The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

英国 Mermaids、「ペドフィリア擁護者」がメンバーであったことを謝罪、当該人物との関係を精算へ ~ これは対岸の火事じゃないだろう、日本でも「クィアとペドフィリアの関係」はずっと指摘されている #LGBT活動家はペド擁護しているクィア活動家と手を切れ

英国の Mermaids は、ペドフィリア団体「B4U-ACT」と接点のあったジェンダーセクシュアリティ研究者ジェイコブ・ブレスロウと Mermaids の間の不適切な関係を謝罪した。ブレスロウは Mermaids の評議員であったが、2011年に「B4U-ACT」の会議に参加していたことを『The Times』紙が突き止め、英国内で大問題になっていた。報道を受けブレスロウは Mermaids の評議員を辞任した。 今回の件で、Mermaids の対応は、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」としての責任のあり方を世間に対し端的に指し示したといえるだろう。

Mermaids apologises for trustee who quit over paedophile group

Mermaids trustee quits after paedophile aid group speech emerges

Mermaids trustee quits over paedophile-group links - BBC News

 

 

「B4U-ACT」とは何か。
性犯罪歴のあるマイケル・メルシャイマーによって2003年に設立された米国のペドフィリア団体。ペドフィリアを「minor-attracted people、子どもに性的魅力を感じる人たち」と呼ぶこと(そのように「置換」すること)で、ペドフィリアに対する世間体を取り繕うことを政治的戦略にしているようだ*1

 

ジェイコブ・ブレスロウによる「ペドフィリア擁護」はどんな戦術を取るのか?
〈非規範的な性〉という「クィア理論」でお馴染みの「魔法のような術語」を駆使し、「ペドフィリア擁護のロジック」を組み立てていくようだ。そこにはこの「魔法のような術語」の「使用を指定する」ことによって(それを前提にし、この言葉の使用の下で議論を展開することを強要し、それを自明なものとする)、それによって議論の主導権を握り、相手の思考を徐々に支配していこうとする動きも含まれる。
逆に考えれば、〈非規範的な性〉というものは、ペドフィリア擁護を〈その極限〉(最終的な目標、その隠れた本丸)として、「クィア理論」の中に組み入れたとしか思えない。だからクィア理論で扱うクィアとは、それを突き詰めると、いつか、どこかで、ペドフィリアに向かって収束するだろう。

 

Mermaids 側の弁明

  • ブレスロウとの関わりは間違いだった。
  • ブレスロウは Mermaids の評議員に任命されるべきではなかった。
  • ブレスロウの素性を知った今、彼が Mermaids のメンバーであったことに恐れおののいている。
  • 「B4U-ACT」やブレスロウの主張は Mermaids の価値観と完全に相反する。
  • 若年者の安全こそが私たち Mermaidsの最優先事項である。
  • 外部の専門機関に委託しメンバーの採用プロセスを再検討する。
  • このニュースによって世間に対し不安や懸念をもたらしたことを深くお詫びする。

 

指摘された Mermaids 側の問題点
ジェイコブ・ブレスロウの名前をGoogleで検索すると、彼のペドフィリアに関する言及やペドフィリアの擁護の記事が上位にランクされる。Mermaids 関係者はブレスロウの素性を本当に知り得なかったのか?

 

今回の件で Mermaids が被った社会的制裁
The National Letter Community は Mermaids への資金提供を一時停止した。

 

 

日本においてこの「Mermaids 問題」は対岸の火事なのか?
ジェイコブ・ブレスロウのエピゴーネンは日本にもすでに複数存在しているだろう(それに感化されたものも含め)──私たちはそう思っているし、事実、私たちはそういう場面にすでに何度も出くわしたことがあるし、それは君たちも十分に知っているはずだ。日本において「クィアペドフィリアが含まれるか問題」の原因をつくったのは、いわゆる「反LGBT」の立場を取る者だけではないこともを私たちは知っている──それは「クィア自身」だ。もし、「クィア」が「反LGBT」であるならば、それは当然だろう。 そんなことを君たちが──「私たちがそれを知っている」ことも含め──知らないわけはないだろう。一緒につるんでいる相手の活動、SNSでの言及等を知らないなんて誰が信じると思うのだろう。Googleで「クィアペドフィリア小児性愛)」を検索してみるがいい。メディアが本気になれば──『The Times』がそうしたように──例えば、かつて「ペドフィリアクィアに含まれる」と記し、後に世間体を意識して削除した文書ぐらいなんていくらでも容易に突き止めることができるし、何かもっと「決定的な証拠」を突き止めるに違いない。Mermaids もそうであったが、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」の代表者やそのメンバーが「ペドフィリアの擁護で知られている人物」と接点を持つことのリスクを十分に考えるべきだ。普通に思うだろう、なぜそんな人物と接点があるんだ、と。君たちはそれにどう応えるべきなのか準備しておいたほうがいいだろう。


