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金沢大学の廃寮問題とピンクウォッシュ ~ 4132名もの反対署名を反故にし、ネオリベ政策を強行した大学でクィア理論/クィア映画を学ぶ意義って何だろう?

 

 

金大 泉学寮存続へ最後の訴え 来月末で廃止予定 :北陸中日新聞Web

一九六五(昭和四十)年に金沢市野町に設置された泉学寮は、建物の老朽化を理由に、大学側が二〇二二年度末での廃寮を決定。寮生は経済的事情などを理由に反対し、昨年三月から署名活動を続けてきた。現役寮生に卒業生らが協力し、オンラインを含め約三千八百筆が集まった。
 この日は、これまで活動してきたメンバーに加え、京都大吉田寮、一橋大中和寮の学生と大学院生六人が駆けつけた。学生らは通行人や行き交う車に向かい、廃寮問題について説明。運営費や光熱費を含めて月一万円ほどの泉学寮は、困窮学生の支えとなっていることに触れ「学生の声を聞いて」などと訴えた。
 京都大吉田寮は、大学側が建物の明け渡しを求めて寮生を提訴し、現在係争中。三年の男子学生(22)は「泉学寮の廃寮は大学の管理強化が背景にあり、吉田寮と問題の根っこは同じ。横の連携を深めたい」と思いを共有する。


 「大学全体がトップダウンになり、学生の生活を守ろうとしていない」

【石川】「学生の声、ニーズをもっと聞いて」 岡田幹事長が金沢市内で学生らと意見交換 - 立憲民主党

「本来国立大学における学生寮は、教育の機会均等の原則に則り経済的に困窮している学生たちが安心して学校に通うことができるために必要な施設だが、全国的に減少の傾向にある。大学側は廃寮の理由として、老朽化や採算性の問題に加え、民業への圧迫、周辺の不動産業への配慮を挙げている。学生よりも民間に配慮していることを如実に表すもので、教育の機会を保障していく体制を築くためには国としてお金を出してもらいたい。大学側の対応は冷たく、政治の力をお借りしたい。教育行政を含め、学生の声をもっと声を聞いてもらいたい」

金沢大の廃寮問題、大学が水道停止を通知 国は「丁寧な対応」要請:朝日新聞デジタル 2023年3月18日

金沢大学が3月末に廃寮とする方針を定めている学生寮をめぐり、大学が31日午後5時に寮の電気・ガス・水道の供給を停止すると、退寮に従わない学生に通知したことがわかった。この問題は10日に国会で取り上げられ、文部科学省が金沢大に「丁寧な対応を」と求めたばかり。大学は応じる姿勢を示していない。

 教授「寮生が路上生活せざるを得ない」金沢大学の2つの学生寮が3月末廃止 学長に異例の緊急要請

金沢大学は2019年、築60年近くになる2つの学生寮を老朽化などを理由に2023年3月に廃止すると発表しました。

 しかし、廃止される泉学寮では、まだ8人の学生が経済的な理由から次の転居先が決まっていません。泉学寮の寮費は月額700円で、そのほかの諸経費8000円とあわせ月1万円ほどで生活できたためです。

 

「31日に廃寮ということになると彼らは行き場を失ってしまう。極端に言えば路上生活、野宿せざるを得ない状況」

 

 

 

経済的に恵まれない学生のための学寮を廃止し、退寮に従わない学生に対し水道などのライフラインを断ち切ることまで通告した金沢大学は、その一方で派手なダイバーシティ(多様性)とインクルージョン(包括)を喧伝している。

クィア理論」が教える「ピンクウォッシュ」っていったい何だろう?

 

 誰も取り残さない金大へ 「ダイバーシティ機構」看板除幕式 

機構は、同大を構成する全職員と学生らが性別や人種、障害の有無などにかかわらず、個性を尊重し合える環境づくりを進める。
 同大ではこれまで、外国人留学生や障がい者の支援、男女共同参画などを別々の組織で進めてきた。既存組織に性的少数者(LGBTQ)支援を加えて組織改正し、新たな機構として共生社会の実現に取り組む。

 

 

 

 

金沢大学の廃寮をめぐる様々な声

「困窮する学生を自己責任でもって退寮させ放り投げる大学とは」「学生に対しこんなやり口は許せない」「経済的に苦しく、泉学寮があるから大学に通えた学生もいる」「コロナ禍と急激な物価高があるなかで」「電気ガスは東大の駒場寮でも止められてたけどさすがに水道は…」「廃寮攻撃を受けている金沢大学泉学寮が大学当局に電気・ガス・水道のライフライン供給を止められようとされている」「これが教育機関のやることなの?」「権力を持つ側であれば世の中の道理や通すべき筋を守らなくても思い通りにできるという傲りが透けてみえる」「建物は明け渡しても自治の息吹は絶えません」「大学という場において、民主主義が否定されることのないようお願いしたい」「学生寮があったからこそ大学へ来れた人が周りにたくさんいる」「大学が廃寮問題で学生に教えたことといえば、結局はすべて「力」だということ」「経済的に困窮する学生の生活環境を保障する、民主的な学寮がこの大学から完全に無くなってしまう」「民間のアパートに住むことも困難な経済状況の学生こそが寮を必要とする」「誰でもできることじゃないですよ、大学に向けて声をあげるなんて」「学生の自治と福利厚生を奪った大学の責任は重大だ」

