クリスティアン・D・イェンセン『ぼくの話を聞いてほしい 児童性的虐待からの再生』(山下丈 訳、講談社)より
『ぼくの話を聞いてほしい』 訳者のまえがきより
9歳のクリスティアンは、友達ニコライの家族と南仏プロヴァンスの小さな村にバカンスに出かけ、同行したニコライの父親の友人で、30歳の独身男性グスタフと仲よくなる。旅から戻り、週末を自分の住むコペンハーゲンで過ごさせたいというグスタフの申し出に、クリスティアンの両親は感謝して、彼をこの小児性愛嗜好の男性のアパートへ送り届けた。それから三年間、クリスティアンはグスタフから性的虐待を受けることになる。
悲劇はそれだけで終わらなかった。子供時代に受けた虐待のトラウマは、本書を執筆するまで続いたのである。
p.3
『ぼくの話を聞いてほしい』 序より
「子供たちの性的虐待に関する本を借りたいのですが」
図書館員は私をじろじろ見て、あわてて眼鏡を調節する。まなざしには、同情といぶかしさとが入り交じっている。彼女は小首をかしげてカウンターをまわり、間もなく、高い本棚から一冊の本を取り出してきた。
「これが、あなたの探しているようなものかしら? 他のは、たいていセラピスト向けのものなの。これならあなたにもあまりむずかしくないと思うわ」
「他には、まったくないのですか?」
と、私は驚いて尋ねる。
「ええ……それ以外には見当たらないの。ここにはあまり置いてないのよ」
手渡された本のタイトルは、『犠牲者のいない犯罪』。表紙には著者名がない。序文によれば、この本が「著者グループ」によって編集されたとある。つまり、この本は匿名で書かれたものなのだ。
自分の部屋に戻り読みはじめる。終わるまでいっきに読んだ。
その内容は、小児性愛症はけっして犯罪ではなく、きわめて自然なセクシュアリティの一形式だということを、長々と証明しようとしていた。子供への性的虐待は、実際にはけっして虐待ではない、なぜなら子供たち自身がそれを進んでしようとするのだから、というのだ。人は自分自身の欲求に従った行動によって、感情を害されることはありえない。だから、大人とセックスすることはしばしば奨励されてよい、というのだ。
そうではない。小児性愛者は、子供にとって異常な行為をするひじょうに罪深い人格であることを、社会は迅速に学ぶべきだ。
それなのにその本には、小児性愛は、子供に魅力的な性的経験を「与える」と書いてある。そして、デンマークには小児性愛者のための協会があるということも。
太陽がコンクリート・ブロックの窓の向こうにゆっくりと沈んでいき、私はますます悲しくなる。私の身に起きていたことを、もっとよく理解するために、子どもの性的虐待についてあらゆることを学びたいと望んだ。にもかかわらず、いっそう困惑するようになっただけだった。多く読めば読むほど、自分の内部でいっそう多くのものが凍てついていき、私の内側全体がゆっくりと大きな氷のかたまりに変わっていくようだ。
突然吐きそうになる。片方の手が震えはじめ、それを止めることができない。
私はよく知っている。私は怯える。そしてそれはふたたびくりかえす。ここ数年で慣れたように、声を出さずに私は泣きはじめる。
彼は、私の泣き声を聞くことはない。台所にいる母も、私の泣き声を聞くはずがない。誰も、聞くことができるはずがない。だから、私は泣く。身を震わせ、しゃくりあげながら。しかし、声を立てずに。
それは私が15歳のときのことだった。地元の図書館で私が手に入れられる唯一の情報は、実は小児性愛者自身によって書かれたその本だった。その日から私は、小児性愛症の真実が、少なくとも公共の本棚でも手に入れられるよう、自分の手で実現したいと思うようになった。
これが、私がこの本を書いた理由である。
この本で、小児性愛者のことを識別できるなら、そして、そのことによって、少しでも被害者の助けになるなら幸いである。子供たちが常に小児性愛者の犯罪行為にさらされているということを、家族にも気づいてほしい。災難が終わりを告げたずっとあとになっても、子供たちが抱える問題がいかに深刻なものであるかを。この本は、もっとも近しい周囲の者たちに、子供が救いと理解、いたわりと愛情をどれほど必要としているかを示すだろう。それとともに、小児性愛症に関わるさまざまな専門家、つまり、教育学者、教師、セラピスト、政治家、弁護士、ジャーナリストといった人々にも、本書を通じて、このテーマへの洞察を集積していただきたい。
(中略)
最近の心理学研究によれば、性的虐待を受けた子供たちが効果的な治療が受けられない場合、その後の人生において、強い自殺願望に襲われる。しかし私がすべきことは、統計について論ずるよりも、そのまっただなかに立ち、内側から見て、事実を自分の言葉で説明することだろう。
p.13-16
『ぼくの話を聞いてほしい』 本文より
それは、子供に対する「性的な虐待」と言われている。またときには、子供の「性的濫用」とも呼ばれる。だが実際には、そういう言いかたをすることで、精神的な攻撃や感情的なレイプ、知的な侮辱などによる破壊がどれほどのものかかが見落とされてしまうのである。
グスタフは、ひどくありきたりの組み立てで嘘をついた。ときには面と向かって嘘をつき、またあるときには、ほんの少しだけ物事をねじ曲げることで、真実に合わせようとした。彼は、決定的な情報はほとんど隠していた。彼は、ごまかしの天才であった。グスタフのような人間は、とても愚かで、子供をだますことしかできないのだと考える人もいるが、それは、まったく的はずれだ。グスタフは、友人を巻き込んで工作した。事態が危なくなると、当局の目さえごまかした。自分に向かってくる者に対して、彼が示すのは真実の一部だけで、人々の批判をうまくかわして、賭のチップをわがものにする。