ジェイコブ・ブレスロウは大学院生だったときに「B4U-ACT」の会議に出席し「ペドフィリア擁護」の講演を行ったという。ときおり「クィア理論は(極論を言えば)クィアな視点*2さえあれば当事者の存在は不要」みたいな「信条告白」が囁かれるが、ブレスロウは、研究者としてのかなり早い時期に「ペドフィリア当事者」と接点をもっていた。どちらかが先に交流を持ちかけたんだろう。「ペドフィリア当事者」が「ペドフィリア擁護者」に声をかけたのだろうか、あるいはその逆か。注意しておきたいのは「クィア理論は〈ここ〉まで射程を広げている」と発言することは、「〈そこ〉にいる該当者」に向けて何かメッセージを送っていることも含んでいる、と言えることだ。同じことだが「〈αのその先へ〉、という議論」は「αのその先の、さらに先の、またさらにその先の……〈その極限〉へ向かう議論」を含んでおり/それを目指していることも、やはり注意しておくべきだろう。

 

 

【関連】

*1:普段はウェブサイト等でこういう情報はきちんと確認するのだが、当該サイトを見ると不愉快になりそうなのでニュース記事からある程度、適宜、推測した。以下も同様

*2:クィアな視点」だとか「クィアな感性」だとか、正直、何を言っているのかわからない。循環することなしに、これらの言葉を説明できないだろう。すなわちそこにはごまかしがある。

非常勤講師ノーマティヴィティ Part2、あるいは男性がジェンダーやフェミニズム領域のポストを狙うことへの不信(クィアならいいのか?)

 

以前、クィア理論の信憑性の問題で、非常勤講師ノーマティヴィティという解析ツールが提唱されました。これは、うだつのあがらないクィア大学院生のアンチョコとして知られている、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの原理的なロジックを検証するために、有志のエンジニアによって開発されました。


最初に、解析ツールとしての非常勤講師ノーマティヴィティというものが、どのようにして構成されているのか、軽くおさらいしておきましょう。簡単に言えば、写像写像です。写像というと難しく感じますが、簡単です。

 

まず、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを使用しているクィアなんちゃらを探します。そのクイアなんちゃらは、バカの一つ覚えノーマティヴィティを、何かにあてはめて偉そうにしているのですぐに見つかります。リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを棒読みして、何か言った気になっているので、ドヤ顔のクィアを見つければいいのです。この、対象となるクィアなんちゃらがバカの一つ覚えノーマティヴィティを何かにあてはめている、というのが最初の写像になります。

 

ここで私たちの目標を確認しておきましょう。私たちはクイア理論の信憑性を問題にしています。ですから、私たちがすべきなのは、検証です。リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの検証です。

 

それはどうするか。簡単です。バカの一つ覚えノーマティヴィティを、それを使用している人物に対して、またはその周辺に対して、まさにクィアなんちゃらがそうしているように、クィアなんちゃら自身の写像を使って、クィアなんちゃら自身に対して、あ、て、は、め、て、みればいいのです。実際の、オリジナルの、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを知らなくても、私たちには、クィアなんちゃら特製の写像があります。この特製の写像をクイアなんちゃら自身に、鏡の反射のように、向きつけるのです。これが写像写像の意味です。

 

これはバカの一つ覚えノーマティヴィティだけではなく、他のクイア理論、例えばピンクウォッシュなどにも有効です。


では、非常勤講師ノーマティヴィティの構成を見てみましょう。例えば、ある大学で非常勤講師の人たちが専任講師と同じ待遇を求めて行動しているのに、ある非常勤講師がその大学の専任講師の公募に応募したとしたらどうでしょう。非常勤講師と専任講師の間の格差を温存したままで、自分だけが専任教師になる。すべての非常勤講師が専任講師と同等の身分になっていない現状に挑戦せず、他の非常勤講師の人たちを置き去りにして、自分だけが非常勤講師の身分を脱し、正規雇用の専任講師の身分になろうと目論む。


