The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

予備校広告塔ノーマティヴィティ ~ 自分のことを棚に上げ、広告的手法に迎合する「クィア大学院生」たちの欺瞞(前編)

下記の内容は、以前書いたブログ記事

「非常勤講師ノーマティビティ」とクィア格差 ∧ 「学歴ロンダ・ノーマティヴィティ」と幸せの筋立て - The Reverberator

の後半部分の続編になります。語り手の「私」の大学院生活が始まりました。

 

 

東棟3階P側303号室。ここが「この大学」で「先生」のクィア研究のゼミが行われる教室。今日がその初日。私は「先生」に「一本釣り」されて「この大学」に進学したものの、まだまだ異邦人のような気分でちょっと迷いながらようやくこの東棟3階P側303号室に辿り着いたのです。ドアの前で立ち止まる。深呼吸をする。もう誰か先にいるのかな。最初に(後でわかるより)自分は他大学から進学してきた(ロンダしてきた)ことを言ったほうがいいかしら……。
緊張しながらドアを開ける。すぐに中から私に向かって声がした「あら?」と。
「なんだカコじゃない」と私は先客に言いました。
カコは微妙な表情をしていました(おそらく私も)。私もカコも「母校」で「先生」のクィア理論上級の講義を取っていました。上級なので数人の限られた(選ばれた)学生しかいませんでした。私たちは見知った中でした。それでもカコが「この大学」に進学するとは知りませんでした(私もカコに知らせませんでしたが)。私は思い直しました。私は「先生」に「一本釣り」されたのではなかった、と。
ドアが開いて「よお」と声が響き、やはり見知った二人の学生が入ってきました。「コムロ先輩にマコ先輩!」私とカコは同時に声を上げました。「英国にいってらっしゃったんじゃなかったのですか?」
「例のロンドン暴動で住んでいたアパートがやられてね。大家もロンドンから離れると言って……」

それで事情を知った「先生」から「日本に戻ってうちへ来ない?」と言われたそうです。コムロ先輩もマコ先輩も私たちと同じく「母校」でクィア理論上級の講義を受けることのできた選ばれた幸運な学生でした。「ハッピーなクィアね」とクィア理論上級コースを取れなかった同級生たちには散々妬まれました、はい。
また学生たちが入ってきました──学生A、学生B、学生C。やはり3人とも「母校」でクィア理論上級を取っていた人たちでした。私はすっかり緊張感がほぐれ、異邦人の気分のカケラも消え失せました。だってみんな知りあいなんですもの。まるで「母校」の小高い丘から──私たちは「アホ山」と呼んでいました──「どこでもドア」でクィア理論上級を取っている学生全員が「この大学」にまるごとワープしてきたみたいなんですもの。


「先生」が教室に入ってきました。ということは「先生」のゼミのメンバーは、私、カコ、コムロ先輩、マコ先輩、Aさん、Bさん、Cさんの7人のみ。「初めまして」の自己紹介はなし。周りを見ながら「先生」はやり手なんだと改めて感服しました。
いつものように、「母校」でのクィア理論上級の講義のように先生のお話が始まって15分が過ぎたころでしょうか。突然、壇上側の、すなわち後ろではなく先生の側の扉が開きました。「遅れてすみません。去年までのクィア・セオリー・アドバンストがボルツマン2Fだったから、てっきり同じ教室だと思って……こっちのファインマン・パス303だったんですね」その学生らしき人物は私たちを見回しながら言いました。
ここは東棟3階P側303号室のはず、この人は何を言っているのか。私はそう思いました。が、すぐ了解しました。ファインマン・パス303は東棟3階P303号室の通称なのでしょう。4年間「この大学」で過ごした学生にとっては通称使用が当たり前──だから私たちを見回しながら(知らない人ばかりねと確認しながら)そのことを強調したかったのでしょう。「S」と、その「ストレート組」の学生は「先生」に紹介され(わざわざ「先生」が紹介したのです!)、後ろの席に着くように言われました。私は、いえ、おそらく私だけでなく「ロンダ組」の学生全員はどんよりとした気分になりました。
私は頬が引きつり、上半身の筋肉が強張り、右足が攣ったような感じになりました──だから右足を横に伸ばしました。「S」は私の伸ばした右足につっかかり転倒しました。「あら、ごめんなさい」私は大仰に言いました。「S」は「いえ、私が不注意だったのです」と何事もなかったように無表情で言い席に着きました。


