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「クィア馬鹿」宣言! ~ 原語”Queer”とカタカナ日本語”クィア”のニュアンスの誤差を合成語「クィア+日本語の侮蔑語」で補正しよう!

提案だけど。「クィア」という言葉は「本来は侮蔑語」に由来しているっていうけど、カタカナの日本語ではそのニュアンスはまったく感じられない──日本にはなかった言葉/概念なので当たり前だけど。 

一歩間違えば、オサレでキラキラした米国Z世代の意識高い系を表したファッショナブルな言葉かと見紛うほどだ。


それでいいの?


「それでいいの?」というのは、実はもう一つの意味も含んでいる。「オサレでキラキラした米国Z世代の意識高い系を表したファッショナブルな言葉」として「クィア」という言葉が売り出されることによって、または、それを首肯することによって「クィアの中にペドフィリアが含まれる問題」を覆い隠そうとする企図があるのではないかという危惧に対してだ──それを「クィア理論」から援用して「ペド・ピンクウォッシュ」と呼ぼう。


だから「クィア+日本語の侮蔑語」という合成語で「英語圏における本来の Queer という言葉が持つニュアンス」を「補正」したらどうだろうか? 

 

例えば「クィア馬鹿」のように。


補正した「クィア+日本語の侮蔑語」によって、それを「使用する状況」──「あえて侮蔑語を発する」というドラマティックな状況──の意味作用も日本語環境においてある程度の精度で「復元」できるはずだ。


クィア」が日本であまりにも安易に使用されているのは「本来は侮蔑語」というニュアンスが完全に脱色されているからだろう。

ペドフィリアが含まれているかもしれない”クィア”という言葉を〈あえて〉使用する」という決死の状況を脱色(または粉飾w)してはならない。

危険をあえて引き受ける、それがヤクザのような反社会的勢力のヒロイズムに通じる「本来の Queer 」の存在価値を無視してはならない。


だから、 「クィア」 → 「クィア馬鹿」(例)へ〈置換〉して「本来的な意味」を「復元」すべきだと思う。 それによって「クィア馬鹿理論」「クィア馬鹿スタディーズ」「クィア馬鹿映画」「クィア馬鹿活動家」「クィア馬鹿学者」なども「米国直系の、本来的な意味」を近似的に獲得できる。それによって初めて、日本語環境において、「米国直系の、本来的な意味の〈クィア〉」が存在可能になる。


僕は「クィア+馬鹿」で「クィアの本来のニュアンスを補正」したけど、他の人たちも、それぞれの「クィア+○○」で「補正」して使用すればいい。

例えば「クィアゴミ」「クィア畜生」「クィア屑」「クィア詐欺」「クィア阿呆」……などバリエーションは豊富にある。


そして重要なのは「クィア+日本語の侮蔑語、で補正」というのは「クィア」を貶めることではなくて、むしろそのオーセンティシティーを尊重することだ。

クィア馬鹿」の使用は、「米国で〈Queer〉という言葉を発するという特権的な状況」が日本語環境でも再演可能だということを指し示す言語行為であるということだ。「クィア馬鹿」の使用は、その行為遂行──パフォーマティヴィティなのである。

確率的ペドファイル クィアの中のペドファイル判定法

 

世間体を取り繕ったスローガン「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」

 

クィアクィア理論」を全否定する僕が言うのもなんだが、「クィアクィア理論」って「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊(ゲイル・ルービン)」を謳っておきながら、情勢が変化すると世間体に阿って「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」と軌道修正するようだ。しかしその軌道修正は恒久的なものなのか、それとも「情勢」に対処しただけの一時的なものなのか、それをきちんと見極める必要がある。

僕が「クィアクィア理論」を問題視してきたのは「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が、まさに「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジックを持つ」からで、実際に「このロジック」がペドフィリア擁護に有効に使用されているはずだ。そして重要なのは「このロジック」が「あなたがクィアならば……だからペドフィリアを排除してはいけない」という形で恫喝的な効力をもつことだ。相手をダブルバインドに追い込み、「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」以外、選択しようがない仕掛けになっていることだ。

