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The Reverberator

メモ用

加害者は自分の性的な強迫行動を防衛するために、それを正当化する巧妙な知的システムを発展させる ~ いじめと性的虐待

子どもへの性的虐待とセクシュアルハラスメント問題

ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)より第四章「監禁状態」

監禁状態は犯人と被害者とを長期間接触させ、特別なタイプの関係をつくりだす。強制的コントロールの一形である。このことは、捕虜、囚人、人質のように全く物理的な力による監禁であっても、宗教的カルトのメンバー、被殴打女性、被虐待児童の場合のように力と威しと餌で釣ることとの組み合わせであっても、等しく真実である。

強制的コントロールへの屈従の心理的打撃には共通性がたくさんある。屈従が政治という公的世界におけるものであっても、性的あるいは家庭内暴力関係のように私的領域で起こってもそのことは変わらない。

 

監禁状態においては犯人は被害者の生活においてもっとも強い権力を持った人間となり、被害者の心理は加害者の行動と信念との刻印を受ける。加害者は彼を理解しようとする人間を見下しているので、研究の対象に進んでなってくれることはない。自分に悪いところがあるとは全く感じていないので援助を求めることもない。あるとすれば法に触れそうになった時だけである。

犯人のもっとも変わらない特徴は、被害者の証言によっても心理学者の観察によっても同じであって、それはみかけの正常性である。(……)

 

自分以外の人間の完全なコントロールを確立する方法とは何であろうか。その基本線は心的外傷をシステマティックに反復して加えていためつけることである。

それは無力化 disempowerment と断絶化(disconnection、すべての対人関係からの切り離し)を組織的に用いるテクニックである。

心理的コントロールの方法は恐怖と孤立無援感とを注入して被害者の「他者との関係においてある自己」という感覚を破砕するようにデザインされている。


暴力というものは恐怖を生み出す世界共通の方法であるけれども、犯人は暴力をめったなことでは使わない場合もけっこうある。暴力は最後の手段なのである。被害者をたえざる恐怖の状態に置いておくために暴力を使わなくてもよい場合が少なくない。殺すぞとか徹底的に痛めつけられぞという脅しのほうが実際に暴力に訴えるよりもはるかに多く用いられている。

 

被害者その人に対して直接的に脅すのと同じくらいに別の人への脅しをみせつけることには効力がある。たとえば、殴打の被害者となった女性の報告には、もし逃げようとでもするなら子どもを殺すぞ、親を殺すぞ、お前をかくまった友だちを殺してやるぞと脅迫された話が多い。


恐怖を増大させるには、また、暴力を規則性がなくて予見できない形で爆発させるとか、どうでもよい細かな規則を気まぐれに強制するという方法がある。

このようなテクニックの目的は詮じつめれば被害者に犯人は万能であり、抵抗は無益であり、その生死は絶対の服従によって犯人の歓心を買えるかどうかにかかっていることを思い知らせることにある。犯人も目的は被害者に死の恐怖を叩き込むことだけでは足らず、生かしていただいているのをありがたく思えということを叩き込まずにはおかない。

家庭内監禁であれ政治的監禁であれ、その生存者は時々、すんでのことで殺されるはずだったが最後の瞬間にまぬがれたと思い込まされるような目に遭ったと述べている。「確実に死ぬはず」を取り消してもらうということを何度かくり返されると、被害者は犯人を命の恩人だと思う倒錯に陥ってしまう。(……)

 

家庭内殴打においては、原則の審判にはしばしば性的屈辱が含まれる。多くの被殴打女性は、自分が不道徳と思い、あるいは反吐の出そうなほど嫌悪している性行動を無理強いされたと述べている。また嘘を吐くように、夫の不正を隠蔽するように、さらには違法行為に加わるように強圧されたと述べる者もある。

 

人間関係の侵犯には子どもたちを犠牲にすることも含まれる。妻を殴る夫は子どもを虐待している確率も高い。自分を守ろうとはしない女性でも子どもは守ろうとする人が少なくないが、徹底的に怯えてしまったために子どもが虐待されるのをみても手出しできなくなっている人たちもある。