これは、まさにリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの要件を満たしています。このロジックが、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの核なのです。そしてこれが、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを、それを使用しているクイアなんちゃら自身に逆写像することが、私たちの非常勤講師ノーマティヴィティと言うツールのアルゴリズムになっています。


ただですね、そしてここが重要なのですが、現在のバージョンの非常勤講師ノーマティヴィティのアルゴリズムは、雇い止め問題という具体的な事件を条件にしていますが、その条件をなくして、もっと一般的に作り変えることも可能です。


つまり、ある人物がリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを使用していなくても、非常勤講師と専任講師の間の格差を温存したままで自分だけが常勤講師になる、という条件だけでも構成できる。事実、クィア大学院生あたりが棒読みしているリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの主張をよく整理してみると、それって何とでも言えるね、万能マシンだよね、という感想しかありません。もちろんその場合は、その何とでも言えるような写像を使用しているので、「何とでも言える」は、「誰も彼も」という写像として変換されます。つまり、常勤職を目指す非常勤講師であれば、誰も彼も、非常勤講師ノーマティヴィティに抵触しているとして告発されてしまうことになる。

それは妥当なのでしょうか。

それはおかしいのではないかと思った皆さんは、オリジナルのリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティが、もともとおかしいのではないか、それこそ何とでもいえるような仕様になっているのではないかと気づいてほしいですね。


さて、今回私たちは、以前構成した非常勤講師ノーマティヴィティをもとに、新たなバージョンの非常勤講師ノーマティヴィティ、つまり非常勤講師ノーマティヴィティパートツーというものを構成したいと思います。ロジックは同じです。だから簡単に作れます。

なぜ非常勤講師ノーマティヴィティパートツーというものが必要なのかというと、すべての非常勤講師の人たちが専任講師と同等の身分になっていないのに、自分だけ専任講師になろうとする人たちを問題化する従来の非常勤講師ノーマティヴィティだけでは不十分な状況に対応するためです。それは大学の教員の男女比です。多くの人たちは、専任講師、非常勤講師を含め、大学の教員の男女比を改善すべきだと言っています。しかし状況は改善されているとはいえません。それはなぜでしょう。簡単です、男性側のやる気がないからです。自発的な行動を起こしていないからです。


ここで、万能ツールとしてのバカの一つ覚えノーマティヴィティを導入します。非常勤講師ノーマティヴィティパートワンの説明と違い、まず一般論から入りましょう。大学の教員の男女比の改善が目指されているのにもかかわらず、その改善にまったく寄与しない、むしろ現状を永続化しかねない、すなわち男性の非常勤講師が、大学の教員の男女比改善に挑戦しないで、自分だけはいいだろうと専任講師の公募に応募すること。それを非常勤講師ノーマティヴィティパートツー、または男性非常勤講師ノーマティヴィティと呼びましょう。


これは、論理的には、すべての男性非常勤講師が、非常勤講師ノーマティヴィティパートツーに該当し、その名の下に批判されることを可能にします。前述しましたが、もしこの非常勤講師ノーマティヴィティパートツーの論理がおかしいと思うのならば、オリジナルのリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティがおかしいというのは、言うまでもありません。繰り返します。男性の非常勤講師であれば、誰も彼も、非常勤講師ノーマティヴィティパートツーにより批判対象になることが奇妙だと思うのならば、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティのロジックが奇妙なのです。

 

話を進めます。ここから具体的に話になります。ここからが大事です。非常勤講師ノーマティヴィティパートツー、または男性非常勤講師ノーマティヴィティの疑いのある、とある男性非常勤講師がいます。その男性非常勤講師が、「自分だけはいいだろう」と専任講師になるために応募している学問領域が、こともあろうにジェンダーフェミニズムの領域だったらどうでしょう。大学の教員の男女比の改善に挑戦しない、やる気のない男性非常勤講師が、女性非常勤講師を差し置いて、ジェンダーフェミニズムの領域で大学のポストを狙っているとしたら、どうでしょう。その男性非常勤講師は、誰よりも彼よりもジェンダーフェミニズムを理解しているから、そういうことをするのでしょうか。皆さん、考えてみてください。

 

 

 

 

まだ言ってるの? モナー・ノーマティヴィティって?

