リチャード・B. ガートナー『 少年への性的虐待 男性被害者の心的外傷と精神分析治療』(宮地尚子ほか訳、作品社)より
成人女性が少年の性を目覚めさせるという映画描写
Johanek(1988) が述べるように、「大衆文学は、年上の女性によって大人の性へと導かれる少年の物語でいっぱいである」(p.108)。
例えば映画という大衆メディアで、女性との未成熟な性がどう描かれているかを少年たちが探したなら(例えば、『お茶と同情』[Tea and Sympathy]、『卒業』[The Graduate]、『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』[Harold and Maude]、『ラスト・ショー』[The Last Picture Show]、『おもいでの夏』[Summer of '42])、そこに不安や不快さといった感情はほとんど見出せない。
そのような体験は、ほぼ例外なく好意的な視点から、経験豊かで優しく魅力的な年上の女性(『好奇心』[Murmur of the Heart]においては母親)によって思春期の少年が男になっていく性的通過儀礼として描かれる。
このような映画の中では、少年が年上の女性とのセックスを嫌がるかもしれないなどとはまず考えられない。たとえ、最初は恥ずかしげにぎこちなく誘惑に反応していたとしても、たいていの場合、彼らは驚くほど手慣れた恋人となっていき、このような関係が彼らを「本物の男」に変えるのだという思い込みを強化させる。
彼らがこうむるであろう長期的な悪影響は、無視されるか、過小評価される。
逆に、女性は搾取的でなく脅威でもないように描かれることが多い。それどころか高貴で、自己犠牲的な存在として描かれることもある。時には、最後に少年から捨てられ、私たちが同情の念を抱く被害者としてさえ、描かれることもある。彼女たちが子どもたちを性的に弄ぶ大人として描かれることは、決してない。
しかしよく見てみると、登場する女性の多くが愛情に飢え、少年とつい性的関係を持ちたくなってしまうような個人的な問題を抱えている。例えば、不安定な結婚生活を送っていたり、誰にも相手にされていないように思ったり、歳をとってしまったりと感じたり、失くした恋の痛手を抱えていたりするのである。
たとえ、個々の映画で描写される特定の状況には虐待やトラウマといった要素がなかったとしても、少年と成人女性とのセックスが肯定的に描かれる映画が次から次へと出てくることがもたらす文化的影響をも考える必要がある。そのような関係を嫌なこと、楽しくないこと、快楽を得ないことだと感じてもよいのだと、同様の状況におかれた少年が思えるようなモデルが存在しないのである。このことこそ、私が指摘したい点である。
すなわち、このような大衆メディアにおける描写は、少年とは大人の女性にセックスされるのを喜ぶものだという考えを擁護するだけで、そのような状況が性的な裏切り行為であるとか、裏切り行為になりうるという見方が認められることは決してないのである。
女性とのトラウマティックな性体験から立ち直って癒されていくのを妨げるような、被害体験に対する被害少年たちの態度を、そのような描写は強化し、永続させてしまう。そのような性的状況に不安や恐怖や危惧の感を抱くなんて、自分は他の少年と違っているんだ、男らしくないんだと少年は考えざるを得なくなる。彼は自分の感覚を無視し、否認し、意識にのぼらせないようにしていく。
p.72-74
成人男性から少年への虐待が映画においてどう描写されているか
少年と成人男性との性的関係は、映画においても、女性との性的関係とは非常に異なる観点で描かれる。女性からの場合は、少年に性教育や性の快楽を与えるという印象が強いが、男性からの場合は対照的に、性行為によって少年に屈辱を与え、少年を傷つけるものとして通常描かれ(例えば、『サウス・キャロライナ──愛と追憶の彼方』[The Prince of Tides]、『スリーパーズ』[Sleepers]、『ポーキーズ』[Porky's]、『パウダー』[Powder]、『聖ビンセント学園の少年たち』[The Boys of St.Vincents])、時には笑いを誘う効果を狙って使われる(例えば、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』[My Life as a Dog]、『ポーキーズ』『パウダー』)。
少年と成人男性の間の性的なシーンはたいてい強制によって残忍なものであり、性行為が完結するとしたら、まったくのレイプであることが多い。
さらに、これらの出来事は常に恥ずべきこととして描かれ、映画の中の少年は自分に起きたことを決して口外してはならないと信じ込んでいるように描かれる。この沈黙は大抵、彼らに悲惨な影響を与える(『サウス・キャロライナ──愛と追憶の彼方』、『スリーパーズ』、『聖ビンセント学園の少年たち』、『セレブレーション』[The Celebration])。
男性から虐待を受けた少年はしばしば、その後、反社会的な暮らしを送るように描かれる。これは確かによく見られることであるが、虐待を受けた少年の多くが、抑うつや不安や苛立ちを持ちながらも、繊細で共感能力に長けた人間に成長するのもまた事実であることは、映画には描かれない。
第5章で見るように、秘密を打ち明ける親友がいることは、小児期の性的被害のひどい影響を和らげることがわかっているが、起きたことを人に打ち明けると比較的よい結果がもたらされたというような、モデルとなる映画は実質上存在しない。
そのためこれらの映画を観ることによって、男性から虐待を受けた少年は、恥ずべき経験については沈黙を守るべきだ、と容易に結論づけてしまう。実際には、沈黙することが、事件そのもの以上の影響をもたらし、破壊的な結果を導くにもかかわらずである。
また彼らは、自分の経験が人に知られれば、嘲笑や社会からの追放につながるのではないか、と考える。嘲りや屈辱を避けるには、同性からの性的虐待については誰にも話してはならない、ということを学ぶ。
映画で描かれている少年たちは沈黙することによってひどい影響を被っているが、映画会社から許される行動は、過剰に男らしくなって復讐することだけなのである。
私はもちろん、芸術的表現の自由の制限や検閲をしろといっているわけではない。しかし、社会の他の人々と同様、創造的なアーティストにも、男性の性的被害についての意識を向上させてもらいたいと思う。
p.152-153
- 作者: リチャード・B.ガートナー,Richard B. Gartner,宮地尚子,岩崎直子,村瀬健介,井筒節,堤敦朗
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2005/03
- メディア: 単行本
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