一部の女性は内心の疑惑や反対を抑圧するだけで、子どもたちを甘いことばでさそって屈従させたり、さらには反抗するからといって処罰もする。

ここでもまた、この裏切りの構図をみれば、始まりは一見些細な譲歩のくり返しであるが、ついには子どもに対して度外れた身体的あるいは性的虐待が加えられても口をつぐんでいるところまで進んでしまう。

ここまでになると被殴打女性の精神的解体は完全となる。(……)

 

解放された後でも加害者がまだ身辺にいるという感覚が残ることは被害者の対人世界に大きな変更が加わったということである。捕囚期間中の強制的な対人関係は必然的に被害者の注意力を独占し、被害者の内的生活の一部と化し、釈放後も被害者の注意を吸収しつづける。

政治犯の場合には、釈放後も続くこの対人関係は、彼らを捕えていた連中のおかした犯罪のかずかずを調べ上げることに熱中するという形をとることもあり、もっと抽象的に、この世界において悪の勢力が放任されていることを憂慮してやまないという形をとることもある。

 

囚人は釈放後もしばしば彼らを捕えていた連中の居場所を追跡調査しつづけ連中を恐怖しつづける。性的奴隷、家庭内幽閉者、宗教的カルトに囚われていた者の場合、釈放後も持続する関係はもっと両義的な形をとるだろう。

すなわち、被害者はかつて自分を捕えていた者を恐れつづけ、いつかはまたみつけられて捕まると予期しながら、彼らがいない人生は空虚で混乱し価値がないと思うだろう。

 

p.112-139 

 

 ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)より第五章「児童虐待」

被虐待児は世間から孤立させられるだけでなく、他の家族成員からも孤立させられる。

被虐待児は日々味わうのである、自分の親密世界においてもっとも権力の強い成人が自分にとって危険な存在であるだけでなく、自分のケアをする責任があるはずの他の成人たちも自分を守ってはくれないことを──。

 

この守ってくれないということの理由が何であっても被虐待児にとってはどのような意味でもありがたくないのであって、もっとも善意に解する場合で無関心のしるしであり、もっとも悪意に解する場合には共謀の裏切りである。

被虐待児の目からみれば、秘密を外に出すなといわれて無力化している親は知っているはずなので、ただ十分なケアをしていれば、ぜったいに真相がわかったはずなのにと思う。おどかされて萎縮して無力化している親は介入してくれるべきなので、ただ十分なケアをしていれば、闘ってくれたであろうにと思う。

 

被虐待児は自分は見捨てられてただ運命の手に翻弄されるままにゆだねられているのだと思い、この見捨てられのほうを虐待よりもつらく苦しく腹立たしく思う。

 

ある近親姦の被害者は家族への怒りをこう述べている。すなわち「ものすごく腹を立てています。家で起こったことよりも、誰も私の言い分に耳を藉してくれなかったことです。母親は今でも起こったことはそんな深刻なことじゃないと否定しています。めったにないことですが、気分が落ちついている時は母も”自分がわるかった。何もしてやれなかったなんて、私としたことがどうしたのだろう”と言うのですが──。誰一人認めてくれなかった時には、家族たちは起こるがままにただもう放っておいたのです。だから、私はめちゃめちゃになるほかなかったのです」。(……)

 

被虐待児の心理的適応の基本的目的はすべて、両親たちがそれこそ毎日毎日、その悪意を、たよりなさを、冷淡さを、無関心をはっきりとみせつけているのに、それでもなお、それをみながらも、両親への一次的愛着を保つというところに置かれる。

この目的を果たすために子どもは実にさまざまな心理的防衛手段に訴える。この防衛の魔力によって、虐待は意識と記憶から壁で隔てられて実際にはそういうことはなかったということになるか、あるいは極小化され、合理化され、弁明のつくものとされて、何が起ころうともそれは虐待ではないということになる。

耐えがたい現実から事実においては逃れることもこれを変化させることもできないので、子どもは現実を心の中で変えるのである。

 

被虐待児は、虐待はなかったと思い込むほうが好きなのである。この絶望を満たすために、被虐待児は虐待されているという秘密を自分自身からも隠蔽しようとする。

被虐待児がこのために用いる手段には、あっけらかんとした否認もあり、意志によって考えを抑制するということもある。それこそ山ほどの種類の解離反応もある。トランスあるいは解離状態を誘発させる能力は、学齢期の子どもは元来高いのであるが、ひどい処罰をうけたり虐待されている児童の場合にはまさに至芸の域に達する。