ゼミでは「S」がしゃしゃり出て──いえ、率先して発表をしました。『インターセクショナリティの解析とその固有値』とか何とかでした。「インターセクショナル」という概念は初めて知りました。私たちの「母校」では、クィア理論初級、中級、上級すべてを通して「リサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」の分析に集中しました。クィア理論の神髄はこのリサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」にあると言っても過言ではありません。私、カコ、コムロ先輩、マコ先輩、Aさん、Bさん、Cさんの全員が「リサ=プアのバカノマ、バカナショ」で論文を書きました。何度もです。私たちは「先生」からクィア理論の「極意」を授けられました。私たちは「バカノマ、バカナショ」のプロであることを自負しています。

「S」はインターセクショナリティを多変数の関数として定式化しました。つまりある変数x(人種だとしましょう)が変化すると(例えば有色に変化したとき)、他の変数はそれに対しどう変化するのか、その変化率を知るためにインターセクショナル関数を微分するのです。したがってインターセクショナル関数のすべての変数(属性、社会的状況)を全微分した値が、そのインターセクショナルの変化率になるというのです。また、ある社会運動Pがインターセクショナルを採用している場合と、別の社会運動Qがインターセクショナルを採用している場合の比較として、インターセクショナルP、インターセクショナルQを行列で表示し、それぞれの固有値を得ることで、インターセクショナルPの方向性(その強みと弱み)とインターセクショナルQの方向性を比較することができると主張しました。その後いろいろと数式を書きながらインターセクショナル関数とインターセクショナル行列の対応関係を述べN次元の「インターセクショナリティ空間」なるものを定義していましたが……話半分で聞いていたので省略します。

勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべ私たちを見回しながら「S」は何か質問はございませんかと言いました。誰も何も言いませんでした。私たちは全員曖昧な表情を浮かべお互いを見つめていました。なんだか「S」に見透かされたような気分でした。
私は黒板に書かれた虫のような大量の偏微分記号とやたらとスペースを取る巨大な行列の表記に気味の悪さを感じました。クィア研究は文学部の系列なのにまるで理論物理学の授業ようなありさま……私は何か穢されたような気分になりました。再び私の頬が引きつり、上半身の筋肉が強張り、右足が攣りました。攣った右足を伸ばしました。しかし「S」は今度は私の右足をやすやすと飛び越え後ろの自分の席に戻りました。

これ以降、ゼミの主導権は「S」に握られました。

 

次の日はコムロ先輩とマコ先輩の共同発表でした。発表の前に、お二人は私たち全員に「カップケーキ」を配りました。英国王室ご用達の由緒ある洋菓子ブランドの東京支店から届けられたものでした。今日の発表は少し長くなるから──コムロ先輩とマコ先輩は言いました。それもそのはずです。コムロ先輩とマコ先輩は「母校」でのクィア理論初級、中級、上級で習ったこと「すべて」をこれみよがしに並べてありったけの知識をなにもかも披露していました。私も「カップケーキ」の糖分補給と紅茶のカフェインがなかったら睡魔にやられていたでしょう。
しかしさすがはコムロ先輩とマコ先輩です。それだけにとどまりませんでした。なんとこの差し入れの英国王室ご用達の「カップケーキ」が実はお二人の発表のキーワードだったのです。それはこうです。コムロ先輩とマコ先輩が帰国する原因となったロンドン暴動の後、この英国王室ご用達の由緒ある洋菓子ブランドが英国の復興と国民の連帯を願いテレビコマーシャルを作成しました。CMの前半にロンドン暴動の様子が描かれ、後半は同性婚の披露宴でこのカップケーキを食べる──それが英国の楽観的な未来を表しているというのです。コムロ先輩とマコ先輩はそこに「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」の概念を巧妙に「当て嵌め」ました。すると「バカの一つ覚えナショナリズムとの親和性」が導かれたのです。すごい離れ技です。私は感服しました。こんな一企業のテレビコマーシャルごときから、ロンドン暴動全体が「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」で説明できるなんて! 英国は歴史的に政治学の分野が強く、「英国固有のナショナリズム研究」の蓄積があるというのに、それらを差し置いて「米国人リサ=プア」による〈「米国の」「固有の」ナショナリズム〉で英国史上重要な出来事であるロンドン暴動を説明できるなんて! 本当に離れ技です! 

しかもです。このコムロ先輩とマコ先輩の発表によって、「聖なるクィア理論」を崇敬するどころかバカにしている「主流LGBT」の連中をギャフンと言わせることができる。私はそれを確信しました。私は胸を躍らせました。興奮して鼻息荒く呼吸をしました。「私たちクィア大学院生」は──みんなそう思ったことでしょう──なんてったって「私たちクィア大学院生」は「一般のLGBT」より「ランクが上」、なんですから。なんてったって「私たちクィア大学院生は他人を評価する側」──これは王権神授説みたいなものです。「リサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」は「私たちクィア」がLGBTに対して優位を示すために神から授けられた武器──そうです、「私たちクィア」の矛と盾なのです。私たちはコムロ先輩とマコ先輩に最大級の称賛を送りました。

