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なぜX大学の教員は、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業に自分の所属している大学の学生を就職させるのか ~ クィア理論を講じる者の欺瞞と「人文学の本当の死」

この問題はシンプルに、X大学の教員は、なぜ、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業に「自分たちの学生」を就職させようとするのか、だ。なぜ「自分たちの学生」を「不正から守る」ことをしないのか、だ。

 

ある大手商社(「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」と「クィア馬鹿」が指弾している)は奨学金制度を作って「優秀な学生」を支援している。もちろん該当する大学側は、その商社の奨学金制度を学生に紹介している。

「技術系の企業」は大学の理工系の研究室と共同研究をしていることが多い。

 

X大学では「その商社」に入社が決まった学生を、まるで「大学の宝」であるかのようにインタビュー記事をウェブ上に載せて、それを「大学の売り」にしているようだった──なにが「ピンクウォッシュ」だよ、ふざけるな。

 

人文学系の評判がガタ落ちし、さらに「敵意」さえ見られるようになったのは、一部の人文学教員の欺瞞がSNS等で可視化されたからだろう。何の役にも立たないよな、こんなんじゃ

 

N次元拡大ピンクウォッシュ空間の生成

(x|"x"がピンクウォッシュに加担している ⇒ "x+1"もピンクウォッシュに加担している)

 

  • Aが「ピンクウォッシュの主体」だった場合に、Aと関係を持つ「クィア馬鹿団体」が「ピンクウォッシュへの加担」というなら、とりあえず、まだ理解できる。しかしAと関係を持つB社が存在して、そのB社と関係を持つ「クィア馬鹿団体」も「ピンクウォッシュへの加担」になるのか? この論理でいいのか?
  • Aと関係をもつB社(保険会社もそうだろう)と関係を持つことが「ピンクウォッシュへの加担」になるのなら、同レベルにあるAmazonを始め多くの企業や団体がその「範囲」に入るだろう。「ピンクウォッシュへの加担、を批判しているクィア馬鹿」だって、どこかで「接点」が出てくるんじゃないのか?
  • 次に「Aと関係を持つB社、と関係を持つC社の存在」を考えてみる。C社は、B社がAと関係があることを知っているにもかかわらず、B社と関係を持っている。したがってこれも「ピンクウォッシュへの加担」になるのではないか? それじゃあ、そのC社と関係を持っている「クィア馬鹿団体」はどうなるのか?
  • クィア馬鹿界隈」は相関関係と因果関係の区別がついていない者も多くいるようなのでもう少し丁寧に話す。 「Aと関係をもつB社(保険会社もここ)」と関係を持つ「クィア馬鹿団体(1)」に対し「ピンクウォッシュに加担している」と「クィア馬鹿団体(2)」が指摘する。
  • ここで「クィア馬鹿団体(1)」を一般企業C社に置き換える。「クィア馬鹿団体(1)」が「ピンクウォッシュへに加担している」のならば、その位置/立場を単に置き換えただけのC社だって当然「ピンクウォッシュに加担している」ことになるだろう。
  • では、そのC社と関係を持っている「クィア馬鹿団体(3)」は「ピンクウォッシュへに加担している」ことになるのか──加担していることになるよな。だって、C社は「ピンクウォッシュに加担している」「クィア馬鹿団体(1)」と「同じステイタス」なのだから「C社はピンクウォッシュに加担している」
  • ここで「Aが主体」の「ピンクウォッシュへの加担」は、B社からC社に「引き継がれた」。 それに連動して、「ピンクウォッシュへに加担している」「クィア馬鹿団体(X)」は、「クィア馬鹿団体(1)」から「クィア馬鹿団体(3)」に「引き継がれた」
  • C社と関係を持つ「クィア馬鹿団体(3)」に対し「ピンクウォッシュに加担している」と「クィア馬鹿団体(4)」が指摘する。 これはずっと繰り返されるだろう、すなわちA→B社→C社→D社…… それと連動して、「クィア馬鹿団体(1)」→「クィア馬鹿団体(3)」→「クィア馬鹿団体(5)」……
  • 「ピンクウォッシュへの加担」は、こうしてA→B社→C社→D社……へと「引き継がれ」、 同時に、それらの企業と関係を持つ「クィア馬鹿団体(1)」→「クィア馬鹿団体(3)」→「クィア馬鹿団体(5)」……と(便宜上奇数番号の)「クィア馬鹿団体(X)」にも「引き継がれる」
  • この操作を繰り返せば、そんなに時間がかからないうちに、ほとんどの企業が「ピンクウォッシュへに加担している」ことになるはずだ。
  • したがって、「ピンクウォッシュに加担している」と「奇数番号のクィア馬鹿団体(X)」を非難した「偶数番号のクィア馬鹿団体(X)」だって、いつかは、どこかで、そうした企業、または団体(自治体、大学を含む)と関係をもつことになるんじゃないのか?
  • この帰結がおかしいと思うのならば、それは最初に「Aと関係をもつB社、と関係を持つクィア馬鹿団体(X)」に対して「ピンクウォッシュに加担している」と指摘したことが間違っているからではないのか?