バカの一つ覚えノーマティヴィティ

 

【関連】

一般のLGBTはお前の「受け持ちの生徒」でもなんでもない。偉ぶって偉そうなことを言ってくるな。なんで担当の教員を選べないんだ? 本当にクィア理論なんていらない

クィア理論/クィアスタディーズをやってる教員にとって、一般のLGBTは「その受け持ちの生徒」だと思っているのだろうか? 自分が「その教師」だと思われていると思っているのだろうか? 

 

 

 

一般のLGBTにとって、クィア理論/クィアスタディーズをやってる教員は、どんな教員だろうと、他のどんな専門分野の教員よりも「私たちのために、きっと何かをやってるはずだ」と信じ、それに疑義を挟むことなく、その特別なステータスを既成事実として問答無用で認めなければならないのだろうか? 一般のLGBTにとって、クィア理論/クィアスタディーズは、他のどんな分野の学問領域よりも優先して、その学問としての価値を無条件に認め、それを無条件に受け入れなければならないのだろうか?

それは自明なのか? そんな契約をした覚えはない。何かがおかしい。

 

 

#クィア理論なんていらない

 

 

【関連】

 

それって……生半可にクィア理論を齧った連中から「関西大学ノーマティヴィティ」とか「関西大学ナショナリズム」とかって言われないの? だって学位がないのにそれでも学がありそうに見せかけて少しでも他の人より偉ぶりたいクィア活動家にとって「クィア造語」をバカの一つ覚えのように連発することが「意識高そう&賢そう」に見える常套手段になってるじゃん

東京オリンピックの影で、あるいはオリンピック批判の陰で、日本の不公平・不公正を象徴するかのような問題が起こっていた。こちらの方のツイートが指摘しているように、コロナワクチン接種をめぐる不公平・不公正である。つまり、

「大企業と一部の有力大学」が「突如として」優先的にワクチン接種が受けられるようになった職域接種の不公平・不公正である。
「大企業と一部の有力大学」が優先的に職域接種でワクチン接種している一方、その結果として、自治体のワクチン供給が減り、予約が不可能になった不公平・不公正である。

 

関西大学 ワクチン2510回分を廃棄 冷蔵庫の適正温度管理できず

www3.nhk.or.jp

関西大学は、6月21日から学生や教職員などおよそ3万5000人を対象に職域接種を進めていますが、確保しているワクチンの数に余裕があるため、今後も接種を予定どおり行うとしています。

 

ワクチン8090回分廃棄 温度管理ミスやキャンセルで:朝日新聞デジタル

最も多かったのが関西大学で、冷蔵庫の不具合により2510回分が廃棄された。

 

厚生労働省 新型コロナウイルス感染症に係る予防接種における職域接種のワクチン廃棄事案について

https://www.mhlw.go.jp/content/000817415.pdf

 

 

自分もそうだったが、多くの人が漠然と感じていたコロナワクチン接種の不公平・不公正感は、おそらく、早々と職域接種を開始した関西大学で2510回分のワクチンを破棄した事件によって、多くの人の意識に上ることになったのではないか。

多くの人が薄々と感じていたコロナワクチン接種の不公平・不公正感は、関西大学が職域接種で2510回分を破棄した事件──単に2510回分ものワクチンを破棄しただけではなく、むしろ2510回分ものワクチンを破棄したのに「それでも大学としてワクチンを確保している」という大学の発表によって、その問題系がくっきりとした像を結び、多くの人々にその問題性がはっきりと見えるようになったのではないか。

 

そういった意味で関西大学の果たした役割は、良きにつけ悪しきにつけ、非常に大きいだろう。関西大学のワクチン破棄事件から、「大企業中心の職域接種」について、以下のような問題が自然に導かれる。

①高齢者のワクチン接種が終わる前に、どうして「大企業中心の職域接種」が先行されたのか。大企業または関西大学のような一部の大学に所属していることが、どうしてワクチン接種の序列の要因になるのか。なっていいのだろうか? その序列は格差を生み、それを永続化させる。それは「新自由主義と親和的」なのではないか?

