守ることは平等とは全然関係ないかのように、また平等を守ることは表現とは何の関係もないかのような形で、表現の自由法は発達してきた。再建法(脱退した南部の諸州を南北戦争後合衆国に統合したこと)を生んだ激動の南北戦争時代に「表現の自由」の基盤は大きくゆれ、新たな規制や拡大がなされ、さらに「表現の自由権」の再構築への要求が高まったが、現在ではこれらのことはすべて起こらなかったかのように見える。修正第一条の関係した平等の扱い方といえば、消極的(つまり「批判」や「視点」を規制する法律は作らせないという姿勢)であり、かつ形式的なもの(特定集団または特定利益のために保障された表現は他の集団または利益のためにも同様に保障されること)である。ようするに、あまり焦点が定まっていないのである。アメリカの修正第一条の平等保護を唱えている部分は、判例と法規制をそのまま拡大しただけのものであり、教義の平等が浅い表現を支えている。そして、修正第一条の下では「不平等」が「表現」の形さえとればいつでも不平等な表現が保護されたり、表現を支配する権力の問題はまったく考慮されない、といった状況なのに、他方修正第十四条について言えば、平等は達成可能だと解釈されるのである。


表現手段が引き起こす害や、一部の人が他の人よりも言論を所有しやすいという事実に対して言論法の中に何らかの対策を講じている国はどこにもないが、アメリカはその中でも最悪の部類に入る。以上のことが理解されていない場合、言論を持っている人たちの権力は、それが法の保護を受けるにしたがって、増々独占的、威圧的、暴力的になってしまう。そして「言論を支配している人たちは、言論を支配しない従属的地位にある人に対して、従属的地位の人の力が弱ければ弱いほど抑圧的になり、また言論を支配している人は自分たちの言論を守ることによって増々支配的になり、同時に従属的にある人間の声は増々聞こえなくなる」という、二つの問題のあいだの関係は全然理解されなくなる。


「平等」と「表現」の関係についての問題の枠組みは、憲法上二つの重要な問題のあいだの「バランス」の問題、つまり片方の権利を享受できない場合にもう一つの権利を有効的に享受できるかどうかの問題としてではなく、「表現の自由」権への侵害が許容可能な範囲かどうか、またいわゆる「平等」のために「自由」が犠牲にされるべきか、という問題設定になっている。憎悪犯罪(差別に基づいた憎悪によって引き起こされる犯罪)、大学内ハラスメント、ポルノグラフィに関するアメリカにおける平等を推進するための関連法律は、それが「表現」に対して損害を与えるか、または与えないか、という点においてのみ批判されたり擁護されたりする。一方、教育における人種間分離、それにともなう識字の問題や沈黙等の問題は、完全に平等上の枠踏みでのみ扱われ、これはまた表現に対する制度上の障壁であるとか、よってこれは修正第一条の侵害であるとしては扱われていない。


今まで修正第一条の「表現」と修正第十四条の「平等」が憲法議論として議論されたことはなかった。その理由は、両方とも積極的というよりは消極的に解釈されており、社会変革のためにこれらの法律を使うというのでなく、これらの法律によって政府による侵害を禁止しようというものであった。そのため、政府が何もしないときも何かしたときも(後者のほうが影響は強いが)、両方の法律とも「消極的に解釈」されてきたのが現状である。また、連邦平等法は修正第十四条により明確に権威を与えられているにもかかわらず、そうは見えない。そして、社会的不平等について州が策を講じるときも憲法を持ち出す必要はないので、よって憲法が持ち出されるのは憲法侵害が訴えられたときのみである。


このように両方の法律が相手を無視して解釈されるので、双方が関連しているという共通理解を確保することは事実上不可能になってしまった。たとえば、「ニグロ」という蔑称を使用することと、アメリカで毎晩空腹のまま床につく子どもの数が一番多いのはアフリカ系アメリカ人であるという事実との相互関係、また「カント」という言葉の使用と体を売っているのはほとんど女性である、ということとの相互関係などである。これでは、奴隷に読み書きを教えることを犯罪とした奴隷法や、黒人の子どもが読み書きを学ぶことができない学校の現状など、彼らの言論の自由を奪っている現実を理解することはできない。また人種差別主義者または同性愛嫌悪などを示す中傷などについての苦情処理を合法的に排除していることは、すなわち、教育の平等を政府が否定することになるのだ、ということが理解できなくなる。平等と言論の自由の基盤となる考え方とそのたどる道のあいだの緊張や交差点は未だにはっきりとは見えておらず、そこでは平等は存在しておらず、言論は平等ではない。


キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』 (『Only Words』)、柿木和代 訳、明石書店 p.93-96 

 

 

ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で

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