The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

それって……生半可にクィア理論を齧った連中から「関西大学ノーマティヴィティ」とか「関西大学ナショナリズム」とかって言われないの? だって学位がないのにそれでも学がありそうに見せかけて少しでも他の人より偉ぶりたいクィア活動家にとって「クィア造語」をバカの一つ覚えのように連発することが「意識高そう&賢そう」に見える常套手段になってるじゃん

東京オリンピックの影で、あるいはオリンピック批判の陰で、日本の不公平・不公正を象徴するかのような問題が起こっていた。こちらの方のツイートが指摘しているように、コロナワクチン接種をめぐる不公平・不公正である。つまり、

「大企業と一部の有力大学」が「突如として」優先的にワクチン接種が受けられるようになった職域接種の不公平・不公正である。
「大企業と一部の有力大学」が優先的に職域接種でワクチン接種している一方、その結果として、自治体のワクチン供給が減り、予約が不可能になった不公平・不公正である。

 

関西大学 ワクチン2510回分を廃棄 冷蔵庫の適正温度管理できず

www3.nhk.or.jp

関西大学は、6月21日から学生や教職員などおよそ3万5000人を対象に職域接種を進めていますが、確保しているワクチンの数に余裕があるため、今後も接種を予定どおり行うとしています。

 

ワクチン8090回分廃棄 温度管理ミスやキャンセルで:朝日新聞デジタル

最も多かったのが関西大学で、冷蔵庫の不具合により2510回分が廃棄された。

 

厚生労働省 新型コロナウイルス感染症に係る予防接種における職域接種のワクチン廃棄事案について

https://www.mhlw.go.jp/content/000817415.pdf

 

 

自分もそうだったが、多くの人が漠然と感じていたコロナワクチン接種の不公平・不公正感は、おそらく、早々と職域接種を開始した関西大学で2510回分のワクチンを破棄した事件によって、多くの人の意識に上ることになったのではないか。

多くの人が薄々と感じていたコロナワクチン接種の不公平・不公正感は、関西大学が職域接種で2510回分を破棄した事件──単に2510回分ものワクチンを破棄しただけではなく、むしろ2510回分ものワクチンを破棄したのに「それでも大学としてワクチンを確保している」という大学の発表によって、その問題系がくっきりとした像を結び、多くの人々にその問題性がはっきりと見えるようになったのではないか。

 

そういった意味で関西大学の果たした役割は、良きにつけ悪しきにつけ、非常に大きいだろう。関西大学のワクチン破棄事件から、「大企業中心の職域接種」について、以下のような問題が自然に導かれる。

①高齢者のワクチン接種が終わる前に、どうして「大企業中心の職域接種」が先行されたのか。大企業または関西大学のような一部の大学に所属していることが、どうしてワクチン接種の序列の要因になるのか。なっていいのだろうか? その序列は格差を生み、それを永続化させる。それは「新自由主義と親和的」なのではないか?

②医学的優先順位が、自民党政権の、河野大臣議員の掛け声によってなしくずしにされ、それに追随した「大企業と一部の大学」が早々とワクチン接種を終えることは、つまり国家によって選ばれた国民が、自分が国家によって優先的に選ばれた国民であることを十分に自覚しつつ、それに乗っかったことになるのではないか。それは「ナショナリズムと親和的」なのではないか。

 

(①と②は実のところほとんど同じことを言っているにすぎない。ここでの「新自由主義」と「ナショナリズム」の区別は、「クィア関係者」が「クィア理論の造語」を使用するときの「ちょっとしたアレンジ」で「同じ内容の文章」を変形・成型するやり方に倣ったものだ。「クィア造語」は何とでも言える便利なものだ。「クィア造語」を構成する「新自由主義」と「ナショナリズム」は文章のちょっとしたアレンジやコカコーラのテレビCMを引っ張ってくるみたいなことだけで成立し、どちらを使っても大した差はない。「文章のアレンジ次第」でどちらかを、どちらでも選べる超便利なものだ。欲張りは「新自由主義」と「ナショナリズム」の両方の「クィア造語」を一度に同時に使う。)


実際に「大企業中心の職域接種」と前後して自治体のワクチン供給が滞り、多くの一般の住民の予約が不可になってしまったのは事実だろう。
その一方で、関西大学は2510回分のワクチンを破棄したのに「それでも大学として接種予定に問題はない」のは、なぜなんだろう。
こういう状況で「あるところにはある」のは、なぜなんだろう。
その理由は──そんなのどんなバカだってわかるだろう。

 

念のため、まだワクチンの職域接種の不公平・不公正の「像」が結ばない人(しらばっくれている人も含む)がいるかもしれないので、関西大学と地元自治体で吹田市の状況に焦点を絞り、それを時系列で確認しておきたい。

  

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【モラルの問題】

ある人が言っていたように、本来こういう不公平・不公正を追求すべき立場の人たちが同時に、自分たち自身の職域接種を抜け目なく確保していたという構造的な問題がある。
本来こういう不公平・不公正を糺すべき立場の人たちが、自身が実際にワクチンを接種したかしないかに関わらず、自分の所属している大学等が率先して行っている不公平・不公正に目を瞑っている欺瞞がある。
「本来こういう不公平・不公正を追求すべき立場の人」、すなわち以前「近似した問題」で、それこそ正義のヒーローのように「こういう不公平・不公正」を糾す──のではなく、「こういう不公平・不公正に対して無知である」と「特定の人たち」に対しいったい何の資格があるのか知らないが、常軌を逸したかのような思い上がった偉そうな態度で「クィア理論」だかなんだかを引いて「知ったかぶりをかました者」が、「今回のこういう不公平・不公正」に対して知らんふりをしている欺瞞がある。

 

そもそも、わけのわからない何とでも言えるような「クィア造語」で他人にレッテルを張るような行為は──常軌を逸していると思う。いったいどういう世界に住んでいる者が、そんなに自分が偉いと思うことができるのか。

クィアを標榜するだけで天皇にでもなったつもりなんだろうか?

何とでも言える「クィア造語」だからこそ、自分も「それ」に適用できたんじゃないのか? その「超便利さ」に疑問を抱かないのだろうか? それが理論としておかしいと思わないのだろうか? 

 

 

【関連】

 

hodge02.hatenablog.com