The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

「これはセクハラではなく、ネオリベラリズムだ」 ~ アヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題をめぐる外道どものクィア・ポリティクス

 事件 ~ クィア・スペースにおけるセクシュアルハラスメント

 ニューヨーク大学のアヴィタル・ロネル教授が学生に対してセクシュアルハラスメントを行ったとして告発された。ロネル教授を訴えたのはNimrod Reitman。当時、Reitmanはロネル教授の下で指導を受けていた大学院生だった。


Reitman側は次のように主張した。ロネル教授は彼にキスをし、頻繁に彼の体に触り、彼に彼女の体に触らせ、彼に自分と同じベッドに寝るよう命じた。彼女は“cock-er spaniel”といった性的な言葉を彼に浴びせ、同様の内容のメールを大量に彼に送った。また、メールの返信がなかった場合、彼女は仕事上の罰を彼に与えた。
これらは大学教授の地位を利用したセクシュアルハラスメント、及び、性的暴行、ストーカー行為等であるとしてNimrod Reitmanは大学とアヴィタル・ロネルを訴えた。


一方、ロネル教授はReitmanのセクハラ告発を否定した。「これはセクハラではない」。自分とReitmanの間にあったことは、ゲイ男性とクィア女性の間のコミュニケーションだった──ロネル教授は、そう主張した。

 

調査の結果、大学当局はロネル教授の学生に対する身体的及び言葉によるセクシュアルハラスメント行為を認めた。Reitmanが学問研究のための環境(スペース)の変更を余儀なくされた責任はロネル教授にある、と。

 

What Happens to #MeToo When a Feminist Is the Accused?

www.nytimes.com

 

Power in the Ivory Tower | The Nation

https://www.chronicle.com/article/I-Worked-With-Avital-Ronell-I/244415

THE FULL CATASTROPHE | Bully Bloggers 

When Famous Academics Would Rather Condemn #MeToo Than Support Queer Victims

 

 

お友達の危機における被害者非難の陰惨なパロディ ~ ジュディス・バトラー

セクハラ問題で危機に陥っているアヴィタル・ロネル教授のために著名な大学の先生たちが徒党を組んで援護射撃を行った。この援護射撃の「枠組み」は明快である。典型的な被害者非難を行い、「ハメられた」加害者の罪を「これまでの立派な業績」によって糊塗し帳消しにすることである。

 

心強いことに、セクハラ加害者を擁護する著名な大学の先生方の中には、複数の著名なクィア理論家の先生方がいた。その筆頭がジュディス・バトラーであった。文字通り、ニューヨーク大学学長宛てに送付された大学の先生方の懇願=圧力めいた手紙の中で、バトラーの名前はその先頭を飾っていた。


ジュディス・バトラーは次のようなことを記す。大学の機密調査資料がどうであれ、私たちはロネル教授の友人だ、私たちはロネル教授が優秀で有能で立派な業績の持ち主であることを(もちろんあなたたちと同様に)知っている。そして、私たちはロネル教授に対してこのような悪意を持ったキャンペーンを張った学生個人のことも突き止めている。


ジュディス・バトラーがセクハラ被害者である学生の悪意を仄めかしたことは驚くに値しない。被害者非難は性暴力/セクハラ事件においてよく見られる典型的な負の側面だからだ。最近でも、伊藤詩織さんの件で、どれほどの犠牲者非難の言葉が「勇気を持って告発した」人に対して浴びせられたかを私たちは十分によく知っている。
被害者非難を行いつつ、バトラーらはロネル教授の華麗な経歴と学問領域への貢献、立派な業績を数え上げる。まるで有能な大学教員は恩赦を受ける特権があるべきだと大学当局に促しているかのように。

このことについても、例えば東大生や他の大学の医学部の学生が犯した強制わいせつ事件が起きたときに、被害者のことよりも、加害者側の「有望な将来」を気に掛ける──それが一方で「前途有望な若者の将来をつぶした」と被害者非難に容易に転化する──風潮を思い出させる。
権力構造分析のプロフェッショナルである著名な学者によるセクハラ加害者擁護はまさに鬼に金棒である。セクハラの加害者は「立派な業績」を持つ教員で、セクハラ被害者は一介の(元)大学院生。セクハラ加害者には著名な学者で構成された応援団もついている。著名な学者からなる応援団は、きっとニューヨーク大学当局にも顔が利き、口も利くだろう。大学でセクシュアルハラスメント問題が起こったときに、加害者の教員と被害者の学生との間に横たわる力の差は歴然としている。「配分」がまるで違う。

 