 

 

本年度より新しくクィアスタディーズ/クィア理論の講義を受講することになった学生の方々にお願いがあります

大学におけるこのような現状を無視し、クィアスタディーズ/クィア理論には20年、30年の蓄積があると、まるで信用金庫に融資を受けにきた老舗商店のように居丈高に振る舞っても、それがいったい何になるのでしょう? 何のための理論なのでしょう? 目的を見誤ってはなりません。手段を目的にしてはなりません。問題はいたってシンプルです。「こんなことまで問題にしている」にもかかわらず、なぜ「現状はこうなっている」のか、ということです。「ネオリベラリズムと親和性がある」「ノーマティヴィティ」と他人を恫喝しておきながら、そう言っている者たちこそが、まさにネオリベラリズムの泥沼に首までつかっているような光景が見えます。こんなおかしなことは子供でもわかります。

クィアスタディーズ/クィア理論には指定検定教科書みたいなものがあり、そのため、どの大学のクィアスタディーズ/クィア理論の講義でも、おそらく内容的に画一化・統一化されたカリキュラムになっていることが予想されます。みんな同じことを言うことが予想されます。みんな同じような事例を扱うことが予想されます。でもちょっと立ち止まってみてください。もし、どう考えても現状と相いれない理論、または信頼性が著しく乏しい理論を「検定教科書に書いてあるから」「他に間を持たせる事例がないから」というだけで、何年も前から何度も何度も無批判に繰り返し紹介しているだけだとしたら、それは学問の退廃ではないでしょうか?

間違えないでください。実際の現実のネオリベラリズムを解消するためではなくて、クィアスタディーズ/クィア理論の授業の「間を持たせる」ために必要なものなのです。考えてもみてください。もし「ネオリベラリズムと親和性がある」と高度な分析をしていると称している同じ大学で、経済的に困窮した学生のための寮を廃寮し、立ち退きを拒むが学生に対し強硬手段に訴えて排除する教育機関なんて、普通に考えて、おかしいと思いませんか? 

 

 

 金沢大の廃寮めぐり、寮生が反対の署名4千筆を提出

金沢大学が今年3月末に廃寮とする方針を定めている学生寮について、男子寮の「泉学(せんがく)寮」(金沢市野町5丁目)の寮生らが27日、廃寮期限の再考や議論の場を求めた署名を大学に提出した。寮生らは昨年3月から署名活動を始め、約1年間で4132筆の署名が集まったという。

退寮に従わない学生に処分示唆 廃止方針の格安寮めぐり、金沢大

「退去しない場合には、何らかの不利益処分がなされる可能性があります」

 2022年11月28日、男子寮の「泉学(せんがく)寮」(金沢市野町5丁目)の寮生に1通のメールが届いた。

 

 

 

 

 

【関連】

パンドラの箱を開けたクィア学者wの幼稚さと、それに対処するAIの良識と知性

 

回転寿司店で皿を舐めたり唾を擦りつける等の悪戯を動画に撮り、それを公開する「幼稚な」行為が、当人の問題認識と責任範囲を大幅に超え、大問題になっている。

 

スシロー〝ナメナメ犯〟に100億円賠償請求も 回転すし文化を破壊した報い

www.tokyo-sports.co.jp

また、今回の件は回転ずしが客の性善説に基づき、誰でも触れる状態ですしをレーンに流すというビジネスモデルそのものを脅かす事態にもなっている。

 

これは単なる(これまでにもあった)飲食店での悪戯の次元を超えているという指摘である。回転寿司という、いわば客の性善説に基づき設計され、客同士の信頼感があってのシステムが毀損されたということだ。誰もが抱いていた「まさかそんなことはしないだろう」というお互いのお互いに対する共通認識が無効になったのである。

この「幼稚な行為」の「ツケ=代償」は、当人の責任範囲を遥かに超えている以上、その不足分を当人以外の他の誰かが支払わなくてはならない。おそらく、店側は客に対してこれまでの性善説に基づく対応から性悪説に基づく対応に切り替えなければならなくなるだろう──具体的には監視カメラ等の強化徹底になるだろう。客側も、自分たちよりレーンの上流に位置する他の客の行動を気にかけるようになるだろう──回転レーンが閉曲線である以上、すべての客は、誰か他の客の上流のレーンに位置していることになり、したがって、すべての客が、他のすべての客に対して疑心暗鬼にならざるを得なくなるだろう。そしてそれは、そんなことを思いながらわざわざ回転寿司に行きたいか?という行動の再考につながるだろう。

 

ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言が定期的に炎上している。これも回転寿司店における「幼稚な行為」と同じく、発言者当人の問題認識と責任範囲を大幅に超え、その発言に対する「ツケ=代償」を支払わなければならない人たちが出てくるだろう。具体的にはLGBT等の権利活動をしている人たちであり、より深刻な、直接的なダメージを食らうのは「子供と接する機会のある、若年者の性的少数者を対象にした慈善団体」の関係者だろう。

