デイビッド・フィンケルホー(David Finkelhor) の『子ども被害者学のすすめ』(森田ゆり/金田ユリ子/定政由里子/森年恵 訳、岩波書店)より
評価は、被害で何が起き、それはなぜなのかについての──それがいかに未熟なものだとしても──認知にかかっている。認知は、「ある人あるいはある出来事が苦しみを引き起こしている」という評価のように単純な場合もある。
こうした評価が発達に応じて影響を受けることは疑いなく、「被害が今起こっている」という知覚のような基本的問題でさえその例外ではない。
暴力による攻撃のような被害は、認知システムがまだ発達していないごく幼い子どもでも不快で苦しいと評価できるが、多少なりとも社会規範や対人期待の知識がなければ被害と認知できないような形の被害もある。
(中略)
発達がいかに被害の評価を変化させるかという問題は、まだ広く研究されていないが、性的虐待は他の分野よりもこの問題が注目されている分野であろう。
身体接触などの行為のもつ性的意味は、発達後期になってはじめて獲得されるので、性的虐待関係の文献は、自分が理解していない行為によって子どもは傷つくのかという問題を折に触れ取り上げている。10歳の子どもが年上のきょうだいに性器を触れられたときの反応は、2歳の子どもと大きく異なると予想される。そうした接触の不適切さを理解する子どもの能力を考えると、である。
と言っても、理解できないことでは傷つかないという理論がある一方で、性的虐待を受けた就学前の子どもに目立った行動障害が現れたという臨床報告がおびただしくあるし、また、早い時期と遅い時期の性的虐待の影響を比較した多くの研究から、幼い子どもが年齢のおかげで心的な傷つきから守られているという結果は得られていない。
残念ながら、幼い時期の性的虐待のトラウマ的要素について注意深く分析したものは比較的わずかしかない。しかし、その種の虐待で、少なくとも専門家の関心が向けられた事例には、作用の一部を説明する苦痛媒介被害の要素を伴っていることを心にとめておくべきである。たとえば、肛門や膣へのペニスの強制的挿入などである。
さらに、このような事例での加害者の行為は、脅迫や監禁など他の評価可能な悪行を含むことが多い。
文献には、たとえ幼児が大人の行為の意味を全部理解していなくとも、性的刺激それ自体が否定的作用を与えることを示唆するものもある。強烈な身体的刺激が、関係(たとえば母子関係)のなかで引き起こされたり、発達を阻害する結びつきを伴って引き起こされたりする(たとえば子どもの他の要求をみたすための条件にする)のがその原因である。
(中略)
被害とトラウマの文献で活発に議論されてきたもう一つの評価は、危険の評価である。PTSD分野の研究では、否定的出来事についてのある種の評価、たとえば、大けがをしてしまうとか死んでしまうといった確信が、傷を深くしたり症状を強くしたりすることにつながると推測している。
PTSD研究が提唱する発達論的原則の一つは、幼い子どもの危険評価は、周囲の人間関係に依存しているということである。誘拐犯と行動を共にした幼い子どもは、状況がいかに危険である(あった)かについての手がかりの多くを、実際の事件の事実より、親の恐怖や不安を評価することから手に入れる。
ウェストヴァージニア州で起こったバッファロークリークダム決壊による災害調査では、幼い子どもの症状の予測因子は、直接の災害との距離より、両親の災害との距離であった。
また出来事の深刻さを判断する子どもの能力は、明らかに被害の評価とも関係がある。トラウマの作用についての重要な理論の一つに、トラウマ的出来事の結果として「恐怖構造」が作り上げられ、その体験に関する手がかり・連想・情報などを結びつけるというものがある。
恐怖構造の引き金は簡単に引かれ、消すことが難しい。つまり、子どもの被害が、夜に運動場で起こり、赤いTシャツを着ていて、被害の直前まで楽しく遊んでいたとすると、運動場、夜、赤いシャツ、楽しい気持ちといったこれらすべての刺激が恐怖構造の中で結びつく。それまでは安全だった馴染みの環境で被害を受けた人は、症状が深刻化し回復が難しい傾向があるという研究結果がある。
その理由の一つは、そういう人の恐怖構造には、日常的でいつもどおりの安全な環境からの手がかりが多く含まれているために、かつては安全の手がかりであった環境が恐怖構造の引き金を引き、危険を知らせることになるからだろう。
子どもにとって、恐怖構造を生み出す重要な要因は、異なった類の出来事や人々を十分区別できるかどうかである。子どもがもし、加害者を他の人たちから(見知らぬ人を知人から)、犯罪の状況を他の状況から(ある公園を他のすべての公園から)うまく区別することができない場合、その子どもの恐怖構造は、大きく、一般的なものになり、消去に強く抵抗する。
このプロセスは、発達初期における親による虐待が、きわめて広範な悪影響を及ぼす理由の一部であろう。親の虐待には、不安定な愛着や基本的信頼の欠如といった、非常に一般的な要素が含まれているために、他のあらゆる人間関係や将来の人間関係の上にごくたやすく重ねられてしまう。
発達の文脈における上述のような識別の働きを示すよい例は、母親のレイプシーンを目撃した子どものうち、学童期では、発生する症状に性差が見られなかったが、青年期では女子のほうが男子より強い影響を受けていた。
青年期までに、レイプはほとんど女性と少女に起こることを学んでいるので、年長の男子は衝撃の大半から守られていることになり、レイプされる危険が自分にあるとは考えない。しかし、低年齢の男子にはそのような防衛策が働かない。出来事の種類を区別する能力によって違った評価をもたらし、その結果違った作用をもたらす。
(中略)
被害に関する研究の重要主題の一つは、評価プロセスがいかに被害の衝撃に影響するかだけではなく、被害の衝撃がいかに評価に影響するかである。
つまり、子どもがなんらかの被害に遭えば、その子の評価プロセスに変化が生じる。K・A・ドッジのグループによれば、厳しく罰せられた子どもには、他人に敵意を帰属させるバイアスや、偶然の出来事や通常の社会的争いを、意図的な個人攻撃だとみなす傾向が強くなり、それが攻撃的な社会的関係を発展させる傾向を生むことを意味する。
これは、ある被害を経験すると、他の出来事の多くを更なる被害と評価する傾向を生むことを意味する。しかし被害体験は、子どもに無力感を植えつけ、被害を普通の出来事のようにとらえることで、次に被害が起こる可能性に対して鈍感にしてしまうおそれもある。
以前に性的被害を受けた少女は、これから起こりうる性的に危険な状況を見極めにくくなる。そういった少女が再び性的虐待やレイプ被害に遭う危険が高くなるように見える理由のいくらかはこの事実から説明できる。
p.131-140
- 作者: デイビッド・フィンケルホー,森田ゆり,金田ユリ子,定政由里子,森年恵
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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