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EFFORTLESS FRENCH

「被害者の責務でしょう、あなたたちがやらないと変わりませんよ」 ~ 「泣き寝入り」という言葉の暴力

現代思想』(1997年12月号、青土社)に掲載された、弁護士の角田由紀子氏と翻訳業の原美奈子氏との対談「性暴力と法」より。

 たとえば性暴力の場合、告訴率が低いとか、それ以前に被害者が警察に届け出ないから、泣き寝入りをしないで警察に訴えて下さいとよく言われる。でも、たとえば現実に被害者が交番に行った時に、その時の当直の警官がまず振るい分けているんですよ。公務員である警官が追い返したり、取り合わないくせに、数字が低いなんて、よく言うなって思います。たとえば口頭での訴えや、届け出はあったんだけれども、告訴に至らなかった件数を記録する受け皿をつくってほしい。別に皆が皆、裁判したいと思わないだろうし、そんな義務はないわけだから。だけど、一応、どれくらい加害が発生しているかということを知る目安にはなるでしょう。個々の担当者に聞けば、こういうことはあったけれども、こんなのは事件にもならないから帰したよ、ということはよくあるわけです。

 現実に言いに行ったって、何の数字にもならない、公にならない、それこそ生活レベルで握りつぶしているものがたくさんあるにもかかわらず、あたかも届け出がないかのように、話がうまくすりかわっている。これは福祉と同じで、窓口になっている人たちが、沢山の人を追い返す構造がちゃんと機能しているんです。特にストーカーや未遂の場合にそれが顕著です。そういうこともちゃんと調べていかないとだめですね。

 

角田 訴えに行けないような仕組みをつくっておいて、来ない方が悪いというのは、本末転倒ですよね。

 

 訴えないほうが悪いということにしてしまえば、自分たちの責任は問われないんですよ。「被害者の責務でしょう、あなたたちがやらないと変わりませんよ」って。その巧妙さというのはなかなか見破れないくらい、何層にも重なっている。

 

角田 最後には当事者に責任があるかのようになってしまう。司法制度を改革するのは当事者の責任なのかしら。それはちょっと話が違うんじゃないかと思うんです。

 

 社会にぽんと荷物を渡された当事者は、みんな真面目だから頑張ってやるわけだけど、根本的に逆じゃないかと思うんです。それも、私たちが税金を払ったあげく、なぜ無償でやるのかと矛盾を感じながらも、選択の余地がないから自主的にやるわけでしょう。一生懸命考えているからこそ、やらないでいるのは難しいですよね。下働きはさせて、メリットは自分たちがとって、実質的には手を抜いて、それは不問にして、ということが何層にもあるんです。


(中略)


 そこで、泣き寝入りという言葉、この言葉が今どういう形で被害に遭った本人を圧迫しているかにフォーカスを当てたいと思うんです。被害に遭った人は大人でも子どもでも必ず周囲にさまざまなメッセージを出しているんです。それを受けとめなかったり、無視したり、とがめたりする大勢の人々がいてはじめて、「泣き寝入り」という状態が引き起こされるのに、その責任は誰もとらないで、被害に遭った人にすべての責任をほうり投げる。
 もちろん被害に遭ったほうは何とかしたいし、選択の余地はそれ以外にないから、一生懸命責任を果たそうとします。届け出をして、告訴をして、そしてなおかつ、きちんとやった人と、最後までやらなかった人のように選別したり、まるで受験の合格、不合格のように振り分ける言葉として、「泣き寝入り」が使われている。
 本来はそうじゃなかったと思うんです。でもやっぱりそういうふうに使われていく。そうすると使う方もだんだん自覚なしに、あたかも泣き寝入りするのが悪いことのようにインプットされていくから、どんどん使っていく。そうすると、たとえばお巡りさんのほうに問題がある場合でも、まるで被害にあった者は何もしていない無力者のように言われる。ひどいときには被害者が届け出ないから累犯者が出るなどと、加害行為まで被害者のせいにするんです。でも、実際はいろいろしているわけですよね。
 だから物事をそうやって図式化することは、被害に遭った当事者をものすごく圧迫する。もっと周囲が気づいて違う言い方に変えていかないと。もっと細かく見ていかないと、ちょっとしたことで圧迫されて、結局、レッテルを貼られて終わりです。泣き寝入りを強いられるのはいやなのね、もちろん。


角田 でも、泣き寝入りする自由はあってもいいという感じがしますよ。

 

 もしその人が「泣き寝入り」したいのならば、たとえ他のことを何もせずにただ泣いていたとしても、それは本当にその人にとって必要なことなんです。そこの所ははっきりしておかないと、分断されて、被害者に序列ができてしまうんですよ。

 

角田 正しい被害者のあり方という感じですね。泣き寝入りをしないのが正しい被害者の対処の仕方ですというのは、たとえば裁判官が判決の中で、被害者というのはこういうふうに行動するものだというステレオタイプのことを言っているのかと、どこかで共通しているんですよね。

 

 どうしてそういうことが起こるんだろう。泣き寝入りしないようにと言っている人だって、むしろ問題を解決したいと思ってサポートしているつもりで、そういう言葉を使っていると思うんです。だけど結局、圧迫になっているという面があるわけでしょう。泣き寝入りするのは正しくないんだというメッセージにどこかですり替わっていくのはなぜなんだろう。

 

 抽象的な「被害」というもの、被害とはこうあるべきだというのは本来ないわけですね。現実から出発して、この被害はこういうものなんだという話を聞いて初めて、じゃあこういう時にどうしようと試行錯誤の中で解決していくものだと思うんです。いろいろな状況のいろいろな被害があるわけだから、それはすごくエネルギーもかかるし、大変でしょう。そうすると面倒くさくなってしまう。そして、いつのまにかあるべき被害者像や、だいたいこんなもんだろうという被害者像ができる。個別に見ることの意味を実感できないうちに一般化してしまうのではないか。 

 

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