ジュディス・ハーマン『父-娘 近親姦 「家族」の闇を照らす』(斎藤学 訳、誠信書房)の序章より
一般的な信仰によれば、ディンプナ*1はアイルランドの異教の王とキリスト教徒の王女との娘として生まれる。母親は彼女がまだ小さいときに死んでしまうのであるが。
王妃の死後、残された王はなぐさみが得られないままである。そしてようやくディンプナが母親そっくりなのに気がつくのである。それで娘と結婚すればいいと考えるのだった。王を説得できないとわかったディンプナは、『たくさんの毛皮』と似ているが、変装して逃亡し、海を渡ったのだ。ゲレベルスという名の司祭兼贖罪司祭が同行していた。
二人はアントワープに近いギールの森に落ち着く。そして短い間ではあったが、簡素で平穏な日々を過ごした。
しかし娘の逃亡に激怒した王や執拗に探索を行い、ついに見つけるのだった。ディンプナが再び王に従うことを拒絶すると、王は家来に二人を殺すよう命じた。家来は躊躇することなくゲレベルスの首をはねたがディンプナには触れる者もいなかった。それならと王は自分の剣を抜き、娘の首をはねるのだった。彼女の身体は動物たちの餌となるままに放置された。ディンプナは15歳だったといわれる。
13世紀の初め、ある一般信仰が、聖ディンプナの遺骨の周りに起こった。多くの狂気と悪魔憑きの治療が彼女のおかげとされた。ディンプナは精神的な病をわずらった者の庇護成人と見なされた。
13世紀の終わりには、ギール(ヘール)に彼女の名を冠した精神病院が創設された。この施設は今も存在し、現在でもこの種のものでは最良のものと広く認められている。このサナトリウムの注目すべき特徴は、患者が町の住人の家に宿泊することである。そこで家事を手伝い、家庭生活を共有するのである。この人間的な考えかたは、つい最近アメリカの精神保健制度のなかで再発見された。
多くの殉教者と同様、ディンプナははじめ民衆によって聖者とされた。遅れてしぶしぶながら教会の権威によって認められた。聖者の記録によれば、彼女の話もそこに載っているのであるが、民間伝承の聖人伝によって汚されることに教会が抵抗したことが記されている。
ディンプナの話は出所が明らかでない。彼女の存在を記した記録も残っていない。たぶん、彼女はまったく存在しなかったのだろう。
しかしながら、ディンプナは民衆によって聖者とされた。なぜなら無数の女性たちの経験を代表しているからであった。多くの女性殉教者と同じく、彼女はレイプ、強制的な結婚、近親姦に抵抗した。その代償が自分の命であったとしても、抵抗したのである。
何世紀も性的な被害者であることに耐えてきた女性たちは、ディンプナの英雄的な行動を称え、彼女の正統性を理解した。権威によって認められるに足る記録が残されていないのにもかかわらず。
精神的に苦しんでいる者の庇護成人が近親姦の被害者であるのは適切なことである。感情的な苦しみを受けることが何を意味するのかを理解できるのは、彼女をおいてはいない。孤児になるのがどんなことなのか、家庭から急に離されるのがどんなことなのか、部外者として生きるのがどんな気持ちなのか、正常な社会のなかで亡命者のように感じるのがどんなことなのか、そういうことを理解するのに彼女以上の人は考えられない。
(中略)
近親姦について感情を殺して書くことはできない。この問題が完全に隠されてきたのは神話と民間伝承だけにとどまらず、イデオロギーにおいても同様であった。私たちは率直なフェミニスト的見方をすれば、現在存在しているデータを最もよく解釈できることがわかった。男性の優位と女性の迫害を理解することなしに、なぜこんなにも多くの近親姦の犯罪者(叔父、兄、義父、父親)が男性であるのか、そして被害者(姪、妹、娘)の多くが女性であるのかを説明するのは不可能である。
フェミニストの立場からの分析なしには、どうして近親姦の実態がこれほど長く、一般に信じられるところでは責任のある専門の研究者たちによって抑圧されてきたのか、なぜこの問題の公然とした議論が、女性解放運動を待たねばならなかったのか、なぜ最近の近親姦についての弁明が、よく知られた男性雑誌、それと近い関係にあるすべてが男性で組織されたセックス・リサーチ研究所にあったのか、そういうことを説明するのに途方に暮れるであろう。
近親姦への理解は、親の権力と子どもの必要性を確かな基礎的仮説とすることにある。親が子供より権力があるのは当たり前のことだと見なされている。これは逃れることのできない生物学的事実である。小さな子どもは生き延びるために、完全に親や面倒をみてくれる大人に依存している。子どもが健全な成長のために、親による無条件の保護と養育を必要とするのはまったく当然のことである。
子どもはお返しすることはできない。親は子育てのなかで多くの報いを得るかもしれない。しかし子どもから食べ物、衣類、住居、性を満たしてもらうことを期待できない。親が子どもを、家庭を支えるために働かせるとき、それは児童労働の搾取である。親が自己の性的な満足のために子どもを利用するのが、すなわち近親姦である。
この理由により、近親姦は親にすべての責任がある犯罪と考えるべきである。「犯罪者」と「被害者」という語句は状況を正確に表現している。多くの人びとがこの語に対して反対意見をもっているとしても、この語句を使用することが複雑な人間性を単純なカテゴリーに分けてしまっているということはない。
自分の娘を性的に虐待する男は犯罪者以上である。自分の父親と性的関係を持った女性は、自己のアイデンティティを被害者としての自分の立場から得ることはできない。
しかしこれらの語句は近親姦犯罪との関係において使われるべきである。それによって責任の所在を明確にできるからである。
父と娘の近親姦は、最も頻度が高く報告される種類の近親姦というだけでなく、女性の性的被害の典型的な例である。
父と娘の関係、言い換えれば大人の男性と女の子の関係、それは想像しうる最も対等でない関係である。
p.2-5
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*1:Saint Dymphna https://en.wikipedia.org/wiki/Dymphna