 

そのときです。よろしいでしょうか、と「S」が立ち上がりました。「S」は野党党首が与党の責任追及をするときのようにコムロ先輩とマコ先輩の前に立ちはだかりました。

今、ネットで調べたところ、そのカップケーキ製造会社のテレビコマーシャルには今回の発表で取り上げられた同性婚ヴァージョンとは別に異性婚ヴァージョンもありました。確認したところ、内容的には、同性婚ヴァージョンと異性婚ヴァージョンの差はありません。つまりロンドン暴動の映像+同性婚〈または〉異性婚の映像で構成されているのです──この可換性が重要です。そしてこのことが意味しているのは、同性婚、すなわちLGBT〈だけ=のみ〉の問題ではない、ということです。コマーシャル映像の同性婚の部分は別の(おそらく任意の)事象に可換できる、ということなのです。それなのに、「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」との親和性導出の際に、異性婚ヴァージョンの存在に触れなかったことは、公正であるべき研究として全く評価できません。

こう考えてください。もし、テレビコマーシャルが異性婚ヴァージョン〈だけ=のみ〉だった場合に「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズムとの親和性」を先ほどと同じように導けたでしょうか? 

そもそも、異性婚ヴァージョン〈だけ=のみ〉だった場合に「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」を「当て嵌める」動機が生まれたでしょうか? 

もし異性婚ヴァージョン〈だけ=のみ〉だったら、「この発表の変更点」をすべて挙げてみてください。

いいですか、このカップケーキ製造会社のテレビコマーシャルは「異性婚」と「同性婚」が鏡像のようになっているだけで、後はまったく同じです。だとしたら、鏡像変換において──すなわち異性婚ヴァージョン〈だけ=のみ〉だった場合において、「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」が成立するかしないかは重要です。もし、「鏡の世界」で、それが成立しないのだとしたら、「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」と対になる「もう一つの、鏡の世界で成立するナショナリズム理論」が必要です。鏡像変換に対応していない理論なんてありますか?
それ以前にコムロ氏とマコ氏の発表で気になるのは、おそらく異性婚ヴァージョンの存在も知っていたであろうに、それにもかかわらず、導出の前段階で同性婚ヴァージョンのテレビコマーシャルの映像を大々的に引用していることです。これは同性婚ヴァージョンしか存在しないという印象操作としか思えません。同性婚に対する何かしらの印象操作としか思えません。もっと言えば、「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」を「当て嵌める」ための、そのための〈事象〉の〈変形〉です。

もし私がこのカップケーキ製造会社のテレビコマーシャルを問題にするとしたら、それは、なぜ異性婚と同性婚の二つのヴァージョンがあるのか、です。「その使い分け」にはどんな意味があるのか、そもそも二つのヴァージョンが必要とされた社会背景は何か、です。研究者を志す私には、「何かに当て嵌めれば」(当て嵌まるようにt都合よく〈変形〉すれば)「自動的に期待通りの回答が得られる」ような研究なんて「あなた方と違って」面白いとは思えません。それは「その想像力の範囲を著しく飛び越える研究」であるはずがありません。「何かに当て嵌める」ことは問題を単純化することです──問題を「丸投げ」することです。「何かに当て嵌める」ことは、それに「当て嵌まらないもの」を予め消除することです。コムロ氏とマコ氏の発表で、テレビコマーシャルの異性婚ヴァージョンが省略され、同性婚ヴァージョンの映像が不自然なほど異様に過剰に執拗に切り取られ引用されたのは、それこそ、〈事象〉を「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」を「無理に当て嵌める」ことから必然的に要請された〈変形〉なのではないでしょうか。

また、コムロ氏とマコ氏は気がついているのかわかりませんが、「リサ=プアのバカの一つ覚えナショナリズム」とは、アメリカ帝国主義を支える例外主義の新たな形態のひとつに位置づけた〈「米国の」「固有の」ナショナリズム〉です。「アメリカ帝国主義を支える例外主義の新たな形態としてのナショナリズム」が必要条件なのではないですか? それに対し、ロンドン暴動という英国の出来事に対し「バカの一つ覚えナショナリズム」が発見されたということは、コムロ氏とマコ氏は意図せずにリサ=プアの理論に対し反例を提出したことになりませんか?