②医学的優先順位が、自民党政権の、河野大臣議員の掛け声によってなしくずしにされ、それに追随した「大企業と一部の大学」が早々とワクチン接種を終えることは、つまり国家によって選ばれた国民が、自分が国家によって優先的に選ばれた国民であることを十分に自覚しつつ、それに乗っかったことになるのではないか。それは「ナショナリズムと親和的」なのではないか。

 

(①と②は実のところほとんど同じことを言っているにすぎない。ここでの「新自由主義」と「ナショナリズム」の区別は、「クィア関係者」が「クィア理論の造語」を使用するときの「ちょっとしたアレンジ」で「同じ内容の文章」を変形・成型するやり方に倣ったものだ。「クィア造語」は何とでも言える便利なものだ。「クィア造語」を構成する「新自由主義」と「ナショナリズム」は文章のちょっとしたアレンジやコカコーラのテレビCMを引っ張ってくるみたいなことだけで成立し、どちらを使っても大した差はない。「文章のアレンジ次第」でどちらかを、どちらでも選べる超便利なものだ。欲張りは「新自由主義」と「ナショナリズム」の両方の「クィア造語」を一度に同時に使う。)


実際に「大企業中心の職域接種」と前後して自治体のワクチン供給が滞り、多くの一般の住民の予約が不可になってしまったのは事実だろう。
その一方で、関西大学は2510回分のワクチンを破棄したのに「それでも大学として接種予定に問題はない」のは、なぜなんだろう。
こういう状況で「あるところにはある」のは、なぜなんだろう。
その理由は──そんなのどんなバカだってわかるだろう。

 

念のため、まだワクチンの職域接種の不公平・不公正の「像」が結ばない人(しらばっくれている人も含む)がいるかもしれないので、関西大学と地元自治体で吹田市の状況に焦点を絞り、それを時系列で確認しておきたい。

  

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【モラルの問題】

ある人が言っていたように、本来こういう不公平・不公正を追求すべき立場の人たちが同時に、自分たち自身の職域接種を抜け目なく確保していたという構造的な問題がある。
本来こういう不公平・不公正を糺すべき立場の人たちが、自身が実際にワクチンを接種したかしないかに関わらず、自分の所属している大学等が率先して行っている不公平・不公正に目を瞑っている欺瞞がある。
「本来こういう不公平・不公正を追求すべき立場の人」、すなわち以前「近似した問題」で、それこそ正義のヒーローのように「こういう不公平・不公正」を糾す──のではなく、「こういう不公平・不公正に対して無知である」と「特定の人たち」に対しいったい何の資格があるのか知らないが、常軌を逸したかのような思い上がった偉そうな態度で「クィア理論」だかなんだかを引いて「知ったかぶりをかました者」が、「今回のこういう不公平・不公正」に対して知らんふりをしている欺瞞がある。

 

そもそも、わけのわからない何とでも言えるような「クィア造語」で他人にレッテルを張るような行為は──常軌を逸していると思う。いったいどういう世界に住んでいる者が、そんなに自分が偉いと思うことができるのか。

クィアを標榜するだけで天皇にでもなったつもりなんだろうか?

何とでも言える「クィア造語」だからこそ、自分も「それ」に適用できたんじゃないのか? その「超便利さ」に疑問を抱かないのだろうか? それが理論としておかしいと思わないのだろうか? 

 

 

【関連】

 

hodge02.hatenablog.com

 

 

 

 

 

「これはセクハラではなく、ネオリベラリズムだ」 ~ アヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題をめぐる外道どものクィア・ポリティクス

 事件 ~ クィア・スペースにおけるセクシュアルハラスメント

 ニューヨーク大学のアヴィタル・ロネル教授が学生に対してセクシュアルハラスメントを行ったとして告発された。ロネル教授を訴えたのはNimrod Reitman。当時、Reitmanはロネル教授の下で指導を受けていた大学院生だった。