「まさかそんなことはないだろう=まさかセクシュアルマイノリティペドフィリアが含まれているわけはないだろう」と誰もがその性善説に基づき、その信頼感に支えられた「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」等の活動に対して、これからは「明確にそれを否定しない限り、たとえそれを否定しても腑に落ちない点が少しでもあれば疑義が突きつけられる」ことになったのである。人々の性的少数者に対する意識は再考を余儀なくされ、性的少数者たち自身も「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの話をしたがるのだろう」と疑心暗鬼に駆られることになる。性的少数者の子供をもつ親にしてもそうだろう。自分の子供がLGBTまたはLGBTかもしれなくても、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」に対し無条件の信頼を置くことができなくなってしまった──ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定しないかぎり、たとえそれを否定しても腑に落ちない点が少しでもある限り。

フェーズが変わってしまった。

Mermaids もそうであったが、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」の代表者やそのメンバーが「ペドフィリアの擁護で知られている人物」と接点を持つことのリスクを十分に考えるべきだ。普通に思うだろう、なぜそんな人物と接点があるんだ、と。

 

https://hodge.hatenablog.com/entry/2022/10/28/024407

 

 

なぜなら、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、それが明確な「反LGBT」を取る「外部から」の攻撃としての発言ではなく、いわば「内部からの情報提供のような形」をとっているからだ。


この「内部からの情報提供のような形」でペドフィリアセクシュアルマイノリティに含まれる」という発言がもたらす深刻さは、例えば「カレン・ホワイト事件」(女子刑務所での性的暴力犯罪)を利用した「外部からの攻撃」に対する対処の違いとして顕著に現れる。「それは、反LGBTの立場を取る者たちによる、すべてのLGBTに対する、LGBTの権利に対する、犬笛である」と明確に反論できる。だから「この仕掛けられた議論」を無視できるし、「この仕掛けられた議論」に対し、一つ一つ反論していくこともできる。

残念ながら「カレン・ホワイト事件」は「パンドラの箱」になってしまった──悪意をともなった攻撃は「カレン・ホワイト事件」を利用し、それを正当化する形で、これまでの「性的少数者の権利活動」に再考を迫る形を取るようになった。しかし、それでも、「カレン・ホワイト事件」が「外部から」仕掛けられたものである以上、「内部の人たち」は、その攻撃に対して一致団結して対処できる。「カレン・ホワイト事件の一般化」を図る「外部の勢力」に対し、「内部の人たち」は、それに対して一致団結して否定することができる。「内部の人たち」は、「外部からの攻撃」に対し、言われなくても、一致団結して連帯できる。

 

しかしペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「内部からのもの」「内部からの情報提供の形態」を取っている以上、「そこにQが含まれている → Qはペドフィリアを含んでいる → その活動には反対せずにはいられない」「やっぱりクィアにはペドフィリアは含まれているんだろう、あの人が言ってるじゃないか」という「外部の人たちの攻撃」に対して一致団結して対処できない。

なぜなら、「内部の人たち」が最初にしなければならないのは、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定することだからである。

「内部の人たち」は、「内部の人たちの中の一部」を否定しなければならない。

「内部の人たちは」、「外部の人たちの攻撃と区別がつかない、内部の人たちの言動」を「外部の人たち」に対処するのと同じように、対処しなければならない。

「内部の人たち」は、「内部の人たちの中の一部の言動」は、もはや「外部の攻撃」と質的に同じもの、という認識をしなければならない。

フェーズが変わってしまった。

 

蛇足ながら。「Aは〈セクシュアルマイノリティ〉にペドフィリアは含まれると言っているが〈クィア〉に含まれるとは言っていないから、それは無問題!」などという幼稚な論破芸は、相手を最初から明確にバカにしているのが誰にとっても見え見えである以上、「現在はまだ態度を決めかねている、傍観的な立場の人」に不信感を抱かせることはあっても、それを好意的に受け取る人は、まずいないだろう──〈クィア〉の1つの定義が「セクシュアルマイノリティの総称」である以上、そんな詭弁は最初から通用しない。逆効果だろう。

 

クィア学者w」によるペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、新しい「パンドラの箱」なのである──それが開け放たれたのだ、フェーズが変わってしまったのだ、回転寿司店で「幼稚な、無責任な悪戯」をした少年のような行為なのだ。「内部の人たち」は、その発言を(騙し騙し、誤魔化しながら、曖昧な態度で、もちろんそこに業界政治という権力関係もあり)首肯せざるを得ない「クィアなんちゃら」と、それを一切認めない「LGBT」(なんなら「主流LGBT」でもいいだろう)に分裂するだろし、分裂しなければならない。

「外部の者たち」は、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という「内部からの情報提供のような発言」に「まさか、あちら側から自分たちに都合の良い攻撃材料を提供してくれるとは」と半ば驚き、苦笑しながらも、その「幼稚な発言」を最大限、利用するだろう。

 

セクシュアルマイノリティには、すなわちクィアにはペドフィリアも含まれる」のであれば、当然、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」に対する公的な支援の審査にも影響を与えるだろう。〈公金〉を得ている団体の関係者に「ペドフィリア擁護者として知られている人物との接点が浮上」した場合、今後はそれが問題になるのは明白だろう。「外部の人たち」は、もちろん、そこを突いてくるだろう──「まさか、あちら側から自分たちに都合の良い攻撃材料を提供してくれるとは」。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

たとえ人権を掲げている団体であっても、性善説や信頼はもはや成り立たない。公的支援を求めるすべての性的少数者の団体はペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言を否定し、「ペドフィリア擁護者との接点がないこと」を証明しなければならなくなったのだ。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