だから「クィアペドフィリアを排除する(クィアにペドは含まれない)」のならば、「正常と異常の脱構築は必ずしもできない」「欲望の線引きはある程度の精度で可能である(分類できる)」「そもそも性の序列なんて詭弁」が導かれるはずだし、「クィアクィア理論」のインチキ、詐欺性、何よりも「他人を勝手にクィアに包摂する」危険性、カルト性を訴えてきた僕にとっては望むべき帰結だ。実際「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」の対偶を取れば「ペドフィリアを擁護しないのであれば、あなたはクィアではない」になる。

 

 

ペドフィリアクィア(理論)の射程圏内」にあるが「実在するペドファイルの居場所はクィアという集合の中にはない」というのは本当か?

 

 

以前、珍しく顔出しでペドフィリアであることを公言していた人(だからそれなりに界隈に知られていた)が「これからはクィアを名乗る」と宣言したことを覚えている人も少なくないはずだ。

「非規範的な性という極めて曖昧なクィアの定義」とともに「クィアクィア理論」の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーは「ペドファイルを引き寄せ呼び寄せる」のに十分な効果をもっているのではないか。

 

注意しておきたいのは「クィア理論は〈ここ〉まで射程を広げている」と発言することは、「〈そこ〉にいる該当者」に向けて何かメッセージを送っていることも含んでいる、と言えることだ。同じことだが「〈αのその先へ〉、という議論」は「αのその先の、さらに先の、またさらにその先の……〈その極限〉へ向かう議論」を含んでおり/それを目指していることも、やはり注意しておくべきだろう。

https://hodge.hatenablog.com/entry/2022/10/28/024407

 

クィアペドフィリアが含まれる」のではなくて「曖昧なクィアの定義」と「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーによって、「クィアの中にペドファイルが紛れ込みやすい構造になっている」、むしろ「意図して、その中にペドファイルが紛れ込みやすい構造を採用している」と言ったほうがいいかもしれない。

 

チェスタトンの言葉が浮かぶ。「木の葉は森に隠せ、そして死体を隠すために、戦争を仕掛けろ」と。

クィア理論は、いったい、誰を利しているのか。できるだけ多くの人を──その意に反して──「外国の侮蔑語」で十把一絡げにまとめあげ、「共同戦線」を呼びかけることによって、どんな「セクシュアリティX」が利するのか。

 

AがBの利害に反するようなやり方でBに影響を及ぼすときAはBに権力を行使する - HODGE'S PARROT

 

そしてこんなことは少し考えればわかるはずなのに、「知っているのに、知らない振りをしている」クィア界隈の様子が薄気味悪くて仕方がない。これはジャニーズ事務所での性加害について「薄々気がついているのに、知らない振りをしてきたこと」と似ている。

 

 

確率的ペドファイル

 

クィアクィア理論」に特有の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジック」であるならば、「このロジック」を好んで採用する者は何者なのかが次の問題になる。注意を払っておきたいのは、「このロジック」が使用されるとき、「必ずしも、そのときペドフィリアに言及するとは限らない」ということだ。時間的なズレがあり、その時間的なズレを利用するのだ──ペドフィリアに言及しないで「このロジック」が使われ(例えばかつての同性愛の状況を説明するときなど)、「それに同意させておいて」、後で「ならば、〈同じように〉、ペドフィリアを擁護すべきだ」というダブルバインドに追い込む形で。


先日書いたようにアンドリュー・ヴァクスの著作から学ぶべきことはペドファイルLGBTの権利活動を狙い、正体を隠して紛れ込み、オルグし、同性愛等とペドフィリアを同列・同一視することを画策していることに危機意識を持つことだ。

クィアの中に紛れ込んだペドファイル」の手法が「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」ならば、「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」である確率は、そうでない者よりも高くなるはずだ。さらに「この手法」とは別に、別の記事などで「意外な形でペドフィリアに言及していること」も、その確率をより高める材料になるだろう。