  

これはセクハラの問題ではない、ネオリベラリズムの問題だ! ~ リサ・ドゥガン

ジュディス・バトラーによるセクハラ加害者を擁護する(同時に被害者を貶める効果を持つ)言説は、先にも書いたように、全然驚くに値しない。「普通によくあること」だ。守られるべき有能な人物がいて、一方でそれとは別に守られるに値しない人たちがいる。私たちの人間としての価値は、こういうふうに既存の規範により予め統御されている。バトラーは自身の理論に対する公正さよりも身内を擁護することを優先しただけだ。だからそれなりに理解できる。


それに対してリサ・ドゥガンという人物によるセクハラ被害者非難のやり方には虫唾が走った。怒りを覚えた。外道のすることだと思った。


リサ・ドゥガンはロネル教授のセクハラ問題を論じるにあたり、まず、#MeToo movementにある「部分的な」側面なるものをまことしやかに提示してみせる。#MeToo 運動における告発者の売名行為と警察権力に訴えるある種にフェミニズムに対する危惧を表明し、それは「ネオリベラリズムと親和性がある」ことだと主張する。そう前振りをしておいて、その「部分的な」側面をロネル教授擁護とReitman非難に「全面的に」採用する。もちろん、このとき、ある運動の「どの部分的な側面」を選び、「どの局所的な地点」を注目させるのかは、リサ・ドゥガンの匙加減に依っていたことは見逃してはならない。

リサ・ドゥガンはセクハラの被害を訴えたReitmanについて直接的に「それは売名行為だ」と言わない。しかし、ドゥガンの#MeTooへの論評から、ドゥガンが何を言いたいのかは、その対応から明らかだ。そして自分が「専門家である」ことを強調して、「一般に」クィア教員はセクハラ告発される危険に曝されている、とリサ・ダガンは述べ、それに関する「仮説」を開陳する──その場合、同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生がクィア教員をセクハラで告発するのだし、ときにはクィア教員に「特別扱い」をしてもらいたい「クィアな学生」がそれが叶わなかったときに、その腹いせにクィア教員をセクハラで訴えるのだ、と。

リサ・ドゥガンは「一般的な話」をしながら、暗にReitmanがロネル教授に「特別扱い」を望み、それが叶わなかったから腹いせにセクハラで教授を訴えたのだと言ってのける。なぜなら、Reitmanはゲイであることを公言しているのでリサ・ドゥガンが周到に「一般的な話」として用意したクィア教員をセクハラで訴える学生の二つのタイプの内、「同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生」(A)ではなく「特別扱いを望んだが、それが叶わなかったクィアな学生」(B)であることは明らかだからだ。そうして18番の「ネオリベラリズムと親和性がある」、すなわち「これはセクハラの問題ではなく、ネオリベラリズムの問題だ」とくるのだろう。

 

リサ・ドゥガンの「急ごしらえの都合のよい仮説」によれば、クィア教員のセクハラ行為に対し、LGBT(あえてこの言葉を使う、「クィアではない」という意味を強調したいので)の人たちは、そのセクハラ行為を告発できなくなる──少なくとも告発しづらくなる。なぜなら、クィア教員をセクハラで訴えるような者は「同性愛嫌悪的な学生及びセクシュアリティに混乱をきたした学生」(A)か「教員に特別扱いしてもらいたかったが、それが叶わず、腹いせに告発する学生」(B)の二つに一つであるかのような「仮説」の中に、すでに〈私たち〉は封じ込められているからだ。もちろんドゥガンは直接的にそう言っているわけではない。「一般論」を述べ「仮説」を提示し、そして「この場合は、つまりロネル教授の件はこういうことでしょう」、と暗に言っているのだ。もちろん順番は逆であろう。「この場合は、つまりロネル教授の件はこういうことでしょう」、と導きたいがために、それに相応しい一般論と都合のよい「仮説」を作り上げたと言ったほうがいい。第一、ニューヨーク大学の調査資料が機密であるならば、どうやってリサ・ドゥガンは事の次第を手に入れたのか? ここには「畏れ多くもクィア教員をセクハラで告発する者は……こういう者だ」と決めつけ、そのために後付けの「理論」を「当てはめて」、「そういう馬鹿な真似をしてはならない」と警告でもしているかのような権威主義者の顔が見えてくる。虫唾が走る。本当に外道としか言いようがない。