「内部の人たち」は、もはや一致団結して「外部からの攻撃」に対処できない。なぜならペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「外部から」の攻撃ではなく、「内部からの、内部に対する攻撃」だからでである──そのように見なさなければならない。

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

ペドファイルセクシュアルマイノリティです」という発言は、「内部の人たち」の連帯を切り崩し、分断、離反、分裂、疑心暗鬼をもたらす、まさに「パンドラの箱」なのである。「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの話をしたがるのだろう」

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

「そういえばあの人は、どうしてLGBTの話題に絡めてペドフィリアの擁護をしている人と一緒に活動しているのだろう」

フェーズが完全に変わってしまったのだ。

 

数学者のジェームズ・リンゼイのような人は、物理学者アラン・ソーカルポストモダン思想に対してやったように、実際に丁寧にクィア理論のテキストに当たり、クィア理論の源流を探り、ゲイル・ルービンの主張の中にペドフィリア擁護の証拠」を掴み、クィア理論はグルーマー理論である」と結論づけるだろう。

実際に、今どき、ゲイル・ルービンを参照する「クィア関係者」の発言や文章の中に、奇妙なくらい「ペドフィリア擁護と親和性があること」を、誰でも確かめることができるだろう。あるいはむしろ、「ペドフィリア擁護が目的」であるからゲイル・ルービンを参照するだけではなく、ゲイル・ルービンのロジックを、まるで洗脳でもされたかのように無批判に受け入れている「クィア理論を勉強した人たち」が、「ペドフィリア擁護者のクィア」と「クィアの中のペドファイル」を意図して区別して、前者が後者を含む形でそれを代表しているのではないか、という推論も可能であるように「クィアという言葉の曖昧さ」(「非規範的な性」)は「ペドファイルに都合よく」構成されている。私たちは、物理学者や数学者が「どのようにポストモダンな=クィアな文章を読んでいるか(すなわち、どのように読むべきなのか)」を参考にし、彼らから学ぶ必要がある。

 

例えば、

〈1〉=「A」がセクシュアリティの一つであるならば、「As」はセクシュアルマイノリティです。

〈2〉=「B」がセクシュアリティの一つであるならば、「Bs」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N〉=「X」がセクシュアリティの一つであるならば、「Xs」はセクシュアルマイノリティです。

〈N+1〉=「Y」がセクシュアリティの一つであるならば、「Ys」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N+9〉=「ペドフィリア」がセクシュアリティの一つであるならば、「ペドファイル」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

〈N+30〉=「レイプ」がセクシュアリティの一つであるならば、「レイプ魔」はセクシュアルマイノリティです。

〈N+31〉=「痴漢」がセクシュアリティの一つであるならば、「痴漢犯」はセクシュアルマイノリティです。

……

……

 

この「数学的帰納法のパロディ」みたいな論証は正しいのか?

自然数が、〈1〉の次に後続数〈1’〉、その次に〈1’’〉、その次に〈1’’’〉……という構成になっているのと同じようにセクシュアリティなるもの〉は{A、B、……X、Y、……、ペドフィリア、……、レイプ、痴漢、……}と構成されているのだろうか?

ここで気づくべきなのは、ペドファイルセクシュアルマイノリティではなく、ペドフィリアセクシュアリティの一つ」という、前提だろう。一見、ペドファイルセクシュアルマイノリティです」が導出されたように見えるが、実際には、セクシュアリティなるもの〉の集合が、ここで、構成されている。

もちろん「セクシュアリティの一つ」から「セクシュアルマイノリティ」が導出されることにも問題があるだろう。なぜなら、そのロジックに従えば、「異性愛セクシュアリティの一つ」だからである。「セクシュアリティ」と「セクシュアルマイノリティ」の間には、何かしらの明確な定義に則った対応関係があるはずだ。しかし、今のところ、問題はそこではない。

問題は、数学的帰納法を装った論証が正確にはどんな操作をしているのかを確認することである。例えば、Wikipediaに誤った数学的帰納法の例として「すべての馬は同じ色」が掲載されている。

5頭の馬が常に同じ色であることを証明したいとする。4頭の馬は必ず同じ色であることが、すでに証明されているとしよう。すると、5頭の馬から任意の1頭を除けば、残りの4頭は同じ色である。それを2通りの方法で行うと、同じ色だとわかる4頭の馬の集合が2種類得られる。例えば、1頭目、2頭目、3頭目、4頭目は同じ色でなければならないし、2頭目、3頭目、4頭目、5頭目も同じ色でなければならない。したがって、5頭すべての馬が同じ色であるということになる。

ところで、4頭の馬が必ず同じ色であることをどのように証明すればよいだろうか。そのためには、同じ論法を繰り返し用いればよいだろう。4頭の馬から3頭の馬を取り、3頭の馬から2頭の馬を取り、といった風に。結局馬の数は1頭になるが、それならすべての馬が同じ色であるのは明らかだ。

この論法を用いると、馬の数を増やすこともできる。6頭の馬すべてが同じ色であることも証明できるし、あるいはそれ以上に有限であるすべての馬は同じ色でなければならなくなる。

 