コムロ先輩とマコ先輩が最初に述べたように、今日の発表は予定より大分時間が過ぎていました。Aさん、Bさん、Cさんはこの後予定が入っていると言っていました。コムロ先輩とマコ先輩はこんなに「舐めるように」問題を指摘されるのは初めてだったらしく、発表原稿に「S」の指摘をメモするフリをしながら心ここに非ず呆然としていました。コムロ先輩とマコ先輩が「母校」のクィア理論初級、中級、上級で習ったこと「すべて」をこれみよがしに並べてありったけの知識をなにもかも披露したことが仇になったようです。「S」はコムロ先輩とマコ先輩の発表内容の問題点を、まるでコンパイラーがシンタックスエラーを逐一吐き出すように、表情一つ変えず淡々と機械的に容赦なく「エラー」を弾き出していきました──これはそもそも論理的なレベルのエラーなんですよとでも言いたそうに。「先生」はそんな「S」を遮ることなく、むしろ学生の主体性を尊重するかのように、じっと黙っていました。私はそんな「先生」の悠然たるお姿に改めて感服いたしました。
ついに警備員の方が見えて、申し訳ありませんがファインマン棟は消灯します、ボルツマン棟の1Fならば24時間使用できる教室があります、申請書を書いてそちらに移りますか、と言いました(通称使用でした、念のため)。
「先生」は私たちを見回し、私たちの意図を汲み取り、「いえ、今日は終わりにします」と言いました。


駅に向かう途中、マコ先輩はコムロ先輩の胸に顔をうずめ泣いているようでした。Aさん、Bさん、Cさんは「自分たちは……やっぱり向いていないかな、この大学」と、まるで三つ子のように揃った動作で同時に言いました。Aさん、Bさん、Cさんは「だんご三兄弟」とか「金太郎飴トリオ」とか言われていたことを思い出しました。Aさん、Bさん、Cさんの得意技はやはり「リサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」で、3人とも「非常に似通った論文」を提出することで知られていました。まあ、「リサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」を「当て嵌めれ」ば当たり前なんですが。「先生」も「君たちの論文は金太郎飴みたいだね」と冗談交じりに言っていたようです。でも、Aさん、Bさん、Cさんは、それを好意的に受け止め、「私たちは金太郎飴クィアなんですよ」と自虐的に自称していました──「クィア」と同じく「金太郎飴」という言葉をリクレイムwしたようです。ただ、その「金太郎飴戦略」が功を奏したことが「クィア研究業界」の面白いところです。真面目一筋のAさん、Bさん、Cさんはそれぞれ一人で「リサ=プアのバカの一つ覚えノーマティヴィティ/ナショナリズム」型の論文をなんと20本も書きました。3人の合計で60本の「金太郎飴的クィア論文」が「量産」されたことになります。これはすごいことですよ。このリサ=プア型論文の「量産」が「クィア学会」の発展に貢献したことで、「先生」に「この学校」に呼ばれたのです。Aさん、Bさん、Cさんはとにかく愚直なので、これからも「リサ=プア型クィア論文」=「金太郎飴クィア文章」を「量産」して「クィア研究業界」の発展の貢献していくことでしょう。ただ、聞いたところによると、現在の「クィア学会」は何か揉め事が起こっているらしく、「先生」はいち早く学会との距離を取ったようです。


私たちが夜道を暗い気持ちで歩いていると、カコが私に言いました。「今度はあなたの番ね」と。そうです、次の、来週の発表は私が担当なのです。カコは私に何かできることがあったら遠慮なく言ってね、と私の顔を見つめ、反対側のホームへ行きました。今まで近くでは気づきませんでしたが、白い地に水玉模様のカコの服は、向かい側のホームから全体を見るとカルピスの包み紙のようでした。

 

前編終わり

 

【関連】

 

”宝くじが当たったら欲しいものを何でも買ってあげるよ” ~ 「クィア馬鹿」の結婚詐欺

 

ラウンド(0) 事前確率

「結婚制度が廃止されれば、それに代わり、個人単位の保障になる」という「クィア馬鹿」がほざいている預言って、いったいどれくらいの信憑性があるのだろうか。それをどうやって検証できるのだろうか。

ここで注意すべきは「結婚制度が廃止される」という仮定にあるだろう。

ならばこう質問したら「クィア馬鹿」はどう答えてくれるのか──「1年後に日本で結婚制度が廃止される確率はどれくらいなのか」

直感でいい。その仮定を支える尤もらしい数字をとりあえず暫定的に言ってほしい。0.1? 0.2? 0.3?……もしかして0.5以上とか? 