素数判定法のように「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」かどうかを見当付けられる──「クィアの中のペドファイル判定法」。ただし重要なのは「この手法」を使う者は、そのとき必ずしもペドフィリアに直接言及しない場合もあることだ。

たとえそのとき直接的にペドフィリアに言及しなくても「この手法」を使用する者の最終的な目的、「その極限」は「ペドフィリア擁護」だということを、ある程度の確率で示していることを常に念頭に置き、常に警戒すべきだろう。

 

 

 

【関連】

 

クィアの活動家を装いLGBTをオルグしようとするペドファイルをゲイは憎んでいる、事あるごとに同性愛をペドフィリア擁護の証明のために軽々しく使用する「そういう連中」に対して殺意すら覚える

これまでツイートやブログで何度か引用してきたアンドリュー・ヴァクスの『クリスタル』について、この本から学んだことを書いておきたい。いちおうミステリ小説なので、複数の事件が絡み合って「真相」に辿り着く体裁になっており、ある出来事の意味が前半と後半の最後ではまったく別の解釈になってしまうこともある。しかしこの小説で描かれたエピソードによって、以前書いた『赤毛のストレーガ』同様、僕の思考回路、行動指針が完全に決定づけられた。少なくとも「ある種の議論」において性善説を取ることができなくなった。それは、『クリスタル』という小説のエピソードを彷彿とさせる「クィア理論を用いた議論」に出くわしてしまったからだ──「なぜ?」という疑問に対して、「方程式」が立てられ、「特殊解」を求めることができるからだ。

 

釣り糸も張りめぐらせておいたが、何も掛からなかった。変態を引っかける仕事をしていると、ゲイを憎む人間に数多く会うのだが、ゲイを隠れ蓑にしているやつらにも数多く出会う……”少年愛の男”。やつらはホモセクシュアルの仮装をして、ゲイの示威パレードの行進に加わったりする──少年とファックするのが、成人の男とセックスするのと同じであるかのような顔をして。

 

アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』(菊地よしみ 訳、早川書房) p.107

 

『クリスタル』では、まず同性愛者をリンチし殺した3人の男、同性愛を矯正すべきだと主張するキリスト教の聖職者、同性愛の学生が住む寮に嫌がらせをした学生らが惨殺される。犯人は「ホモ・エレクトス」と名乗る人物で、これは同性愛者を迫害する者たちへの報復であると声明を発する。

ここまではよくある復讐の物語だろう。しかしヴァクスのこの本では違う。「ホモ・エレクトス」の次のターゲットが小児性愛者になるからだ。「ホモ・エレクトス」のロジックでは小児性愛者こそが同性愛者の迫害の原因、およびそれに加担していることになる。同性愛者へのヘイトクライムは「ペドフィリアと同一視されること」が原因であり、小児性愛者自身がそれに加担している──「ペドファイルは同性愛者と〈同じ〉セクシュアルマイノリティ」であり「ペドフィリアに対する世間の態度はかつて同性愛がされたことと〈同じ〉である」ようなことを嘯くことで。

 

ゲイを迫害する方法はいろいろある。ホモへの暴行が顕著な例だが、それで相手を根こそぎにはできない。ホモセクシュアルへの肉体的攻撃は社会一般に黙認されているばかりではなく、ひそかに奨励されてもいる。以上は周知の事実だ。

知られていないのは、ゲイへの憎悪の多くの部分が、小児性愛者はたがのはずれたホモセクシュアルだという、完全にあやまった確信によって油をそそがれているという事実だ。ジャーナリズムがそのペテンの共犯者だった。この声明文が掲載されている新聞がかっこうの例になる。”同性愛的児童虐待で教師逮捕”という見出しを覚えているか? 記事内容は、幼稚園の先生と五歳の男の子だった。読者は胸に手を置いて考えてみるがいい──これはジャーナリズム業界にも向けた言葉だ──もし犠牲者が幼い女の子だったら、見出しは”異性愛児童虐待!”と叫び立てただろうか? 答えは明らかだ。その大部分は無知に起因するが、一部は意図的なものなのだ。

小児性愛者どもは慎重に”ゲイ”をよそおっていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか。

ゲイは、幼児を犯すやつらを憎んでいる、その点は異性愛者と何ら変わりがない。われわれのなかには、さらに憎んでいる者もいる。慎重に考慮した結果、”ホモセクシュアル”を自称する小児性愛者どもは、ホモの虐待者とまったく同罪だとの結論に達した。いまや、そいつらも同じ代償を支払うことになるのだ。自分の使う言葉に気をつけるがいい!