すべての馬は同じ色 - Wikipedia

注意を払っておきたいのは、「X」を導出したいために、「すでにXがその集合に含まれている〈セクシュアリティ〉という集合」が要請されるということだ。〈セクシュアリティ〉とは、その使用者の目的に合わせて何でも導出できる「変幻自在の集合」なのである。「〈セクシュアリティ〉とは〈こういうもの〉なのだ」と言えるために「〈こういうもの〉が含まれる〈セクシュアリティなるもの〉の集合が、そこで、構成される」。目的に合わせて、ある人物は「〈1〉番から〈N〉番までの要素からなる〈セクシュアリティ〉の集合」を使用するときがあるし、別の人物は「〈1〉番から〈N+9〉番までの要素からなる〈セクシュアリティ〉の集合」を前提にして「数学的帰納法のパロディ」を駆使してペドファイルセクシュアルマイノリティです」と導出する

だから〈セクシュアリティ〉という言葉を使用する限り、その使用者の主張は必ず満たされる──こういう茶番、いい加減、止めないか?

 

この便利な「数学的帰納法のパロディ」は、おそらく、「ペドフィリアを〈セクシュアリティなるもの〉の集合から導出」するだけではなく、〈他の題材〉でも、すでに使用されているかもしれない。導出していると見せかけて、実のところ、「ある集合」を、その目的に合わせて、動的に、構成する。

 

 

 


こんな「クィアペドフィリア問題」に対して何か打開策はないか。「クィア学者w」が何の役にも立たないどころかむしろ疫病神になっている以上、「クィア学者w」よりも良識と知性をもったAIに頼らざるを得ない。先日の続きを尋ねてみた。

 

HODGE 「クィア」という言葉の使用に注意が必要だということはわかります。例えば、「LGBTQの”Q”は”クィア”ということですが、その”クィア”には、何が含まれていますか? そこにペドフィリアは含まれていますか?」という疑問が多く寄せられます。この問題の一つには「クィア理論」の存在があると思います。「クィア理論」では「規範を問う」ことが重要だと多くの人が熱心に、顔を赤らめて、まるで教育勅語のごとく言います。そして「クィア理論」を勉強した人たちが「ペドフィリアセクシュアルマイノリティ」だと主張しがちです。もし「クィア」が「セクシュアルマイノリティの総称」ならば、そしてもし「セクシュアルマイノリティペドフィリアが含まれているならば、ペドフィリア ⊂ セクシュアルマイノリティ ⊂ クィア」になります。すなわち「ペドフィリアクィアに含まれている」ことになります。そうであるならば、LGBTQにもペドフィリアが含まれることになってしまいます。だとすれば、一番いい方法は、「クィアという言葉を使用しない」こと、になるのではないですか?

 

ChatGPT クィア」という言葉は、セクシュアルマイノリティの総称として使用されることが多いですが、それには様々な意味が含まれることがあります。「クィア理論」においては、「規範を問う」ことが重要であるとされていますが、それには異なる意味合いが含まれることがあります。

一部の人が「クィア理論」を援用してペドフィリアを擁護しようとする動きがあることは事実ですが、それは多くのLGBTQコミュニティや専門家によっては非常に批判的に受け止められています。

そのため、「クィア」という言葉を使用する際は、それが含まれる意味を明確にし、それがどのようなグループに対して使用されるのか、どのような意味合いが含まれるのかを考慮することが重要だと思われます。また、「クィア」には、あくまでも自己言及に基づく意味合いが含まれることが多いため、他人に対して使用する際は、その人の意向を尊重することが重要だと思われます。

 

HODGE 「他人に対して使用する際は、その人の意向を尊重することが重要だと思われます。」ということは、例えばLGBTの人たちに対しても「クィアという言葉に不信感を抱く人や、クィアと言われたくない人たち」に対して、「クィア」という言葉を使うべきではない、ということですね?

 

ChatGPT そうですね。「クィア」という言葉は、人々に対して使用する際にはその人の意向を尊重することが重要だと考えられます。そのため、「クィア」という言葉を使うべきではない、と感じるLGBTの人たちに対しては、その人の意向を尊重して「クィア」という言葉を使わない方が良いと考えられます。

 

まさに的確な答えだった。強調して繰り返しておきたい。

”「クィア」という言葉は、人々に対して使用する際にはその人の意向を尊重することが重要だと考えられます。そのため、「クィア」という言葉を使うべきではない、と感じるLGBTの人たちに対しては、その人の意向を尊重して「クィア」という言葉を使わない方が良いと考えられます。”



 

【関連】

 

 

ChatGPT「ペドフィリアはセクシュアルマイノリティではありません」 ~ AI vs. クィア学者w

OpenAIが開発した対話型自然言語生成モデル ChatGPT に、日本でも議論が過熱している「〈クィアペドフィリア〉問題」について意見を伺った。

 

HODGE   「クィア」にペドフィリアは含まれるのですか?”

 

ChatGPT  「クィア」(queer)は、性的少数者や性的・ジェンダーセクシュアリティに対して非正常なと見なされる人々を指す言葉です。「クィア」には、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーインターセクシュアルなど、様々な性的・ジェンダーセクシュアリティを持つ人々が含まれます。

ペドフィリア」(pedophilia)は、成人との関係を望まない、未成熟な子どもに対して性的興味を持つことを指します。「クィア」には、ペドフィリアは含まれません。”

 

HODGE   では、「ペドフィリア」は「セクシュアルマイノリティ」ではない、ということですか?