 

ラウンド (1)  1年後

残念でした。日本では結婚制度は廃止されませんでした。

「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」というこの事実を元に、では「2年後に日本で結婚制度が廃止される確率」を教えてください──こう質問したら「クィア馬鹿」はどう答えてくれるのか。

もちろん、ラウンド(0)で設定した初期値としての確率は、「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という事実によって修正されなければならない。「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果が「次のステップ」に反映されなければならない。

問題は、「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果によって、ラウンド(0)で設定した「結婚制度が廃止される確率」は、どのように変化するのか、だ。「クィア馬鹿」はこの質問にどう答えてくれるのか。 

その場合、もし前回より「2年後に日本で結婚制度が廃止される確率」が高くなっていたとしたら、それはなぜなのか? その理由も示してもらいたい。

 

ラウンド(2) 3年後

残念でした。日本では結婚制度は廃止されませんでした。

  1. ラウンド(0)で設定した「結婚制度が廃止される確率」は「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果=事実によって修正された。
  2. ラウンド (1)で設定した「結婚制度が廃止される確率」は「2年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果=事実によって修正される必要がある。

したがって今回ラウンド(2)で設定する「結婚制度が廃止される確率」は、1.と2.の両方の結果が反映されなければならない。

つまり、「1年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果を受けた条件の元に「2年後に日本で結婚制度が廃止される確率」を設定したのだが、それでも「3年後に日本では結婚制度が廃止されなかった」という結果=事実を重く受け止めなければならない。

それらを踏まえ、では「5年後に日本で結婚制度が廃止される確率」を教えてください。

 

ラウンド(3) 

ラウンド(4)

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ラウンド(N)

残念でした。日本では結婚制度は廃止されませんでした。

ラウンド(0)からラウンド(N-1)の結果を踏まえ、「N年後に日本で結婚制度が廃止される確率」を教えてください。とくに知りたいのは、その確率は、ラウンド(0)の設定と比べて、どのように変化したのか、である。上向き(確率上昇)なのか、下向き(確率下降)なのか、ジグザグした動きなのか、それとも全く変化しないのか?

もしこれまでの結果を踏まえながらも、それでも前回より「N年後に日本で結婚制度が廃止される確率」が高くなっていたとしたら、それはなぜなのか?

もし「1年後、2年後…N年後に結婚制度が廃止される確率」が上向き(確率上昇)に変化するのならば、ラウンド(0)からラウンド(N-1)の結果以上に、何か大きな影響のある出来事が発生した(例えば日本の主要政党が結婚制度廃止の法案を作成したり、外国で実際に結婚制度が廃止された)という〈情報〉に基づくはずだ。他に何かあるのだろうか? 

もし「結婚制度が廃止される確率」が変化しないのならば、それは前回、前々回……つまり「N年前、N-1年前……3年前、2年前、1年前に試算した結婚制度が廃止される確率」の結果は、いったい何だったのだろう。

クィア馬鹿」は、これまで何に基づいて「結婚制度が廃止されれば」と仮定したのか。そして今後も「結婚制度が廃止されれば、それに代わり、個人単位の保障になる」と主張するのならば、「N年後に結婚制度が廃止される確率」を、その根拠とともに指し示すべきだ。

 

 

ラウンド(N+1) 事後確率

「結婚制度が廃止されれば、それに代わり、個人単位の保障になる」という「クィア馬鹿の預言」は、最初にそれを言ってから2023年の現在、どれくらいの信憑性があるのか?

これは、結婚制度が廃止されない限り、その信憑性はまったく不明だということだ。こんな著しく低い確率を仮定=条件に敷くことは、”もし、宝くじが当たったら何でも欲しいものを買ってあげるよ”という「約束」と同じくらい実現性のないものだ。

宝くじの当選確率と同じくらいならば、少なくとも「私たちが生存中」に「結婚制度が廃止される確率」は、限りなく0に近いだろう。したがって「それに代わり、個人単位の保障になる」を検証することは不可能である。つまり「「結婚制度が廃止されれば、それに代わり、個人単位の保障になる」という主張は「今の私たち」にとって何の意味もなさない。

現時点において「1年後、2年後…N年後に結婚制度が廃止される確率」が著しく低い状態であるにもかかわらず(その確率は、宝くじの当選確率と同じくほぼ0である)、それを仮定にして「Xになる」と預言=約束する、だけではなく「その預言に他人を拘束させる」のは、はっきり言って詐欺だろう、ペテン師のやることだろう。ふざけるな。

 

 

「クィア馬鹿」宣言! ~ 原語”Queer”とカタカナ日本語”クィア”のニュアンスの誤差を合成語「クィア+日本語の侮蔑語」で補正しよう!

提案だけど。「クィア」という言葉は「本来は侮蔑語」に由来しているっていうけど、カタカナの日本語ではそのニュアンスはまったく感じられない──日本にはなかった言葉/概念なので当たり前だけど。 

一歩間違えば、オサレでキラキラした米国Z世代の意識高い系を表したファッショナブルな言葉かと見紛うほどだ。


それでいいの?