Reitman側は次のように主張した。ロネル教授は彼にキスをし、頻繁に彼の体に触り、彼に彼女の体に触らせ、彼に自分と同じベッドに寝るよう命じた。彼女は“cock-er spaniel”といった性的な言葉を彼に浴びせ、同様の内容のメールを大量に彼に送った。また、メールの返信がなかった場合、彼女は仕事上の罰を彼に与えた。
これらは大学教授の地位を利用したセクシュアルハラスメント、及び、性的暴行、ストーカー行為等であるとしてNimrod Reitmanは大学とアヴィタル・ロネルを訴えた。


一方、ロネル教授はReitmanのセクハラ告発を否定した。「これはセクハラではない」。自分とReitmanの間にあったことは、ゲイ男性とクィア女性の間のコミュニケーションだった──ロネル教授は、そう主張した。

 

調査の結果、大学当局はロネル教授の学生に対する身体的及び言葉によるセクシュアルハラスメント行為を認めた。Reitmanが学問研究のための環境(スペース)の変更を余儀なくされた責任はロネル教授にある、と。

 

What Happens to #MeToo When a Feminist Is the Accused?

www.nytimes.com

 

Power in the Ivory Tower | The Nation

https://www.chronicle.com/article/I-Worked-With-Avital-Ronell-I/244415

THE FULL CATASTROPHE | Bully Bloggers 

When Famous Academics Would Rather Condemn #MeToo Than Support Queer Victims

 

 

お友達の危機における被害者非難の陰惨なパロディ ~ ジュディス・バトラー

セクハラ問題で危機に陥っているアヴィタル・ロネル教授のために著名な大学の先生たちが徒党を組んで援護射撃を行った。この援護射撃の「枠組み」は明快である。典型的な被害者非難を行い、「ハメられた」加害者の罪を「これまでの立派な業績」によって糊塗し帳消しにすることである。

 

心強いことに、セクハラ加害者を擁護する著名な大学の先生方の中には、複数の著名なクィア理論家の先生方がいた。その筆頭がジュディス・バトラーであった。文字通り、ニューヨーク大学学長宛てに送付された大学の先生方の懇願=圧力めいた手紙の中で、バトラーの名前はその先頭を飾っていた。


ジュディス・バトラーは次のようなことを記す。大学の機密調査資料がどうであれ、私たちはロネル教授の友人だ、私たちはロネル教授が優秀で有能で立派な業績の持ち主であることを(もちろんあなたたちと同様に)知っている。そして、私たちはロネル教授に対してこのような悪意を持ったキャンペーンを張った学生個人のことも突き止めている。


ジュディス・バトラーがセクハラ被害者である学生の悪意を仄めかしたことは驚くに値しない。被害者非難は性暴力/セクハラ事件においてよく見られる典型的な負の側面だからだ。最近でも、伊藤詩織さんの件で、どれほどの犠牲者非難の言葉が「勇気を持って告発した」人に対して浴びせられたかを私たちは十分によく知っている。
被害者非難を行いつつ、バトラーらはロネル教授の華麗な経歴と学問領域への貢献、立派な業績を数え上げる。まるで有能な大学教員は恩赦を受ける特権があるべきだと大学当局に促しているかのように。

このことについても、例えば東大生や他の大学の医学部の学生が犯した強制わいせつ事件が起きたときに、被害者のことよりも、加害者側の「有望な将来」を気に掛ける──それが一方で「前途有望な若者の将来をつぶした」と被害者非難に容易に転化する──風潮を思い出させる。
権力構造分析のプロフェッショナルである著名な学者によるセクハラ加害者擁護はまさに鬼に金棒である。セクハラの加害者は「立派な業績」を持つ教員で、セクハラ被害者は一介の(元)大学院生。セクハラ加害者には著名な学者で構成された応援団もついている。著名な学者からなる応援団は、きっとニューヨーク大学当局にも顔が利き、口も利くだろう。大学でセクシュアルハラスメント問題が起こったときに、加害者の教員と被害者の学生との間に横たわる力の差は歴然としている。「配分」がまるで違う。

 

  

これはセクハラの問題ではない、ネオリベラリズムの問題だ! ~ リサ・ドゥガン

ジュディス・バトラーによるセクハラ加害者を擁護する(同時に被害者を貶める効果を持つ)言説は、先にも書いたように、全然驚くに値しない。「普通によくあること」だ。守られるべき有能な人物がいて、一方でそれとは別に守られるに値しない人たちがいる。私たちの人間としての価値は、こういうふうに既存の規範により予め統御されている。バトラーは自身の理論に対する公正さよりも身内を擁護することを優先しただけだ。だからそれなりに理解できる。