 

この問題はシンプルに、X大学の教員は、なぜ、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業に「自分たちの学生」を就職させようとするのか、だ。なぜ「自分たちの学生」を「不正から守る」ことをしないのか、だ。

 

X大学の教員は「虐殺に加担している/ピンクウォッシュをしている企業」を把握しているのならば、なぜ大学の就職課に「そういう企業」からの求人を断るよう要請しないのか。それどころか、「そういう企業」への就職を「大学のウリ」にしていることは倫理的に──大学の倫理としてどうなのか。

 

X大学の教員は、「虐殺に加担している/ピンクウォッシュをしている企業」を把握していながら、就職課が「そのこと」を学生に知らせないことに何の疑問も感じないのだろうか? 大学でクィア理論を含めた人文学を教えている意義っていったい何だ?

 

X大学を始めとする偏差値の高い「優秀な学生」が、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業への就職を一斉に取りやめれば(ボイコットをすれば)、それこそ、事態は大きく変化するだろう。なぜ、X大学の教員は、「自分たちの学生」に対し、そういうことを促す指導をしないのか。

 

X大学を始めとする偏差値の高い「優秀な学生」が、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業への就職を一斉に取りやめれば(ボイコットをすれば)、それこそ、事態は大きく変化するだろう。なぜ、X大学の教員は、「自分の所属している大学の就職課」を通して、当該企業に対し、「虐殺への加担」および「ピンクウォッシュ」や止めるよう要請をしないのか。


X大学の教員は、「自分たちの大切な学生」を、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業へ送り込ませることによって、「虐殺への加担」「ピンクウォッシュへの加担」という汚名を学生に負わせるつもりなのか? 

 

X大学の教員は、「自分たちの大切な学生」を「虐殺への加担」「ピンクウォッシュへの加担」という道徳的責任から「守って」やらなくて、何が教育なんだ? 人文学は何のためにあるんだ? 

 

X大学の教員は、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業を把握していながら、「自分たちの大切な学生すべてに」にその情報を確実に知らせなかったら、大学の教員としての責任を果たしていると言えるのか?


X大学の教員は、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業を把握していながら、「自分の所属している大学の学生」を、そういう企業に平然と送り込む(就職させる)ことに、倫理的な問題を感じないのだろうか──少なくとも全学規模の就職説明会を開いて、どこの企業が「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」のかを「学生のために」周知させる道義的な責任は確実にあるだろう。そうでなかったら、何のために「クィア理論」を大学で講じているんだ?


X大学の教員は、「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業を把握していながら、自分の所属している大学で就職活動をしている学生に対し、「虐殺への加担」「ピンクウォッシュへの加担」という罪から「守って」やらなかったら、それは端的に不作為行為だろう。「自分の大切な学生」さえも「虐殺への加担」「ピンクウォッシュへの加担」という罪から「守って」やることができない人文学教員に、どんな信頼を置けばいいんだ? 

 

そもそもX大学で「クィア理論」が講じられていながら、その当のX大学の学生自身が、「クィア理論」の講義で学んだ「ピンクウォッシュなるもの」について、それを「自分たちのこと」として受けとめ、「自分たちのこと」として「応用」し、したがって自分たちがやるべきことは「自分たちのとっての」「ピンクウォッシュと同等なもの」に加担しないことを意思表示しなかったら、いったい、その学生たちは大学で何を学んでいるんだ? 

X大学レベルの大学生ならば、「自分たちのとっての、ピンクウォッシュと同等なもの」への抵抗は、第一に「自分がそういう企業へ就職しないこと」、そして第二に「他のX大学の学生が、そういう企業へ就職しないこと」──つまり、そのために、大学の就職課の求人票から「そういう企業」を撤去しなければならないということに用意に気がつくはずだ。

 

なぜなら、X大学の就職課が「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業にX大学出身者が20XX年はN人就職したと広報しているのならば、同様に、当該企業も20XX年はX大学の学生をN人採用したと広報しているはずだ。「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業がX大学のような偏差値の高い有名大学から優秀な学生をN人採用したという広報それ自体が(偏差値の高い有名大学で人気の企業として)、「クィア理論におけるピンクウォッシュのロジック」をなぞっていることは、バカでもわかるだろう。「クィア理論」を学んだ偏差値の高いX大学生が、それがわからないわけがない──これは「クィア版ピンクウォッシュのロジックから自然に導かれるX大学版ピンクウォッシュ」なのだから。

 

クィア理論を学んだX大学の学生」が上記のことに自然に到達しなかったら、X大学の教員は、いったい、何を学生に教えているんだ。「クィア理論」は「他人事」の話なのか? 

