The Reverberator

メモ用

性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義しなおし、確立していくこと、語りはじめること、たどたどしくとも語りはじめること、沈黙をやぶったその声を大きく広く響き渡らせること

森田ゆり編著『沈黙をやぶって 子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言』(築地書館)より

この本を一読して、なんだこの程度のことで痛いだ生きづらいだといっているのか、世間にはもっとひどい目にあっても黙って耐えて生きている人間がいっぱいいるんだ、と思う人もいるでしょう。読者ののぞき見趣味を満足させるような残虐体験告白録を本書に期待してもムダです。

 

性暴力の深刻レベルのコンテストではないのです。被害者の精神的傷跡(トラウマ)の深さ、浅さを周囲の人間が「外傷はないんだから忘れてしまいなさい」「一度だけだったからたいしたことはない」「性交までいかなかったから、騒ぎ立てることはない」などと言って勝手に決めることは、実は加害者が自分の行為を正当化する口実と見事に一致するのです。「外傷を与えているわけじゃないからいいだろう」「一度だけの過ちだから許される」「性交を要求したわけじゃないんだ」と。

 

このような加害者の論理にいともたやすく社会が同調してしまうのも性暴力のきわだった特性です。被害の深さ、浅さは、被害者のその後の人生にその暴力体験がどのような影を落としたかによってしか、はかる基準はありません。パートⅢに収録した「バナナ」の筆者、「独り暮らしの婆」は、幼児期に強姦されたたった一度の体験を「初めて文字にして70余年秘めた胸の傷が涙と共に溶けてゆく」と書いています。彼女の経験を「一度だけだったからたいしたことはない」といったい誰が言えるでしょうか。

 

子どもへの性暴力を被害者の視点から分析し解決策を練っていくこと──ようやく性暴力を社会問題としてとりあげる機運が生まれてきた日本で、今もっともなされなければならないことは、この被害者の視点の確立です。

 

いったい何を性暴力と定義するのか。その決定に被害者の声は反映されていません。性暴力犯罪を取り締まる法律は被害者の体験とはかけはなれたところで成立したものです。強姦を扱う警察官も裁判官も被害者の視点に立ったら強姦に対する対応がいかに異なったものになるかなど考えもおよばないのでしょうか。


「やめよう夜道の一人歩き」といった防犯キャンペーンが、現実の強姦防止には何の役にも立たないことは、被害者の声を集めればすぐにあきらかになることです。被害者が大人であれ子どもであれ、強姦の圧倒的多数のケースが夜道で見知らぬ者から襲われるのではなく、屋内で知人から襲われるからです。

さらに、夜道の一人歩きをする女や子どもこそが悪いといわんばかりのこのキャッチフレーズの暗示する責任のなすりつけは被害者の立場をまったく無視している好例です。

 

子どもへの性暴力を被害者、すなわち子どもの視点から分析すると、まず第一にあきらかになることは、性暴力が大人-子どもという社会的力関係の不均衡という社会的条件の上に培養される犯罪だということです。

このことについてはパートⅣで充分に論じていますがこの視点を明確にもっているかいないかで、子どもへの性暴力の分析、治療法、防止策は大きくちがっています。それはいま風にいえば子どもの人権の立場から問題に取り組むことにほかなりません。

 

日本ではチャイルド・セクシュアル・アビューズ(child sexual abuse)という言葉を一般には「児童性的虐待」と訳しています。しかしそう訳すことは言葉の定義に混乱をひき起こし、すでに専門家どうしの会話や議論にも困難をもたらしているようです。

 

日本の福祉、法律の現場では「児童虐待」は「親または親に代わる保護者によって非偶発的に18歳以下の児童に加えられた身体的、精神的、性的暴行、保護の怠慢」と定義され、そのひとつのタイプとしての「性的虐待」は「親によるインセストまたは親に代わる保護者による性的暴行」となっています。

すなわち、親、保護者以外による性的暴行は児童虐待の範疇には入らないわけです。アメリカでは法律用語としても福祉現場にあっても child sexual abuse の加害者を親、保護者に限定する定義はありません。

 

この本に収録した体験記の加害者は、親、親戚、兄弟、知人、教師、医師、友人、見知らぬ人とさまざまです。言葉の混乱を避けるために私は可能なかぎり「児童虐待」「性的虐待」の言葉を使うのをさけて、「性暴力」または「性的暴行」という言葉を使っています。

「性暴力」とは抽象概念としての言葉で、必ずしも身体的危害、殴る、蹴るをともなう性行為を意味しているわけではありません。

 

親または保護者による性的虐待は、治療・防止がもっとも困難で、友人や知人からの性暴力とは異なった対応を必要とすることは事実です。しかしだからといって親、保護者以外の者による性暴力を問題にしないですむわけにはいきません。(……)

 

被害者の視点から、すなわち子どもの人権の立場から、性暴力に取り組もうとするならば、それを親、保護者による「児童性的虐待」と限定してしまうことに、私は同意しかねます。

個々のケースの特殊な事情にそくして対応することは不可欠ですが、同時に、加害者が誰であれ、子どもに対する性暴力全般に共通する事実を認識しておくことも大切です。

 

子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに対して強制し、押しつける性行為であると定義できます。

この本の中で私が「性的虐待」という言葉を使う場合は、この「性暴力」の定義とまったく同じ意味をもつ言葉として使っていることを付記しておきましょう。

 

大人と子どもという圧倒的な力関係の不均衡、男と女という力の不均衡が容認されている社会には、性暴力は、たとえ目に見えず、耳に聞こえなくとも、おびただしい数で起きています。

力を有する者が力を持たない者を利用することが大手を振ってまかり通っている社会のその構図を見据えたとき、はじめて性暴力の被害者たちの怒りと苦痛の声が、沈黙の闇からふきあげてくるのを見、聞くことができるでしょう。

 

今もなお声なき淵に沈んでいる日本の性暴力の現実は言葉をもっていません。「児童虐待」という語のきわめて限定された定義に入らない子どもへの暴力は、なんという名をつけたらいのでしょう。

日本語には性器を卑語や隠語ではなく、日常会話の中で語る用語すらありません。陰茎、睾丸、膣、陰核といった語は医学用語としては使われても、日常社会で使われる言葉ではありません。

性暴力を受けた子どもが、大人にその状況を細かく説明しようとするとき「男はあれをあたしのあそこに押しつけてきた」とでも言うしかないのでしょうか。

 

言葉は、その言葉が使われる文化と社会の鏡です。性暴力について語るための用語や概念が存在しないということは、性暴力が日本の社会で長く無視され、誤って理解されてきた歴史と現実を如実に語っています。

性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義しなおし、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。

 


p.13-18 

  

 

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