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「なぜ私は加害者の弁護をしないのか」 ~ 性暴力と法

以下は『現代思想』(1997年12月号、青土社)に掲載された「性暴力と法」について、弁護士の角田由紀子氏と翻訳業の原美奈子氏との対談より。

 角田 法律の中で強姦の問題は、最初から最後まで加害者側の男の頭でしか考えられていないし、語られていない。だから女の人が法律を勉強していても、そこで強姦について知ることは、そっくり加害者側の男の強姦についての考え方なんです。私はたまたま強姦救援センターに縁ができて、実際に当事者の人と出会ったものだから、いままで聞いていた話は全然違うじゃないか、と疑う契機を与えられた。もし、そういう人に出会わなければ、法律体系の中にある強姦の考え方に、女性の法律家もそんなに疑問をもたずにこれると思う。

 女性弁護士が強姦犯人の弁護をできるというのは、そういうことだと思うんです。私は当事者の話を聞くようになってから、これはやはりどうしても弁護できないと確信しました。弁護士の場合、利害関係が違う立場の人たちのために働くということはよくあるわけです。たとえば民事事件で、あるときには地主の代理人もするし、また別の時には借り手の代理もする。だけど、女性が強姦者の弁護をするということは、そういうものとは根本的に性質の違う話だと思うんです。強姦救援センターがアドバイザーになる弁護士に唯一つける条件が、加害者の弁護をしないことなんですが、それについては、弁護士からの疑問がけっこうあるんだそうです。それで、なぜ私は加害者の弁護をしないのか、ということを書きました(『東京・強姦救援センターニューズ、一九九六年三三号)。それはビジネスとして地主の代理も借り手の代理もするというのとは違う、思想的に両立できない問題、この性差別社会の根本問題をどう見るかという自分の思想の問題なんです。だから、その思想をカチャカチャとカセットテープを取り替えるみたいにはいかないと思うんですね。

 

 自分が当事者になったり、家族や誰か知っている人が被害者になる可能性はいくらでもあるわけです。あるいは戦争になったらとか、たぶん、見えない脅威と見えている脅威みたいな違いなんじゃないかな、と思いたいんですけど。

 だから被害に遭った者から言うと、知らないでも生きていけるということを聞くのは、現実はそうなんだけれども、本当に受け入れ難いことの一つなんです。どうせ生きているなら知ってほしいという気持ちが、いちばん先にあるんです。だからこそ裁判を起こしたりする。やっぱり知ってほしいからこそ、そういう場に出ていく気持ちになるのであって、もし知ってほしくなければ、なかなかできないことだと思うんです。

 

角田 知ったほうは知ったほうで、人生が変わると思うんです。私に起きたように。性暴力の問題を見た時に、なぜ女は抑圧されるのかという仕組みがハラリと解けて非常に見えやすくなると思います。もっと深く、自分の人生が見えてくる。世の中の構造が非常によくわかってくる。

 こんなに大事な問題なのに、たとえば法学部の教育の中で、性暴力の問題は全然出てこないんですよ。さらっと強姦罪ということでやるだけで、どういう問題なのかというのは本当にどこにもないんです。そのことを全く知らずに、裁判官も検察官も弁護士も養成されていくわけです。そしてたまたま現場で事件に出くわした時に、初めて対面する。だけどその時に、何の準備も知識もないんです。あるものといえば、加害者の男の発想で、法律の世界にずっとある、強姦というものについての考え方だけなんです。

 

 若い時、周りに司法試験のために勉強している友達が何人かいたんですが、刑法で強姦の授業をやるとき、教室で笑いが起きるというんです。茶化して話したり、そこだけはみんな熱心になって、寝ている人も起きるとか、そういう話をよく聞くたびに、打ちのめされました。もしそういう環境だとしたら、司法試験のために勉強するということは、女の人にとって本当に苦痛だろうなと、いまでも思うんです。

 

角田 その教室でも、その中に当事者がいないという前提だと思います。いるかいないかなんて考えなくて、いないことを前提に、全てが行われているんだと思うんです。性暴力の被害に遭うというのは、自分が身近に聞いたことがないというだけではなくて、自分と関係がない世界の話だとどこかで思っているんじゃないかしら。本当はそうじゃないんですけど、なにかしらそういう根拠のない前提があると思うんですよ。

 

 (中略)

 

 最初の話に戻ると、角田さんが三〇までこの問題に関しては無知だったと正直に話されたその講演にはたくさんの人が来ていたんですが、角田さんはこの中に小さい時に性暴力を受けた人はいないという前提で話しているのかな、と思ったんです。そういうわけではなかったんですか。

 

角田 たぶんその中に、私の知っている実際の当事者がいたと思います。私にとっては、私がどんなに何も知らなくて、そのことがどういうことだったか、ということだと思うんです。私は知らなかったということの、無知の罪みたいなものですね。それはすごく感じました。知らないでいた時代に、矛盾を感じなかったということも、もう一つ、問題点ですね。知らなくても私の日常生活は何も差し支えなかったという、その日常の問題というものを、私は感じたんじゃないかしら。おそらく、知らないでいる多くの人もそうだと思うんです。知らなくてもとりあえずは何も差し支えないんです。その認識が結局、当事者の抹殺につながっていくんです。

 私は私で、当事者の話を聞いて、すごく衝撃的だった。あ、本当はそういうことだったのかと。今まで全然違う話で強姦の話をしていたということが本当にショックでした。事実ではない、虚構の上に立って法律の議論をしていることに気がついた時に、これは大変なことだ、事実に基づいて議論を組み立て直さなければいけないと、とても思いましたね。

 話すことそれ自体がすごく大変なことだと思うのは、強姦やセクシュアルハラスメントで、裁判をやるときです。彼女の言っていることは嘘だという理由で書かれた敗訴判決を読む時に、とにかく彼女がこう言ってきたということ自体が、事実があったという証拠なのよって、いつも思います。でも。それは裁判の世界では通用しないですから。具体的に話を聞いていると、こういう話は作れないし、もし本当でなければ、こんな話をしてこの人に一体何の得があるのかと思うんですよ。そこがなかなかわかってもらえないんですよね。

 裁判というのは原告になったというだけで原告の言っていることは正しいという仕組みになっていないから(もっともそうなっていれば、また別の問題がありますが)、その中で自分の言い分は正しいということの証拠をいっぱい出して、裁判官を説得していかなければいけないという作業なんです。

 やはり日本の法学教育の中で、性暴力について何も教えられていない、というよりも、間違ったことを教えられているのが問題だと思うんです。事実ではなく虚構に基づいて組み立てられた話が通用しているんですね。だから一生懸命に勉強してきた人は、悪気はなくてもそういうものだと思っているわけですよ。男の人が頭の中でイメージした被害者の女の行動というものを前提にして論理ができてしまっているから、まずそれが違うんだと言っていく所から始めなきゃいけない。他の裁判とは違ったエネルギーがいるんです。

 たとえば他の事件だったら、裁判官の持っている理屈と私たちが持っている理屈がそうは違わないことが多い。理屈の面では共通の枠組みで話ができる。その上でどういう証拠をもってきて、その事実をどのように出していくかということなんですね。だけど性暴力の場合、枠が違うという所から話が始まるんです。まず裁判官に、あなたのもっている枠組みは違っているんですよということを示しながらやっていかなければいけない。裁判官の教育をしつつ事件を進めていかなければならない。

 

 

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