「それでいいの?」というのは、実はもう一つの意味も含んでいる。「オサレでキラキラした米国Z世代の意識高い系を表したファッショナブルな言葉」として「クィア」という言葉が売り出されることによって、または、それを首肯することによって「クィアの中にペドフィリアが含まれる問題」を覆い隠そうとする企図があるのではないかという危惧に対してだ──それを「クィア理論」から援用して「ペド・ピンクウォッシュ」と呼ぼう。


だから「クィア+日本語の侮蔑語」という合成語で「英語圏における本来の Queer という言葉が持つニュアンス」を「補正」したらどうだろうか? 

 

例えば「クィア馬鹿」のように。


補正した「クィア+日本語の侮蔑語」によって、それを「使用する状況」──「あえて侮蔑語を発する」というドラマティックな状況──の意味作用も日本語環境においてある程度の精度で「復元」できるはずだ。


クィア」が日本であまりにも安易に使用されているのは「本来は侮蔑語」というニュアンスが完全に脱色されているからだろう。

ペドフィリアが含まれているかもしれない”クィア”という言葉を〈あえて〉使用する」という決死の状況を脱色(または粉飾w)してはならない。

危険をあえて引き受ける、それがヤクザのような反社会的勢力のヒロイズムに通じる「本来の Queer 」の存在価値を無視してはならない。


だから、 「クィア」 → 「クィア馬鹿」(例)へ〈置換〉して「本来的な意味」を「復元」すべきだと思う。 それによって「クィア馬鹿理論」「クィア馬鹿スタディーズ」「クィア馬鹿映画」「クィア馬鹿活動家」「クィア馬鹿学者」なども「米国直系の、本来的な意味」を近似的に獲得できる。それによって初めて、日本語環境において、「米国直系の、本来的な意味の〈クィア〉」が存在可能になる。


僕は「クィア+馬鹿」で「クィアの本来のニュアンスを補正」したけど、他の人たちも、それぞれの「クィア+○○」で「補正」して使用すればいい。

例えば「クィアゴミ」「クィア畜生」「クィア屑」「クィア詐欺」「クィア阿呆」……などバリエーションは豊富にある。


そして重要なのは「クィア+日本語の侮蔑語、で補正」というのは「クィア」を貶めることではなくて、むしろそのオーセンティシティーを尊重することだ。

クィア馬鹿」の使用は、「米国で〈Queer〉という言葉を発するという特権的な状況」が日本語環境でも再演可能だということを指し示す言語行為であるということだ。「クィア馬鹿」の使用は、その行為遂行──パフォーマティヴィティなのである。

確率的ペドファイル クィアの中のペドファイル判定法

 

世間体を取り繕ったスローガン「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」

 

クィアクィア理論」を全否定する僕が言うのもなんだが、「クィアクィア理論」って「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊(ゲイル・ルービン)」を謳っておきながら、情勢が変化すると世間体に阿って「クィアペドフィリアは含まれません(クィアペドフィリアを排除します)」と軌道修正するようだ。しかしその軌道修正は恒久的なものなのか、それとも「情勢」に対処しただけの一時的なものなのか、それをきちんと見極める必要がある。

僕が「クィアクィア理論」を問題視してきたのは「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が、まさに「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジックを持つ」からで、実際に「このロジック」がペドフィリア擁護に有効に使用されているはずだ。そして重要なのは「このロジック」が「あなたがクィアならば……だからペドフィリアを排除してはいけない」という形で恫喝的な効力をもつことだ。相手をダブルバインドに追い込み、「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」以外、選択しようがない仕掛けになっていることだ。

だから「クィアペドフィリアを排除する(クィアにペドは含まれない)」のならば、「正常と異常の脱構築は必ずしもできない」「欲望の線引きはある程度の精度で可能である(分類できる)」「そもそも性の序列なんて詭弁」が導かれるはずだし、「クィアクィア理論」のインチキ、詐欺性、何よりも「他人を勝手にクィアに包摂する」危険性、カルト性を訴えてきた僕にとっては望むべき帰結だ。実際「あなたがクィアであるならば、ペドフィリアを擁護しなければならない」の対偶を取れば「ペドフィリアを擁護しないのであれば、あなたはクィアではない」になる。

 

 

ペドフィリアクィア(理論)の射程圏内」にあるが「実在するペドファイルの居場所はクィアという集合の中にはない」というのは本当か?