 

ChatGPT  「ペドフィリア」は、性的な行動や興味が、成人との関係を望まない、未成熟な子どもに対して向けられる状態を指します。これは、多くの国や地域では、法的にも違法な行動とされています。

一方、「セクシュアルマイノリティ」とは、性的指向や性的・ジェンダーアイデンティティに対して、社会的に不受歓迎や差別を受けることが多いグループを指します。これには、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどが含まれます。

つまり、「ペドフィリア」は「セクシュアルマイノリティ」の一部ではなく、法律上も違法な行動であるため、セクシュアルマイノリティとは異なります。

 

HODGE   日本では、「ペドフィリアセクシュアルマイノリティ」と主張する人たちがいます。また「クィア理論」を援用してペドフィリアを擁護しようとする動きがあります。そのため「クィア」という言葉に不信感を抱く人が多くいます。英語圏ではない日本のような国で「クィア」という言葉を使用することに問題があるとは思いませんか?

 

ChatGPT  「クィア」という言葉は、性的少数者や性的・ジェンダーセクシュアリティに対して非正常なと見なされる人々を指し、多様な性的・ジェンダーセクシュアリティを包括する言葉です。しかし、「クィア」という言葉は、使用される国や地域によって、意味や使用方法が異なることがあります。

日本などでは、「クィア」という言葉を使用して、ペドフィリアを擁護する動きや、「クィア理論」を援用してペドフィリアを正当化する試みがあります。これに対して、性的少数者や性的・ジェンダーセクシュアリティに対して差別や偏見を受ける人々は、「クィア」という言葉を使用することに不信感を抱くことがあります。

このような状況では、「クィア」という言葉を使用する際には、周囲に対して、「クィア」がどのような意味で使用されるのかを明確に説明することが重要です。また、「クィア」には、ペドフィリアは含まれないことを明確にすることも重要です。

 

明快な答えだった。つまり、ペドフィリアは性的マイノリティではなく、クィア理論を援用してペドフィリアを擁護する動きに注意せよ、ということだ。そのため「クィアの定義」を明確にし、「クィア」という言葉を使用するときには「クィアペドフィリアは含まれない」と強調することが必要だと提言している。ChatGPT は、そこいらへんの「クィア学者w」よりも、はるかに信頼のおける良識と、はるかに頼りになる知性をもった優れた人工知能であった。

 

だから、このAIの洗練された良識と知性に反する粗雑な人間の主張には全面的に抵抗しなければならない。下記のように。

 

ChatGPT

 

 

【関連】

英国 Mermaids、「ペドフィリア擁護者」がメンバーであったことを謝罪、当該人物との関係を精算へ ~ これは対岸の火事じゃないだろう、日本でも「クィアとペドフィリアの関係」はずっと指摘されている #LGBT活動家はペド擁護しているクィア活動家と手を切れ

英国の Mermaids は、ペドフィリア団体「B4U-ACT」と接点のあったジェンダーセクシュアリティ研究者ジェイコブ・ブレスロウと Mermaids の間の不適切な関係を謝罪した。ブレスロウは Mermaids の評議員であったが、2011年に「B4U-ACT」の会議に参加していたことを『The Times』紙が突き止め、英国内で大問題になっていた。報道を受けブレスロウは Mermaids の評議員を辞任した。 今回の件で、Mermaids の対応は、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」としての責任のあり方を世間に対し端的に指し示したといえるだろう。

Mermaids apologises for trustee who quit over paedophile group

Mermaids trustee quits after paedophile aid group speech emerges

Mermaids trustee quits over paedophile-group links - BBC News

 

 

「B4U-ACT」とは何か。
性犯罪歴のあるマイケル・メルシャイマーによって2003年に設立された米国のペドフィリア団体。ペドフィリアを「minor-attracted people、子どもに性的魅力を感じる人たち」と呼ぶこと(そのように「置換」すること)で、ペドフィリアに対する世間体を取り繕うことを政治的戦略にしているようだ*1

 

ジェイコブ・ブレスロウによる「ペドフィリア擁護」はどんな戦術を取るのか?
〈非規範的な性〉という「クィア理論」でお馴染みの「魔法のような術語」を駆使し、「ペドフィリア擁護のロジック」を組み立てていくようだ。そこにはこの「魔法のような術語」の「使用を指定する」ことによって(それを前提にし、この言葉の使用の下で議論を展開することを強要し、それを自明なものとする)、それによって議論の主導権を握り、相手の思考を徐々に支配していこうとする動きも含まれる。
逆に考えれば、〈非規範的な性〉というものは、ペドフィリア擁護を〈その極限〉(最終的な目標、その隠れた本丸)として、「クィア理論」の中に組み入れたとしか思えない。だからクィア理論で扱うクィアとは、それを突き詰めると、いつか、どこかで、ペドフィリアに向かって収束するだろう。

 

Mermaids 側の弁明

  • ブレスロウとの関わりは間違いだった。
  • ブレスロウは Mermaids の評議員に任命されるべきではなかった。
  • ブレスロウの素性を知った今、彼が Mermaids のメンバーであったことに恐れおののいている。
  • 「B4U-ACT」やブレスロウの主張は Mermaids の価値観と完全に相反する。
  • 若年者の安全こそが私たち Mermaidsの最優先事項である。
  • 外部の専門機関に委託しメンバーの採用プロセスを再検討する。
  • このニュースによって世間に対し不安や懸念をもたらしたことを深くお詫びする。

 

指摘された Mermaids 側の問題点
ジェイコブ・ブレスロウの名前をGoogleで検索すると、彼のペドフィリアに関する言及やペドフィリアの擁護の記事が上位にランクされる。Mermaids 関係者はブレスロウの素性を本当に知り得なかったのか?