それに対してリサ・ドゥガンという人物によるセクハラ被害者非難のやり方には虫唾が走った。怒りを覚えた。外道のすることだと思った。


リサ・ドゥガンはロネル教授のセクハラ問題を論じるにあたり、まず、#MeToo movementにある「部分的な」側面なるものをまことしやかに提示してみせる。#MeToo 運動における告発者の売名行為と警察権力に訴えるある種にフェミニズムに対する危惧を表明し、それは「ネオリベラリズムと親和性がある」ことだと主張する。そう前振りをしておいて、その「部分的な」側面をロネル教授擁護とReitman非難に「全面的に」採用する。もちろん、このとき、ある運動の「どの部分的な側面」を選び、「どの局所的な地点」を注目させるのかは、リサ・ドゥガンの匙加減に依っていたことは見逃してはならない。

リサ・ドゥガンはセクハラの被害を訴えたReitmanについて直接的に「それは売名行為だ」と言わない。しかし、ドゥガンの#MeTooへの論評から、ドゥガンが何を言いたいのかは、その対応から明らかだ。そして自分が「専門家である」ことを強調して、「一般に」クィア教員はセクハラ告発される危険に曝されている、とリサ・ダガンは述べ、それに関する「仮説」を開陳する──その場合、同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生がクィア教員をセクハラで告発するのだし、ときにはクィア教員に「特別扱い」をしてもらいたい「クィアな学生」がそれが叶わなかったときに、その腹いせにクィア教員をセクハラで訴えるのだ、と。

リサ・ドゥガンは「一般的な話」をしながら、暗にReitmanがロネル教授に「特別扱い」を望み、それが叶わなかったから腹いせにセクハラで教授を訴えたのだと言ってのける。なぜなら、Reitmanはゲイであることを公言しているのでリサ・ドゥガンが周到に「一般的な話」として用意したクィア教員をセクハラで訴える学生の二つのタイプの内、「同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生」(A)ではなく「特別扱いを望んだが、それが叶わなかったクィアな学生」(B)であることは明らかだからだ。そうして18番の「ネオリベラリズムと親和性がある」、すなわち「これはセクハラの問題ではなく、ネオリベラリズムの問題だ」とくるのだろう。

 

リサ・ドゥガンの「急ごしらえの都合のよい仮説」によれば、クィア教員のセクハラ行為に対し、LGBT(あえてこの言葉を使う、「クィアではない」という意味を強調したいので)の人たちは、そのセクハラ行為を告発できなくなる──少なくとも告発しづらくなる。なぜなら、クィア教員をセクハラで訴えるような者は「同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生」(A)か「教員に特別扱いしてもらいたかったが、それが叶わず、腹いせに告発する学生」(B)の二つに一つであるかのような「仮説」の中に、すでに〈私たち〉は封じ込められているからだ。もちろんドゥガンは直接的にそう言っているわけではない。「一般論」を述べ「仮説」を提示し、そして「この場合は、つまりロネル教授の件はこういうことでしょう」、と暗に言っているのだ。もちろん順番は逆であろう。「この場合は、つまりロネル教授の件はこういうことでしょう」、と導きたいがために、それに相応しい一般論と都合のよい「仮説」を作り上げたと言ったほうがいい。第一、ニューヨーク大学の調査資料が機密であるならば、どうやってリサ・ドゥガンは事の次第を手に入れたのか? ここには「畏れ多くもクィア教員をセクハラで告発する者は……こういう者だ」と決めつけ、そのために後付けの「理論」を「当てはめて」、「そういう馬鹿な真似をしてはならない」と警告でもしているかのような権威主義者の顔が見えてくる。虫唾が走る。本当に外道としか言いようがない。

だいたいリサ・ダガンの「仮説」なるものは、性的暴行を受けた女性に対し「枕営業に失敗したため、腹いせにやったのだ」というネトウヨあたりの悪意ある言動と何が違うのか? 自分で調査をしていないのに、なぜ、そんなことが言えるのか──もちろんこのクィア教員は、直接的にそうとは言っていない、「一般的な話」をし「仮説」を提示しただけだ。でも、その「一般的な話」と「仮説」が、被害者への二次加害そのものになっている。なぜこんなことができるのか? 本当に外道としか言いようがない。虫唾が走る。