 

 

以前、珍しく顔出しでペドフィリアであることを公言していた人(だからそれなりに界隈に知られていた)が「これからはクィアを名乗る」と宣言したことを覚えている人も少なくないはずだ。

「非規範的な性という極めて曖昧なクィアの定義」とともに「クィアクィア理論」の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーは「ペドファイルを引き寄せ呼び寄せる」のに十分な効果をもっているのではないか。

 

注意しておきたいのは「クィア理論は〈ここ〉まで射程を広げている」と発言することは、「〈そこ〉にいる該当者」に向けて何かメッセージを送っていることも含んでいる、と言えることだ。同じことだが「〈αのその先へ〉、という議論」は「αのその先の、さらに先の、またさらにその先の……〈その極限〉へ向かう議論」を含んでおり/それを目指していることも、やはり注意しておくべきだろう。

https://hodge.hatenablog.com/entry/2022/10/28/024407

 

クィアペドフィリアが含まれる」のではなくて「曖昧なクィアの定義」と「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」という異様なイデオロギーによって、「クィアの中にペドファイルが紛れ込みやすい構造になっている」、むしろ「意図して、その中にペドファイルが紛れ込みやすい構造を採用している」と言ったほうがいいかもしれない。

 

チェスタトンの言葉が浮かぶ。「木の葉は森に隠せ、そして死体を隠すために、戦争を仕掛けろ」と。

クィア理論は、いったい、誰を利しているのか。できるだけ多くの人を──その意に反して──「外国の侮蔑語」で十把一絡げにまとめあげ、「共同戦線」を呼びかけることによって、どんな「セクシュアリティX」が利するのか。

 

AがBの利害に反するようなやり方でBに影響を及ぼすときAはBに権力を行使する - HODGE'S PARROT

 

そしてこんなことは少し考えればわかるはずなのに、「知っているのに、知らない振りをしている」クィア界隈の様子が薄気味悪くて仕方がない。これはジャニーズ事務所での性加害について「薄々気がついているのに、知らない振りをしてきたこと」と似ている。

 

 

確率的ペドファイル

 

クィアクィア理論」に特有の「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」が「ペドフィリアを排除しない/排除できないロジック」であるならば、「このロジック」を好んで採用する者は何者なのかが次の問題になる。注意を払っておきたいのは、「このロジック」が使用されるとき、「必ずしも、そのときペドフィリアに言及するとは限らない」ということだ。時間的なズレがあり、その時間的なズレを利用するのだ──ペドフィリアに言及しないで「このロジック」が使われ(例えばかつての同性愛の状況を説明するときなど)、「それに同意させておいて」、後で「ならば、〈同じように〉、ペドフィリアを擁護すべきだ」というダブルバインドに追い込む形で。


先日書いたようにアンドリュー・ヴァクスの著作から学ぶべきことはペドファイルLGBTの権利活動を狙い、正体を隠して紛れ込み、オルグし、同性愛等とペドフィリアを同列・同一視することを画策していることに危機意識を持つことだ。

クィアの中に紛れ込んだペドファイル」の手法が「正常と異常の脱構築、欲望に線引きをしない、性の序列を破壊」ならば、「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」である確率は、そうでない者よりも高くなるはずだ。さらに「この手法」とは別に、別の記事などで「意外な形でペドフィリアに言及していること」も、その確率をより高める材料になるだろう。

素数判定法のように「この手法」を使用する者が「クィアの中に紛れ込んだペドファイル」かどうかを見当付けられる──「クィアの中のペドファイル判定法」。ただし重要なのは「この手法」を使う者は、そのとき必ずしもペドフィリアに直接言及しない場合もあることだ。

たとえそのとき直接的にペドフィリアに言及しなくても「この手法」を使用する者の最終的な目的、「その極限」は「ペドフィリア擁護」だということを、ある程度の確率で示していることを常に念頭に置き、常に警戒すべきだろう。

 

 

 

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クィアの活動家を装いLGBTをオルグしようとするペドファイルをゲイは憎んでいる、事あるごとに同性愛をペドフィリア擁護の証明のために軽々しく使用する「そういう連中」に対して殺意すら覚える

これまでツイートやブログで何度か引用してきたアンドリュー・ヴァクスの『クリスタル』について、この本から学んだことを書いておきたい。いちおうミステリ小説なので、複数の事件が絡み合って「真相」に辿り着く体裁になっており、ある出来事の意味が前半と後半の最後ではまったく別の解釈になってしまうこともある。しかしこの小説で描かれたエピソードによって、以前書いた『赤毛のストレーガ』同様、僕の思考回路、行動指針が完全に決定づけられた。少なくとも「ある種の議論」において性善説を取ることができなくなった。それは、『クリスタル』という小説のエピソードを彷彿とさせる「クィア理論を用いた議論」に出くわしてしまったからだ──「なぜ?」という疑問に対して、「方程式」が立てられ、「特殊解」を求めることができるからだ。

 

釣り糸も張りめぐらせておいたが、何も掛からなかった。変態を引っかける仕事をしていると、ゲイを憎む人間に数多く会うのだが、ゲイを隠れ蓑にしているやつらにも数多く出会う……”少年愛の男”。やつらはホモセクシュアルの仮装をして、ゲイの示威パレードの行進に加わったりする──少年とファックするのが、成人の男とセックスするのと同じであるかのような顔をして。

 

アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』(菊地よしみ 訳、早川書房) p.107

 