 

今回の件で Mermaids が被った社会的制裁
The National Letter Community は Mermaids への資金提供を一時停止した。

 

 

日本においてこの「Mermaids 問題」は対岸の火事なのか?
ジェイコブ・ブレスロウのエピゴーネンは日本にもすでに複数存在しているだろう(それに感化されたものも含め)──私たちはそう思っているし、事実、私たちはそういう場面にすでに何度も出くわしたことがあるし、それは君たちも十分に知っているはずだ。日本において「クィアペドフィリアが含まれるか問題」の原因をつくったのは、いわゆる「反LGBT」の立場を取る者だけではないこともを私たちは知っている──それは「クィア自身」だ。もし、「クィア」が「反LGBT」であるならば、それは当然だろう。 そんなことを君たちが──「私たちがそれを知っている」ことも含め──知らないわけはないだろう。一緒につるんでいる相手の活動、SNSでの言及等を知らないなんて誰が信じると思うのだろう。Googleで「クィアペドフィリア小児性愛)」を検索してみるがいい。メディアが本気になれば──『The Times』がそうしたように──例えば、かつて「ペドフィリアクィアに含まれる」と記し、後に世間体を意識して削除した文書ぐらいなんていくらでも容易に突き止めることができるし、何かもっと「決定的な証拠」を突き止めるに違いない。Mermaids もそうであったが、「子供と接する機会のある性的少数者の慈善団体」の代表者やそのメンバーが「ペドフィリアの擁護で知られている人物」と接点を持つことのリスクを十分に考えるべきだ。普通に思うだろう、なぜそんな人物と接点があるんだ、と。君たちはそれにどう応えるべきなのか準備しておいたほうがいいだろう。


ジェイコブ・ブレスロウは大学院生だったときに「B4U-ACT」の会議に出席し「ペドフィリア擁護」の講演を行ったという。ときおり「クィア理論は(極論を言えば)クィアな視点*2さえあれば当事者の存在は不要」みたいな「信条告白」が囁かれるが、ブレスロウは、研究者としてのかなり早い時期に「ペドフィリア当事者」と接点をもっていた。どちらかが先に交流を持ちかけたんだろう。「ペドフィリア当事者」が「ペドフィリア擁護者」に声をかけたのだろうか、あるいはその逆か。注意しておきたいのは「クィア理論は〈ここ〉まで射程を広げている」と発言することは、「〈そこ〉にいる該当者」に向けて何かメッセージを送っていることも含んでいる、と言えることだ。同じことだが「〈αのその先へ〉、という議論」は「αのその先の、さらに先の、またさらにその先の……〈その極限〉へ向かう議論」を含んでおり/それを目指していることも、やはり注意しておくべきだろう。

 

 

【関連】

*1:普段はウェブサイト等でこういう情報はきちんと確認するのだが、当該サイトを見ると不愉快になりそうなのでニュース記事からある程度、適宜、推測した。以下も同様

*2:クィアな視点」だとか「クィアな感性」だとか、正直、何を言っているのかわからない。循環することなしに、これらの言葉を説明できないだろう。すなわちそこにはごまかしがある。

非常勤講師ノーマティヴィティ Part2、あるいは男性がジェンダーやフェミニズム領域のポストを狙うことへの不信(クィアならいいのか?)

 

以前、クィア理論の信憑性の問題で、非常勤講師ノーマティヴィティという解析ツールが提唱されました。これは、うだつのあがらないクィア大学院生のアンチョコとして知られている、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの原理的なロジックを検証するために、有志のエンジニアによって開発されました。


最初に、解析ツールとしての非常勤講師ノーマティヴィティというものが、どのようにして構成されているのか、軽くおさらいしておきましょう。簡単に言えば、写像写像です。写像というと難しく感じますが、簡単です。

 

まず、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを使用しているクィアなんちゃらを探します。そのクイアなんちゃらは、バカの一つ覚えノーマティヴィティを、何かにあてはめて偉そうにしているのですぐに見つかります。リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを棒読みして、何か言った気になっているので、ドヤ顔のクィアを見つければいいのです。この、対象となるクィアなんちゃらがバカの一つ覚えノーマティヴィティを何かにあてはめている、というのが最初の写像になります。

 

ここで私たちの目標を確認しておきましょう。私たちはクイア理論の信憑性を問題にしています。ですから、私たちがすべきなのは、検証です。リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの検証です。

 

それはどうするか。簡単です。バカの一つ覚えノーマティヴィティを、それを使用している人物に対して、またはその周辺に対して、まさにクィアなんちゃらがそうしているように、クィアなんちゃら自身の写像を使って、クィアなんちゃら自身に対して、あ、て、は、め、て、みればいいのです。実際の、オリジナルの、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを知らなくても、私たちには、クィアなんちゃら特製の写像があります。この特製の写像をクイアなんちゃら自身に、鏡の反射のように、向きつけるのです。これが写像写像の意味です。