 

クィア・スペースとセクシュアルハラスメントとの親和性

アヴィタル・ロネルという人物が自分に対するセクシュアルハラスメントの告発を「クィア」で躱した──「クィア」で躱すことができると思っていたことに注目したい。「クィア」はセクハラ告発を回避させるツールになっている。このことがまさに僕が「クィア」に抵抗していることの理由だからだ。

クィア・スペース」とは「セクハラ・スペース」に他ならない。

だからこれ以上、クィア・スペースから犠牲者を出してはならない。

セクハラであるのかどうかは「クィア教員」が決めるものではない。

僕は以下のエントリーを書いたが、それは関連記事も含め、すべて「クィア」のセクシュアルハラスメント性を訴えたかったからだ。すべての関連記事は「クィア」がこれまでやってきたセクシュアルハラスメントに対する怒りを原動力に書いてものだ。

 

 

アヴィタル・ロネルの件で、改めて、クィアセクシュアルハラスメント性、クィアの暴力性、クィアの傲慢さ、クィアの薄汚さ、クィアの……を確認した。

クィア」に包摂されると、通常ならばセクシュアルハラスメントであることが、「セクシュアルハラスメントではない」ことにされてしまう。

これは人権侵害だ。

だから絶対に「クィア」に包摂されたくない。包摂させはしない。他人を勝手に強引に「クィア」に包摂する権能なんて誰にもどこにもない。そんなことは絶対に許さない。

自由意志を奪うことは絶対にできない

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ 

律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 

マタイによる福音書 23.27-28 新共同訳聖書 

アヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題によってクィア理論家たちの背信が明らかになった。クィア学者たちは、セクハラの被害にあった学生よりも、自分たちの仲間を優先した。それは普段自分たちが唱えている理論への背信でもあるだろう。

クィア」でセクハラを躱そうとするアヴィタル・ロネルもそうだし、その偉い先生を仲間のクィア連中がこぞって擁護を繰り広げる様も、本当に醜悪としか言いようがない。リサ・ダガンなんて問題をすり替えようとした。

普段、自分たちは何を説いて回っていたのか? 

このことから、まさに、そこにおいて「理論の信憑性」が浮上してくる。

 

そして僕がジュディス・バトラーよりリサ・ドゥガンのやり方に虫唾が走るのは、バトラーが自分の唱えた理論を放棄または封印して「同業者のために」「規範に準じて」一肌脱いでいるような感じなのに対し、ドゥガンの方はこの件においても、またしても自分の18番である「ネオリベラリズムと親和性がある」を〈売り出し〉ているように感じるからだ。何でもかんでも「ネオリベラリズムと親和性がある」と言えばいいと思っている……本当にあきれ返る。

正直、こんな外道の理論だか何だかを担ぎ上げ、 ネオリベラリズムに警鐘を鳴らしていたと持ち上げ、何年も前から同じことを相も変わらず繰り返すだけのクィアスタディーズ/クィア理論っていったい何だ? 

そんな「画一化・統一化」されたクィアスタディーズ/クィア理論の講義でいいのか? 

リサ・ドゥガンがアヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題において「どのように振る舞ったのか」をクィアスタディーズ/クィア理論の講義を受けている学生に知らせずに、そのことを黙ったままで「ネオリベラリズムと親和性がある」だとか「ノーマティヴィティ」だとかやるのか? 

そんな不誠実な態度でいいのか?

良心というものはないのか? 

 

思い出して欲しい。日本でもつい最近、早稲田大学で渡部直己教授によるセクシュアルハラスメント問題が起きたばかりではないかニューヨーク大学早稲田大学で起きたセクハラ問題が被害者が大学院生だったことまで含めてほとんど同じ事例ではないか。

 

……だから繰り返して言いたい──本年度から新しくクィアスタディーズ/クィア理論の講義を受講することになった学生の方々にお願いがあります、もし、その授業の中で担当教員が「ネオリベラリズムとの親和性」だとか「ノーマティヴィティ」だとか言い出したら、リサ・ドゥガンのセクハラ加害者擁護&セクハラ被害者非難についてどう考えているのか、その教員に質問してください。

 

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