『クリスタル』では、まず同性愛者をリンチし殺した3人の男、同性愛を矯正すべきだと主張するキリスト教の聖職者、同性愛の学生が住む寮に嫌がらせをした学生らが惨殺される。犯人は「ホモ・エレクトス」と名乗る人物で、これは同性愛者を迫害する者たちへの報復であると声明を発する。

ここまではよくある復讐の物語だろう。しかしヴァクスのこの本では違う。「ホモ・エレクトス」の次のターゲットが小児性愛者になるからだ。「ホモ・エレクトス」のロジックでは小児性愛者こそが同性愛者の迫害の原因、およびそれに加担していることになる。同性愛者へのヘイトクライムは「ペドフィリアと同一視されること」が原因であり、小児性愛者自身がそれに加担している──「ペドファイルは同性愛者と〈同じ〉セクシュアルマイノリティ」であり「ペドフィリアに対する世間の態度はかつて同性愛がされたことと〈同じ〉である」ようなことを嘯くことで。

 

ゲイを迫害する方法はいろいろある。ホモへの暴行が顕著な例だが、それで相手を根こそぎにはできない。ホモセクシュアルへの肉体的攻撃は社会一般に黙認されているばかりではなく、ひそかに奨励されてもいる。以上は周知の事実だ。

知られていないのは、ゲイへの憎悪の多くの部分が、小児性愛者はたがのはずれたホモセクシュアルだという、完全にあやまった確信によって油をそそがれているという事実だ。ジャーナリズムがそのペテンの共犯者だった。この声明文が掲載されている新聞がかっこうの例になる。”同性愛的児童虐待で教師逮捕”という見出しを覚えているか? 記事内容は、幼稚園の先生と五歳の男の子だった。読者は胸に手を置いて考えてみるがいい──これはジャーナリズム業界にも向けた言葉だ──もし犠牲者が幼い女の子だったら、見出しは”異性愛児童虐待!”と叫び立てただろうか? 答えは明らかだ。その大部分は無知に起因するが、一部は意図的なものなのだ。

小児性愛者どもは慎重に”ゲイ”をよそおっていて、大人同士の合意による同性愛への社会の容認を、子供のレイプにまで延長しようとしているのだ。いったい何人の小児性愛者が、”ゲイの活動家”を隠れ蓑にして、”まずユダヤ人がホモになった”という昔ながらの流言を利用してゲイを怯えさせ、”共同戦線”といったナンセンスに引き込んできたことか。

ゲイは、幼児を犯すやつらを憎んでいる、その点は異性愛者と何ら変わりがない。われわれのなかには、さらに憎んでいる者もいる。慎重に考慮した結果、”ホモセクシュアル”を自称する小児性愛者どもは、ホモの虐待者とまったく同罪だとの結論に達した。いまや、そいつらも同じ代償を支払うことになるのだ。自分の使う言葉に気をつけるがいい!

 

『クリスタル』 p.159-160

 

ホモ・エレクトス」は主要な「ペドフィリア団体」に警告する──直ちに、「同性愛とペドフィリアの同一性を唱えるロジック」を止めると宣言し、それを公表しろと。

ペテン師ども、用心するがいい! おれは改心者を求めてはいない。おれは狩人であって、説教師ではない。今回の四人が標的となったのは、ゲイに対する、レズビアンに対する、バイセクシュアルに対する罪のためだ。

 

ホモセクシュアル小児性愛を結びつけようという人間は、罰せられることになる。それが誰であれ。

 

同性愛恐怖がゲイの虐待を産みだす。で、いまや、ゲイの虐待は死をもたらす。簡単な方程式だ。ルールはすでに説明した。今後二週間以内に、主要な小児性愛組織から、”ホモセクシュアル”との同一化を否定する見解が公表されなければ、事態はさらにエスカレートするであろう。

 

『クリスタル』 p.280-281

 

ペドフィリア団体」は「ホモ・エレクトス」の要求に応えなかった。「ホモ・エレクトス」は、ペドフィリア団体が途上国への買春ツアーのためにチャーターした飛行機(米国のペド団体は金があるらしい)を太平洋上で爆破し、「子供の敵、同性愛者の敵」を一挙に始末する。

 

小児愛者というのは、インテリほど自分の行為を巧みに正当化するものだが、ほんとのところは実に簡単なんだ──自分のやっていることは間違っていると承知の上でやっているんだ。

 

アンドリュー・ヴァクス『赤毛のストレーガ』 

 

「あんた、ほんとに彼らを憎んでいるのね、違う?」
「誰を?」
「子供の敵」
「憎まないやつがいるか?」と答え、その言葉を無視した。

 

アンドリュー・ヴァクス『クリスタル』 p.293-294

 

 

 

 

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