 

『クリスタル』 p.159-160

 

ホモ・エレクトス」は主要な「ペドフィリア団体」に警告する──直ちに、「同性愛とペドフィリアの同一性を唱えるロジック」を止めると宣言し、それを公表しろと。

ペテン師ども、用心するがいい! おれは改心者を求めてはいない。おれは狩人であって、説教師ではない。今回の四人が標的となったのは、ゲイに対する、レズビアンに対する、バイセクシュアルに対する罪のためだ。

 

ホモセクシュアル小児性愛を結びつけようという人間は、罰せられることになる。それが誰であれ。

 

同性愛恐怖がゲイの虐待を産みだす。で、いまや、ゲイの虐待は死をもたらす。簡単な方程式だ。ルールはすでに説明した。今後二週間以内に、主要な小児性愛組織から、”ホモセクシュアル”との同一化を否定する見解が公表されなければ、事態はさらにエスカレートするであろう。

 

『クリスタル』 p.280-281

 

ペドフィリア団体」は「ホモ・エレクトス」の要求に応えなかった。「ホモ・エレクトス」は、ペドフィリア団体が途上国への買春ツアーのためにチャーターした飛行機(米国のペド団体は金があるらしい)を太平洋上で爆破し、「子供の敵、同性愛者の敵」を一挙に始末する。

 

小児愛者というのは、インテリほど自分の行為を巧みに正当化するものだが、ほんとのところは実に簡単なんだ──自分のやっていることは間違っていると承知の上でやっているんだ。

 

アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』 

 

「あんた、ほんとに彼らを憎んでいるのね、違う?」
「誰を?」
「子供の敵」
「憎まないやつがいるか?」と答え、その言葉を無視した。

 

アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』 p.293-294

 

 

 

 

【関連】

 

ペドフィリア擁護者が「クィア」を掲げるのは万国共通なのか?

イーロン・マスクペドフィリアの旗を掲げたツィッターアカウントを即座に凍結した。

 

Elon Musk suspends Twitter user who created a 'youth attracted person' pedophile flag for 'Happy Alice Day' - as billionaire says it's 'not tolerated on this platform'

www.dailymail.co.uk

 

 

 

上記のツイートにも書いたように「このペドフィリア擁護のアカウント」はネタなのか「反LGBT」として作成されたのかはわからない。

ただ、ネタだったとしたら、「未成年に惹かれる人」という「ペドフィリア擁護の定番の言葉」の使用とプロフィールに「クィア」が記されていることから、「あー、あれだよね」という「了解」があることを前提にしているはずだ。

またこのアカウントの目的が「反LGBT」だとしたら、「クィア」という言葉そのものと他の「非規範的な性」の羅列が「反LGBTを意味する」ことになるだろう。

どちらにしても「ペドフィリア擁護とクィアという言葉との結びつき」は海外でも「ネタにされるほど」一般的になっていることを認識しておくべきだろう。

なぜそうなのか。以前も書いたように、「クィアという言葉の曖昧さ」(「非規範的な性」)は「ペドファイルに都合よく」構成されているからだ。

 

数学者のジェームズ・リンゼイのような人は、物理学者アラン・ソーカルポストモダン思想に対してやったように、実際に丁寧にクィア理論のテキストに当たり、クィア理論の源流を探り、ゲイル・ルービンの主張の中に「ペドフィリア擁護の証拠」を掴み、「クィア理論はグルーマー理論である」と結論づけるだろう。