クィア理論を学んだX大学の学生」が上記のことに自然に到達しなかったら、それは、「クィア理論を学んだX大学の学生」が「ピンクウォッシュ」について「他人事」だと思っているからだろう。

クィア理論を学んだX大学の学生」が「ピンクウォッシュ」について「他人事」だと思うのは、「一般のX大学の学生」にとって「クィア理論」というものが「他人事」として接するものだと思われているからだろう。

「一般のX大学の学生」にとって「クィア理論」が「他人事」として接するものだと思ってしまうのは、講義をしているX大学の教員が、「クィア理論を一般化」せず、あくまで「特殊な人たち」の「特殊な事例」として「一般のX大学の学生」に講義を行っているからだろう──だから「他人事」に留まるのだろう。そして「それらすべて」は、X大学でクィア理論を講じている教員が、「他人事」として「クィアなるもの」を、そして「他人事」としてクィア理論を講じているからだろう。

 

自分自身を含めたX大学の教員が、同大学の学生、教職員をも射程に入れるために「ピンクウォッシュを一般化しない」のは、あくまで「他人事」として「クィア理論」を講じてきたからだろう。

そうすれば、X大学の教員は、自分たちの職場にずっと前から存在している「虐殺に加担している」「ピンクウォッシュをしている」企業に対し何の行動もしなくてすむからだ。すべては「他人事」なんだろう。

 

ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。ここにおいて、「現実主義でいこう、不可能なことを要求しよう」という68年のモットーは、冷笑的な、悪意にみちた意味を新たに獲得し、その真実を露わににするといえるかもしれない。
「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」。


金融犯罪に手を染めている企業を告発したひとは、暗殺される危険に身をさらす。それに対し、同じ企業に、グローバル資本主義とポスト植民地主義における雑種的アイデンティティとの関係を研究するので金を出してくれないかと頼んだひとは、数十万ドルの資金を手にする機会にめぐまれているのだ。

 


スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人 キリスト教の倒錯的な核』(中山徹 訳、青土社) p.68

 

残念ながら、というか幸か不幸か、多くの一般の人は「人文学なんてこんなものだ」とすでに知っている。

 

ChatGPTに以下の質問をした。

ここのところ人文学への不信が募っています。というのも人文系の学者があまりにも尊大に振舞い、しかもその言動に対し、あまりにも言行不一致が目立つからです。まるで一般の人たちをバカにしきっている感じです。これでも人文学を学ぶ意義はありますか?

 

ChatGPTは次のように答えてくれた。

あなたが感じている不信感には、一理あるかもしれません。学問の分野に関わらず、特定の人々が権威的で尊大に見えることはありますし、言行不一致が目立つ人物が目につくと、その分野全体に疑問を感じるのは自然なことです。しかし、人文学そのものの価値を考える際には、個人の振る舞いと学問そのものの意義を分けて考えることが重要です。

人文学を学ぶ意義

  • 自己理解と他者理解の深化
    人文学は、私たち自身や他者、そして社会をより深く理解するための視点を提供します。哲学、歴史、文学、文化研究などを通じて、人間の価値観や行動、創造性の多様性について知ることができます。

  • 批判的思考の育成
    人文学は、単なる情報の受容ではなく、情報を疑い、分析し、文脈を理解する力を養います。これにより、権威的な言説や偏見に対抗する力がつきます。

  • 現代社会の課題への洞察
    人文学は、社会問題や倫理的課題について多面的な視点を提供します。環境問題、技術と倫理の関係、社会的不平等など、現代の複雑な問題を考える上で重要です。

  • 共感力と人間性の育成
    文学や歴史を学ぶことは、他者の視点を理解し、共感する力を高めます。これにより、人間関係や社会的なつながりが深まります。

人文学への不信への対処

  1. 批判的に距離を取る
    特定の学者やその振る舞いに不満を感じる場合でも、学問そのものに価値があるかどうかを独自に評価することができます。学ぶ意義は、学問をどう活用するかで決まります。

  2. 信頼できる人や作品を探す
    すべての人文学者が尊大だったり言行不一致だったりするわけではありません。謙虚で洞察深い研究者や、人生に感動を与えるような作品に出会うこともあるでしょう。

  3. 学問を自分のために使う
    人文学を学ぶ目的は必ずしも学者のように振る舞うことではありません。自分自身の人生や思考を豊かにするためのツールとして人文学を活用することができます。

最終的な判断

人文学を学ぶ意義があるかどうかは、あなたがそれをどう使いたいか、どのような形で関わりたいかによります。もし今のところ疑念が強いのであれば、無理に学ぶ必要はありません。ただし、今は興味がなくとも、人生のある時点で人文学が新しい視点や価値を提供してくれる可能性は十分あります。時には距離を置くことで、後で違った形で人文学の意義を見出せることもあります。

もし特定の疑問や具体的な話題について話し合いたい場合は、いつでもどうぞ!

 

 

 

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