 

児童期虐待のひどさと解離状態への馴染みの程度との間に関係があることを裏書きする研究が複数個存在する。大部分の被虐待児がトランスを活用するのに熟達するようになったと述べているが、一部の児童の解離能力はまさに巨匠というべきである。

烈しい疼痛を無視するすべを身につけ、記憶を複雑な健忘のヒダヒダの中に隠し、時間、場所、人の感覚を変え、幻覚あるいは憑依状態を誘発するすべを習得する、これらの意識の変化は意図的であることもあるが、多くは自動的となり、自分とは無関係な、付随的なものとなる。(……)

 

禁断の性的活動の片棒をかついでしまったということも被虐待児の自分は悪い子だという感じを裏書きする。搾取的状況から拾い集めた満足がかすかでもあれば、その子の心の中ではこれこそ虐待の全責任が自分に負わされ、自分が劣っている証明になってしまう。

性的快感を少しでも覚えたり、虐待者に特別注目してもらえることに喜びを感じたり、かわいがってもらおうと取り引きに応じたり、何か特別なものをもらうために性的関係を利用したりするならば、このような罪こそ自分の心が邪悪だという証拠となってしまう。

 

最後に、被虐待児の〈自分の心は悪い〉という感じは、その子が別の人たちに対する犯罪に共謀するように強制される場合には複雑微妙に加重される

被虐待児はしばしば共謀に抵抗する。時には虐待者と巧みな駆け引きをして、自分を犠牲にして自分以外の者を守ろうとさえする。

ただ、この駆け引きは必ずうまくゆかない。どのような子どもでも大人並みの庇い役をやりとおす力や才覚があるはずはない。どこかの一点で、被虐待児は、虐待者の手を逃れる手段を編み出すが、実はそうすれば虐待者は別の餌食をみつけるだろうとわかっていながら、そうするのである。

 

他の子どもが虐待されているのを目撃しながら口をつぐんでいるということも起こるだろう。他の子どもたちを虐待する側に引きずり込んでしまうこともあるだろう。

組織による性的搾取においては、子どもをカルトなり売春組織に加入させる入門儀式として、必ず他の子どもたちを虐待させるということがある。

 

ある生存者はある年下の子の性的虐待に加わるよう強制された様子をこう物語っている。すなわち「私はお祖父さんさんが何をしていたか知っていました。よく私たちをしばり上げました。私とイトコたちをです。それから私たちが祖父のアレを──アレです──口にくわえるようにと要求しました。でも私たちがみんなで私の弟を押さえつけてお祖父さんのアレを口に押し込んだ時が最悪でした」。

 

このような恐怖のワナにはまった子どもは、虐待者の罪の責任はどうしてかはわからないけれど自分のほうにあるのだと思い込むようになってゆく。

自分がただこの世に生まれてきたということだけで自分の世界のもっとも強力な人たちが怖ろしいことをするようになるが、それは自分があの人たちをそうさせているのだと思い込むのである。

そうであれば、自分の本性が頭の先から足の先までまっ黒なのは確かである。自己を語ることばはひどい嫌悪のことばになる。生存者たちはお定まりのように、自分はふつうの人間関係の中に入れない人間だという。(……)

 

自分は汚れた、世をはばかる印のついた者だという自己規定を育てて、被虐待児は虐待者の悪を自分の中に取り込み、そのことによって両親への一次愛着を維持する。自分は悪い心の持主だという感じが関係を保ってくれたのであるから、この感じは虐待が終わった後でも存在をやめない。

 

それは子どもの人格構造の安定した不変の部分となってしまう。虐待が露見したケースに介入する保護司たちは決まりとして被虐待児にきみたちは悪くないのだ、間違っていないのだと請け合うようにする。

ところがこれも決まりのように、子どもたちはいいえといって、罪なしとされるのを拒否する。

また、虐待状況から脱出してきた成人の被害者も自分自身を軽蔑の眼差でみつづけ、虐待者の恥と罪を自分に引き受けつづける。

内的邪悪性という深甚な感覚は人格の核心となり、そのまわりに被虐待児のアイデンティティがつくられていて、それは成人になってからの生活にまで持ち込まれる。

 

 

p.155-164

 

ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』(中井久夫 訳、みすず書房)より「訳者あとがき」

私はまた、いじめがなせ周囲に認知されにくいかを本書によって改めて理解した。本書はいじめを事例としては扱ってはいないが、それは本書の前半、特に第五章の「監禁状態」や第六章の「児童虐待」を読み進めると次第にわかってくる。
加害者の仕事は跡を辿れば政治的とでもいうべき周到さがある。

 

加害者はまず被害者を孤立させる。

そのためのPR作戦に教師もかかることが少なくない。

「孤立化」がほぼ完全となったところを見澄まして、一切の抵抗や反抗が無駄ということを証明する「無力化」にかかる。

この戦略が具体的詳細に書かれていて、いじめる側に本書が読まれては困るという考えが一瞬頭を掠めたほどである。

被害者が完全に抵抗を放棄して「降伏 surrender」の状態に陥ったならば、加害者の些細な緩め、見逃し、微笑みさえも非常な好意、恩恵と受け取り、それを得るためには加害者のために何でもする。

完璧な仲良しを大人の前でも演じてみせ、時には加害の手先をも勤める。

そういうこともあるために、被害者は自分を最悪の人間と見なすようになる。

すでにPR作戦の結果、いじめの被害者は、自分を無辜の善良な被害者と思っていない。

被害者は自分が悪人でおまけに意気地なしで醜態を人目に何度となく曝した世を憚る人間だととうに思い込んでいる。

この結果、いじめの最悪の状態はかえって大人には認知されないのであって、それを私は仮に「透明化」と呼んでみた。

自殺は最後の自己の尊厳を守る行為でありうる。


p.392 

 

ジュディス・ハーマン『父-娘 近親姦 「家族」の闇を照らす』(斎藤学 訳、誠信書房)より「あれからの二十年」

 加害者の言い分はこの20年間ほとんど変わっていない。加害者を研究する人びとは相変わらずお決まりの屁理屈や言い逃れに遭遇する。

近親姦を犯す父親たちはかたく信じているようだ──子どもにも大人とセックスする自由がある、またはあるべきだ。子どもはそういう体験によって傷つかないどころか、恩恵をこうむることさえある。それに、もし害があったとしても、それは自分の場合に当てはまらない、などと。

 

多くの加害者が、自分は並の人間の道徳規範を免除された特権的エリートだと思っているらしい。自分より劣った者たちにとっては犯罪になるようなことでも、自分にとっては高次の法で保障された権利なのだというわけだ。

 

こうして、ニカラグアの大統領ダニエル・オルテガは、継娘ゾイラメリカ・ナルバエツ・ムリロを(彼女の証言によれば)12歳のときから性的に虐待し続け、それを次のように正当化したのである。「私のように忙しい人間は、定期的に性欲を発散させる必要があるのです。つまり、彼女はその犠牲的行為を通して、サンディニスタ(ニカラグアの左翼武装革命組織)の運動を助けていたわけです」。(……)

 

加害者は自分の嗜好を防衛することにはすさまじい執念を燃やすくせに、被害者の気持ちにはまったくと言ってよいほど無頓着である。被害者の気持ちに注意を払う加害者がいるとしたら、それは相手の苦しみから喜びを引き出すサディストくらいのものである。それ以外の場合は、被害者に対する加害者の共感や思いやりの欠如に多くの観察者が驚いている。

ある研究では、自分の行為に対する後悔や悔恨の念を表明した加害者は、たったの14%だった。


これに対して、被害者のなかには加害者の気持ちを知って理解したいと強く望む人がたくさんいる。だが、それはたいてい報われない望みである。真の対話がないために、被害者はしばしば自分の気持ちを相手に投影しようとする。シルビア・フレーザーは、父親について次のように書いている。

「私にはそんな人生の寂しさを理解することすらできない。あんなことをしてしまった父の欲求不満や、その結果生じたにちがいない苦悩を想像することができない。父は私が喜んで犠牲になっていると思ったのだろうか。自分が昔されたことを私にしただけなのだろうか。私があのとき記憶をなくしてしまったことを知っていただろうか。父も私と同じように深く分裂していたのだろうか。あのことを知っているパパと知らないパパがいたのだろうか」。

 

p.284 

 

 

心的外傷と回復

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父-娘 近親姦―「家族」の闇を照らす

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