実際に、今どき、ゲイル・ルービンを参照する「クィア関係者」の発言や文章の中に、奇妙なくらい「ペドフィリア擁護と親和性があること」を、誰でも確かめることができるだろう。あるいはむしろ、ペドフィリア擁護が目的」であるからゲイル・ルービンを参照するだけではなく、ゲイル・ルービンのロジックを、まるで洗脳でもされたかのように無批判に受け入れている「クィア理論を勉強した人たち」が、「ペドフィリア擁護者のクィア」と「クィアの中のペドファイル」を意図して区別して、前者が後者を含む形でそれを代表しているのではないか、という推論も可能であるように「クィアという言葉の曖昧さ」(「非規範的な性」)は「ペドファイルに都合よく」構成されている。 https://hodge.hatenablog.com/entry/2023/02/03/022402

 

ChatGPTは「クィアという言葉の押し付け」に対し、次のような提案を示してくれた。

クィア」という言葉を使用する際は、それが含まれる意味を明確にし、それがどのようなグループに対して使用されるのか、どのような意味合いが含まれるのかを考慮することが重要だと思われます。また、「クィア」には、あくまでも自己言及に基づく意味合いが含まれることが多いため、他人に対して使用する際は、その人の意向を尊重することが重要だと思われます。

 

クィア」という言葉は、人々に対して使用する際にはその人の意向を尊重することが重要だと考えられます。そのため、クィア」という言葉を使うべきではない、と感じるLGBTの人たちに対しては、その人の意向を尊重して「クィア」という言葉を使わない方が良いと考えられます。

https://hodge.hatenablog.com/entry/2023/02/03/022402

 

 

【関連】

”何のイシューが排除されているのか?”という問いかけは、実のところ何のイシューを不可視化しているのか? ~ 慰安婦問題で中心的役割を果たしている早稲田大学教授に対する早稲田大学の教員及びかつて非常勤講師として早稲田大学の教壇に立っていたクィア理論の専門家による「抵抗の証」=「クィア政治」の内実を教えてほしい。

 

 

早稲田大学の有馬哲夫教授に関していまさら紹介する必要はないだろう。記録しておくべき必要があるのは、有馬教授の言動に対する政治的な態度に関してである。

 

有馬教授の言動に対し、大学関係者のみならず多くの一般の人もその問題を訴えている。とくに注目すべきなのは、有馬教授個人の言動そのものだけではなく、そのような言動を繰り返している人物に対する早稲田大学の姿勢を問うていることだ*1教育機関として、慰安婦問題をめぐるその歴史認識を大学は許容しているのか、ということだ。大学のそういう姿勢こそが、慰安婦問題をめぐるその歴史認識に対し一定の評価を与えているのではないか、と。
だから「この問題」に対して少なくない人たちが早稲田大学当局の責任を問うている。だから少なくない人たちが有馬教授の同僚である早稲田大学の教員の「この問題」に対する沈黙を問うている。


慰安婦問題に詳しく、かつ、クィア理論およびジェンダー論を専門としているならば、非常勤講師として(でも)早稲田大学に応募する段階で、有馬教授の存在を知っていたはずだ。「この問題」を知っていたはずだ。「この問題」の重要性を十分に認識できていたはずだ。


非常勤講師であっても早稲田大学の教員としてクィア理論またはジェンダー論を学生に講じていたならば、有馬教授の問題を他の大学の人たちが「そうしていたように」大学当局に訴えることも十分可能であったはずだ。具体的に早稲田大学当局にどんな請願をして、どんな交渉をし、それに対して大学当局がどんな回答をしたのか、さらにその大学の回答に対してどんな行動を取ったのか教えてほしい。「クィア政治」というものが具体的にどういうものなのか知りたいからだ。


非常勤講師であっても早稲田大学の教員としてクィア理論またはジェンダー論を学生に講じていたならば、直接、有馬教授と慰安婦問題について問い但すことも十分可能であったはずだ。非常勤講師であっても早稲田大学の教員として、電話、SNSのアカウント等、または有馬教授の研究室に直接訪れるなど、どのような手段でコンタクトを取り、慰安婦問題について議論したのか、あるいは会見を申し込んだが断られた経緯などを教えてほしい。「クィア政治」というものが具体的に何をするものなのか知りたいからだ。

 

【関連】