ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)より
身体の統御から進んで、安全の焦点は環境の統御に移る。急性の外傷を受けた人には安全な避難の場が必要である。この非難の場を見つけて確保することは危機介入にあたって即座にするべき仕事である。
急性の外傷後の最初の数日から数週にかけては、被害者は人を避けて自宅に閉じこもりたくなるかもしれないし、端的に外出ができないということもあるだろう。
外傷の加害者が家庭内にいる場合には、家庭はいちばん不安全な場である。危機介入は文字通り避難の場への逃走でなければならない場合もある。外傷を受けた人に避難の場が確保されれば、患者はそれからは徐々に世界にかかわる円周を拡大してゆくことができる。車の運転や買い物や友人を訪ねることや職場に向かうことのような平凡な活動を再開しても、安全だと思えるまでに週の単位の期間がかかることもある。どの新しい環境も、それがはらむ安全と危険の可能性を隈なく調べ、評価しなければならない。
被害者の自分以外の人たちとの関係は、安全を確立しようとして両極端の間を揺れる傾向がある。いつでも人々に囲まれていようとし、また完全に独りになろうとする。
一般論としては、サポートを求めて自分以外の人々に向きなおるようにと励ますべきではあるが〈自分が信頼できる人を選んでよいのだよ〉という保証をしっかりと与えるようによく気をつけなければならない。
家族、恋人、親友は測り知れない大きな助けになるかもしれないが、回復の邪魔をするかもしれず、危険人物である場合もある。外傷を受けた人の初診時評価の際には、その人の生活における重要な対人関係全体を念入りに洗う必要がある。それぞれの重要人物について、守ってくれる可能性、感情的サポート、実際的援助の人的資源としてどうかと吟味する他に、危険の出所である可能性をも吟味しなければならない。
最近に受けた急性外傷の事例の危機介入に際しては、サポートしてくれそうな家族成員と会うことが必要な場合も少なくない。家族面接をするべきかどうか、誰に来てもらうか、どういう情報をその家族成員に漏らすかの最終決定は被害者にゆだねる。
家族面接の目的は被害者の回復を促進するためであって、家族の治療でないということははっきりさせておかなければならない。
PTSDについての簡単な予防的教育(今後どういうことが起こるかなどの情報を伝えること)を施すことは関係者全員にとって有益であろう。家族成員は単に被害者をどうサポートすればよいかを理解するだけでなく、自分たちが被害者の身になることによって負う外傷にどう対処するかを学ぶことになる。
被害者の安全システムに関与するという課題を引き受ける親戚あるいは親友には、一時期は自分の生活が寸断される覚悟をしてもらわなければならない。彼らは被害者の日常生活の基本的な仕事のために二十四時間いつ何時でも支援を提供するために呼び出されるかもしれないのである。
(中略)
家族に底流していた緊張がこういう危機の間に明るみに出ることも多い。介入の焦点は被害者とその家族とが直接の外傷に対処するのを助けるところに置かれなければならないが、時には危機が家族全体をこれまでは否認していたか、無視していた課題に立ち向かわなければならないようにさせることもある。
ダンは23歳のゲイであったが、家族のバランスは外傷的な事件の余波期に変化した。すなわち──
ダンはバーを出たところで「ゲイ・バッシング」に遭い、一団の男に殴打された。怪我のために入院し、両親はベッドサイドに彼を見舞った。ダンは、両親にゲイであることを決して漏れないようにしていたので、両親がこの秘密に気づくのではないかと大いに恐れた。
最初、彼は両親に向かって、強盗に襲われて殴られたと語った。母親はやさしく気づかい、父親は怒り狂って「警察に行こう」と言った。両親はダンを襲撃のことで質問攻めにした。ダンは孤立無援で、逃れられないと思った。だんだん、自分の作り話を語りつづけるのが難しくなると気づいた。彼の症状は悪化し、次第に不安と興奮がつのり、ついに医師たちに協力しなくなった。この時点でメンタル・ヘルス関係者のコンサルテーションを受けるように言われた。
コンサルテーションを引き受けた治療者は、ダンの陥っているディレンマに気づき、ダンがゲイであることを秘密にしている理由を洗った。ダンは父親のホモフォビアの偏見を恐れ、そのかっとなる性格を恐れていた。ダンがカムアウトすれば父親はダンを勘当するだろうとダンは確信していた。状況をさらに事細かに洗ってみると、母親はまずまちがいなくダンがゲイであることを知っていて、口には出さないがこの事実を受けいれていることがわかった。しかしダンは、母親は面と向かっては折れて夫の意見に従うだろうという恐れを抱いた。母親はこれまでいつもそうだったからである。
治療者は、母子の話し合いの仲立ちをしようと申し出た。話し合いの結果、ダンの感知していたことの一部が裏付けられた。母親はずっと前から知っていて、ダンがカムアウトしてくれたのを喜んだ。母親は、父親がこの現実を受け入れるのが難しい人だということを肯定した。母親は、うれしくない事柄については父親に正面から言うことを避け、冗談めかしてなだめる習慣であったことも認めた。
しかし、母親はダンに言った、「もし、おかあさんがお前と絶縁するとか、おとうさんがそうするのを黙って見ているにちがいないと思っているとしたら、お前は私をずいぶん低くみているのだね」。さらに、母親は「おまえは父親をも低くみていると思う」と言った。「父親には偏見があるかもしれないが、おまえを殴った犯罪者と同等の人物ではないよ」。母親は「この事件の結果、家族が前よりも仲良くなったらいいのにね」という希望を語った。そして「タイミングを選んで父親にカムアウトすることを考えてくれないか」と言った。
この話し合いの後、ダンの両親が襲撃の事情を詰問することは止まって、もっぱら彼の回復にかんする具体的な問題で支援することを話題にするようになった。
安全な環境を確立するためには、ケアをする人々を動員する必要の他に、これからの防護計画を展開することも必要である。
外傷の余波期においては、被害者はなお残る脅威の程度を推し量って、どういう予防措置が必要かを決めなければならない。また、襲撃した者に対してはどういう行動をとりたいかを決めなければならない。どういう行動をとればベストであるかがわかることは稀であるから、この意思決定は被害者にとってもそのケアをする者にとっても特にストレスフルである。
被害者は混乱してアンビヴァレントになるかもしれず、また自分のアンビヴァレンスが友人、恋人・家族の意見の相互矛盾に反映しているのに気づくかもしれない。ここで患者をエンパワーすべきであるという大原則がしばしば侵犯される。被害者以外の人間が被害者の選択の仕方を決めたり、患者に無断で行動することがしばしばある。
p.251-255
- 作者: ジュディス・L.ハーマン,Judith Lewis Herman,中井久夫
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