 

これはバカの一つ覚えノーマティヴィティだけではなく、他のクイア理論、例えばピンクウォッシュなどにも有効です。


では、非常勤講師ノーマティヴィティの構成を見てみましょう。例えば、ある大学で非常勤講師の人たちが専任講師と同じ待遇を求めて行動しているのに、ある非常勤講師がその大学の専任講師の公募に応募したとしたらどうでしょう。非常勤講師と専任講師の間の格差を温存したままで、自分だけが専任教師になる。すべての非常勤講師が専任講師と同等の身分になっていない現状に挑戦せず、他の非常勤講師の人たちを置き去りにして、自分だけが非常勤講師の身分を脱し、正規雇用の専任講師の身分になろうと目論む。


これは、まさにリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの要件を満たしています。このロジックが、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの核なのです。そしてこれが、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを、それを使用しているクイアなんちゃら自身に逆写像することが、私たちの非常勤講師ノーマティヴィティと言うツールのアルゴリズムになっています。


ただですね、そしてここが重要なのですが、現在のバージョンの非常勤講師ノーマティヴィティのアルゴリズムは、雇い止め問題という具体的な事件を条件にしていますが、その条件をなくして、もっと一般的に作り変えることも可能です。


つまり、ある人物がリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティを使用していなくても、非常勤講師と専任講師の間の格差を温存したままで自分だけが常勤講師になる、という条件だけでも構成できる。事実、クィア大学院生あたりが棒読みしているリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティの主張をよく整理してみると、それって何とでも言えるね、万能マシンだよね、という感想しかありません。もちろんその場合は、その何とでも言えるような写像を使用しているので、「何とでも言える」は、「誰も彼も」という写像として変換されます。つまり、常勤職を目指す非常勤講師であれば、誰も彼も、非常勤講師ノーマティヴィティに抵触しているとして告発されてしまうことになる。

それは妥当なのでしょうか。

それはおかしいのではないかと思った皆さんは、オリジナルのリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティが、もともとおかしいのではないか、それこそ何とでもいえるような仕様になっているのではないかと気づいてほしいですね。


さて、今回私たちは、以前構成した非常勤講師ノーマティヴィティをもとに、新たなバージョンの非常勤講師ノーマティヴィティ、つまり非常勤講師ノーマティヴィティパートツーというものを構成したいと思います。ロジックは同じです。だから簡単に作れます。

なぜ非常勤講師ノーマティヴィティパートツーというものが必要なのかというと、すべての非常勤講師の人たちが専任講師と同等の身分になっていないのに、自分だけ専任講師になろうとする人たちを問題化する従来の非常勤講師ノーマティヴィティだけでは不十分な状況に対応するためです。それは大学の教員の男女比です。多くの人たちは、専任講師、非常勤講師を含め、大学の教員の男女比を改善すべきだと言っています。しかし状況は改善されているとはいえません。それはなぜでしょう。簡単です、男性側のやる気がないからです。自発的な行動を起こしていないからです。


ここで、万能ツールとしてのバカの一つ覚えノーマティヴィティを導入します。非常勤講師ノーマティヴィティパートワンの説明と違い、まず一般論から入りましょう。大学の教員の男女比の改善が目指されているのにもかかわらず、その改善にまったく寄与しない、むしろ現状を永続化しかねない、すなわち男性の非常勤講師が、大学の教員の男女比改善に挑戦しないで、自分だけはいいだろうと専任講師の公募に応募すること。それを非常勤講師ノーマティヴィティパートツー、または男性非常勤講師ノーマティヴィティと呼びましょう。


これは、論理的には、すべての男性非常勤講師が、非常勤講師ノーマティヴィティパートツーに該当し、その名の下に批判されることを可能にします。前述しましたが、もしこの非常勤講師ノーマティヴィティパートツーの論理がおかしいと思うのならば、オリジナルのリサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティがおかしいというのは、言うまでもありません。繰り返します。男性の非常勤講師であれば、誰も彼も、非常勤講師ノーマティヴィティパートツーにより批判対象になることが奇妙だと思うのならば、リサプアのバカの一つ覚えノーマティヴィティのロジックが奇妙なのです。

 

話を進めます。ここから具体的に話になります。ここからが大事です。非常勤講師ノーマティヴィティパートツー、または男性非常勤講師ノーマティヴィティの疑いのある、とある男性非常勤講師がいます。その男性非常勤講師が、「自分だけはいいだろう」と専任講師になるために応募している学問領域が、こともあろうにジェンダーフェミニズムの領域だったらどうでしょう。大学の教員の男女比の改善に挑戦しない、やる気のない男性非常勤講師が、女性非常勤講師を差し置いて、ジェンダーフェミニズムの領域で大学のポストを狙っているとしたら、どうでしょう。その男性非常勤講師は、誰よりも彼よりもジェンダーフェミニズムを理解しているから、そういうことをするのでしょうか。皆さん、考えてみてください。

 

 

 

 

まだ言ってるの? モナー・ノーマティヴィティって?

バカの一つ覚えノーマティヴィティ

 

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