グスタフの恐ろしいところは、自分の敵を常に正確に知っていたということである。そして徹底的にその知識を利用した。私の両親といっしょにいるときには、私とはよそよそしくふるまった。
(中略)
私は、いつも訴えてきた。私はグスタフのことを三年ごしで知っている。三年といえば、人が高校に通う時間に相当する。そして高校で学ぶことは、ある一面だけのことだ。私は、グスタフを、あらゆる休暇や週末に見てきた。
すべてをくぐり抜けたときには、私は三年間という年月にさらされていた。彼があらゆる戦略を用いて、おそらく死刑執行人のためのハンドブックに従ってやってきたのだろうということが、今の私にはわかる。
グスタフは、他に方法がない場合は、冷酷な強要をし、真剣な脅しを用いた。彼がやりたいことを、望むように私が行わなければ、迷いなく私を罰した。彼の望む通りにやってのければ寛大に報いる。そうして次に同じような状況になれば、私はまったく同じことをするようになる。
彼は私がいやがるようなことをさせ、何時間もチクチクと、全方向から軽いジャブで私の精神を痛めつけた。私はノーと言ってはならないのだった。言ったとしても、聞き入れられることはなかった。彼はぞっとするほどずる賢く、すべての現実を正当化し、そして、私はそのことに気がつかなかったのだ。
私が三年間にわたってさらされてきた「精神医学上の拷問」の効果は、古典的な肉体の拷問と似通っている。ただ違うのは、グスタフが物理的な暴力を行使しなかったことである。おそらく暴力を使えば、たちどころに化けの皮がはがれるからだろう。青あざは、人目についてしまう。さらに彼は、私の生命を脅かすつもりはまったくなく、そんなことをすれば、二度と私は戻ってこない。彼がしようとしたことは、気がつかれない程度に私の精神を痛めつけることであり、それは完璧に行われ、彼は私の精神を思い通りに作り変えることに成功した。すべてが隙なく仕組まれていれば、たいていの者が同じ選択をするのだ。
p135-138
『ぼくの話を聞いてほしい』 本文より
男性には通例、たとえば女性ホームや近親相姦の犠牲者のためのセンターへ入れてもらう資格がない。虐待を受けた女性や、近親相姦の被害者の女性、強姦の被害者になった女性は、重症の男性恐怖症になることがあり、一定の期間、彼女らを男性から保護しなければならないことがある。
その女性ホームでは、さまざまな配慮がなされている。たとえば水道管を取り替えねばならないときは、女の配管工がやってくる。彼女たちには、安全な場所が必要なのだ。けれども。強姦の被害者が、加害者と同じ性を持つのであれば、どうすることができようか?
思春期の私に、安全な避難場所はまったくなかった。むしろ正反対だったともいえる。13歳でようやくグスタフの爪から逃げ出したあと起きたことは、自分の体に対して、ほとんど悪意に近いものを覚えたことだった。
ペニスのすぐ上のにきびみたいなものから、長くて真っ黒な巻き毛が一本伸びはじめた。もう一本、そして、もう一本。ペニスそのものが、大きくなりはじめた。そして突然、自分の声が奇妙な響きになった。なにが起きようとしているのかを、正しく理解できるまでには、時間がかかった。私は思春期がどのようなものかについてはよく知っていたが、自分がどうなってしまうのかを実際に理解するのは恐ろしくて、目を向けないようにしてきたのだった。私は、大人の男になりかけているのだ。普通なら、少年というものは、こうした男らしさが芽生える最初のしるしを発見するや否や、更衣室じゅうをカウボーイみたいな大声で叫びながら走りまわる。私は、まったく違っていた。
ヒッピー風の男どもは、さよならに抱擁をしたがったが、私のほうではせいぜいちょっと手を差し出すくらいだった。ひげが嫌いで、男性用香水が嫌いで、自分のペニスの毛が全部嫌いで、自分のひどい声が嫌いだった。男性が近づくと、私はたじろくか、内面的に崩壊するか、本当の恐れを感じる。あるいは、打ち負かされたように感じた。いきなり、自分自身が男の肉体に閉じこめられたみたいだった。私は、絶えず自分自身の体でグスタフを思いだした。
18歳のとき、ベッドをともにしたばかりの女性が、愛し合っていたあいだじゅう、私が彼女の耳もとであえぐのでとっても興奮させられた、とクスクス笑いながら話すのに、吐き気がこみ上げてきたことを今でも覚えている。なにより不快に感じた。
18歳になっていながら、自分がひとりの男性になりかけれていることを、うれしいとは思っていなかった。長いあいだ、私の人生の悪夢の中心人物の肉低的コピーになりそうだという思いと、折り合いをつけようとした。
しかし自然は無慈悲である。思春期を過ぎ、私はなにより嫌いであったものに近づいていた。時を重ねてさらに自分が変化していくにつれて、私はもっともっと自己嫌悪するようになった。
p174-176
『ぼくの話を聞いてほしい』 森田ゆり氏の解説より
小児性愛者(ペドファイル)という日本語が死語となることをわたしは望んでいる。この日本語は新しい言葉に書き換えられなければならない。彼らの行為に「愛」はない。「性愛」もない。あるのは「暴力」であり「性虐待」である。だから、「小児性愛者」ではなく「小児性虐待者」との名称こそが彼らの実の姿である。
p.345
ぼくの話を聞いてほしい―児童性的虐待からの再生 (講談社プラスアルファ文庫)
- 作者: クリスティアン・D.イェンセン,Kristian Ditlev Jensen,山下丈
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/12
- メディア: 文庫
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