だいたいリサ・ダガンの「仮説」なるものは、性的暴行を受けた女性に対し「枕営業に失敗したため、腹いせにやったのだ」というネトウヨあたりの悪意ある言動と何が違うのか? 自分で調査をしていないのに、なぜ、そんなことが言えるのか──もちろんこのクィア教員は、直接的にそうとは言っていない、「一般的な話」をし「仮説」を提示しただけだ。でも、その「一般的な話」と「仮説」が、被害者への二次加害そのものになっている。なぜこんなことができるのか? 本当に外道としか言いようがない。虫唾が走る。

 

クィア・スペースとセクシュアルハラスメントとの親和性

アヴィタル・ロネルという人物が自分に対するセクシュアルハラスメントの告発を「クィア」で躱した──「クィア」で躱すことができると思っていたことに注目したい。「クィア」はセクハラ告発を回避させるツールになっている。このことがまさに僕が「クィア」に抵抗していることの理由だからだ。

クィア・スペース」とは「セクハラ・スペース」に他ならない。

だからこれ以上、クィア・スペースから犠牲者を出してはならない。

セクハラであるのかどうかは「クィア教員」が決めるものではない。

僕は以下のエントリーを書いたが、それは関連記事も含め、すべて「クィア」のセクシュアルハラスメント性を訴えたかったからだ。すべての関連記事は「クィア」がこれまでやってきたセクシュアルハラスメントに対する怒りを原動力に書いてものだ。

 

 

アヴィタル・ロネルの件で、改めて、クィアセクシュアルハラスメント性、クィアの暴力性、クィアの傲慢さ、クィアの薄汚さ、クィアの……を確認した。

クィア」に包摂されると、通常ならばセクシュアルハラスメントであることが、「セクシュアルハラスメントではない」ことにされてしまう。

これは人権侵害だ。

だから絶対に「クィア」に包摂されたくない。包摂させはしない。他人を勝手に強引に「クィア」に包摂する権能なんて誰にもどこにもない。そんなことは絶対に許さない。

自由意志を奪うことは絶対にできない

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ 

律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 

マタイによる福音書 23.27-28 新共同訳聖書 

アヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題によってクィア理論家たちの背信が明らかになった。クィア学者たちは、セクハラの被害にあった学生よりも、自分たちの仲間を優先した。それは普段自分たちが唱えている理論への背信でもあるだろう。

クィア」でセクハラを躱そうとするアヴィタル・ロネルもそうだし、その偉い先生を仲間のクィア連中がこぞって擁護を繰り広げる様も、本当に醜悪としか言いようがない。リサ・ダガンなんて問題をすり替えようとした。

普段、自分たちは何を説いて回っていたのか? 

このことから、まさに、そこにおいて「理論の信憑性」が浮上してくる。

 

そして僕がジュディス・バトラーよりリサ・ドゥガンのやり方に虫唾が走るのは、バトラーが自分の唱えた理論を放棄または封印して「同業者のために」「規範に準じて」一肌脱いでいるような感じなのに対し、ドゥガンの方はこの件においても、またしても自分の18番である「ネオリベラリズムと親和性がある」を〈売り出し〉ているように感じるからだ。何でもかんでも「ネオリベラリズムと親和性がある」と言えばいいと思っている……本当にあきれ返る。

正直、こんな外道の理論だか何だかを担ぎ上げ、 ネオリベラリズムに警鐘を鳴らしていたと持ち上げ、何年も前から同じことを相も変わらず繰り返すだけのクィアスタディーズ/クィア理論っていったい何だ? 

そんな「画一化・統一化」されたクィアスタディーズ/クィア理論の講義でいいのか? 

リサ・ドゥガンがアヴィタル・ロネルのセクシュアルハラスメント問題において「どのように振る舞ったのか」をクィアスタディーズ/クィア理論の講義を受けている学生に知らせずに、そのことを黙ったままで「ネオリベラリズムと親和性がある」だとか「ノーマティヴィティ」だとかやるのか? 

そんな不誠実な態度でいいのか?

良心というものはないのか? 

 

思い出して欲しい。日本でもつい最近、早稲田大学で渡部直己教授によるセクシュアルハラスメント問題が起きたばかりではないかニューヨーク大学早稲田大学で起きたセクハラ問題が被害者が大学院生だったことまで含めてほとんど同じ事例ではないか。

 

……だから繰り返して言いたい──本年度から新しくクィアスタディーズ/クィア理論の講義を受講することになった学生の方々にお願いがあります、もし、その授業の中で担当教員が「ネオリベラリズムとの親和性」だとか「ノーマティヴィティ」だとか言い出したら、リサ・ドゥガンのセクハラ加害者擁護&セクハラ被害者非難についてどう考えているのか、その教員に質問してください。

 

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