……現段階では、視聴によってもたらされた被害を訴えてゆくことは、必ずしも容易なことではない。性暴力映像が視聴者にもたらす被害または被害の認定という枠組み自体が、社会的にまだ存在しておらず、そのような被害を理解してもらうことは困難だからである。よって、映像視聴による心的被害という概念や枠組み自体を構築してゆくことが必要である。
暴力的映像を視聴することによって、視聴者にいかなる行動変容がもたらされるかに関する研究は存在する。具体的には、暴力的映像が視聴者の暴力的行動を誘発するか、逆にカタルシス効果を発揮して沈静させるかといった視点からの研究や議論である。しかし、暴力的映像が視聴者に対してもたらす被害について言及している文献は、寡聞にして見つからなかった。
参考になる情報があまり存在しない中で、「二次的被害によるPTSD」という概念が、自分自身の陥った状況を説明してくれるように思えた。
これは、事件に直接巻き込まれた被害者本人の受けた被害を見聞することによって、第三者にも二次的被害がもたらされ、PTSDを発症するという現象である。具体的には、レイプ被害者の家族や友人、何か心に刻まれるような動揺させられるような出来事を目撃した人たち、警察官や救急隊員などトラウマとなる可能性のある事件や出来事を扱っている人たち、レイプ被害者などの治療にあたる医療スタッフやカウンセラーなどが、二次的被害によるPTSDとなる場合があるという。
”重大な犯罪の一例として、ある若い母親がレイプに遭ったケースを見てみよう。もっとも影響を受けるのは、当然ながらレイプされた若い母親自身である。
しかし、彼女の家族や友人は彼女に同一化し、同じような立場に置かれたら自分がどうなるかを瞬時に理解する。密接に同化するあまり、想像のなかでレイプの体験を切り抜けようとするようになる。これにすっぽりはまりこんでしまうと、今度は想像しないようにしようとしてもできない、コントロール不能の状況にあることに気づく。
この人たちもPTSDにとらえられたのである。……レイプの場合は、被害者の治療に当たる医療スタッフだ。なにが起こったのかをつぶさに知り、被害に遭った直後の若い女性の状況を見るわけなので、そのときに感じたよりもひどい影響を受けるのである。
白衣を着ているからといって、PTSDに対する免疫ができているわけではない。……PTSDは、事件には直接なんのかかわりもない人にも起こることがある。ほかの誰かのトラウマの犠牲になるのだ。このようなかかわりあい(連座)を充分に理解しておくことが大切である。”(ディビッド・マス、大野裕監訳/村山寿美子訳『トラウマ 「心の後遺症」を治す』p.113-114)
直接事件に巻き込まれた人ばかりがPTSDの対象と見なされてしまうため、このような二次的被害によるPTSDの存在はまだなかなか認識されていない。そのため、二次的被害を負った者たち自身も、自らの被害を十分に認識できないまま、苦しみ続けることになる。
私の場合も、被害者は性暴力映像に出演した女性たちだと考えていたため、自分自身を被害者として認識することがなかなかできなかった。それどころか、出演して被害を受けた女性たちこそが真の被害者なのであり、彼女らの被った苦しみを思えば、自分の苦しみなど大したものではないと考えてきた。
このように、自分自身の受けている被害を十分自覚できず、そのため、周囲の人々にも苦しみをなかなか理解してもらえないことから、被害がいっそう深刻化していくケースもある。
浅野千恵「性暴力映像の社会問題化 視聴がもたらす被害の観点から」(『身体のエシックス/ポリティクス』所収、ナカニシヤ出版)p.150-152
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