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The Reverberator

メモ用

「アボーション・ノーマティヴィティ」 ~ 市場主義との親和性、資本主義との親和性、そしてネオリベラリズムとの親和性

クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けて、クィアが仕向ける疑似問題をプロライフの視点によって救済するために

恣意的に「空間」を分割し、その空間の構成要素の「動き」をまことしやかに物語化する者がいる。それは「まことしやかな物語」を語るために、構成要素の「動き」を都合よく、まるで一連の流れがあるかのように解釈し、そのために都合のよい条件を設定した「空間」──これを「Qクラス空間」と仮に名付ける──を恣意的に創設するのである。


この「Qクラス空間」を取り巻く状況は次のように考えられないだろうか。「Qクラス空間」の構成要素である、a、b、c、d…は本来的には勝手気ままな「動き」をする。勝手気ままな「動き」をしている。それを観察者(「観察者Q」とする)が観察する。観察することによって「勝手気ままな動き」は「意味のある動き」に置き換えられる。「観察者Q」は、構成要素a、b、c、d…の「本来的には勝手気ままな動き」から「特定の動きと近似した動き」に相当する「近似した動き」({「特定の動きと近似した動き」と近似した動き})を直感で目敏く見つけ、「それ以外の動き」を「近似した動き」への前段階であるか、または「近似した動き」の一部と見なし、幾分かは「それ以外の動き」に心の状態が変化し、その意味を暫定的に取り上げるが、しかし最終的には「それ以外の動き」を棄却し、{「特定の動きと近似した動き」と近似した動き}をもってすぐさま構成要素a、b、c、d…の「動き」自体を意味づける──そこに「排除」か「浄化」の二つに一つの文字列を機械的に割り振る。
「観察者Q」は、構成要素aが「ある動きと近似した動き」をもって「排除」であると判断する。
「観察者Q」は、構成要素bが「ある動きと近似した動き」をもって「浄化」であると判断する。
「観察者Q」は、構成要素cが「ある動きと近似した動き」をもって「排除」であると判断する。
「観察者Q」は、構成要素dが「ある動きと近似した動き」をもって「浄化」であると判断する。
以下同様。

ここには二つの次元が考えられる。構成要素a、b、c、d…が「動く」場所としての「Qクラス空間」の存在。同時に、その「Qクラス空間」は、「観察者Q」が「Qクラス空間」の構成要素a、b、c、d…の「動き」を観察する対象(の範囲)でもあること。前者は平面的に把握されるのに対し、後者はその平面全体を鳥瞰する位置にあるように思われる。この位置関係において、構成要素a、b、c、d…は「観察者Q」に観察されていることを知らない──観察されていることなど想定していないので、構成要素a、b、c、d…は「勝手気ままな動き」をする。一方、「観察者Q」は、構成要素a、b、c、d…に知られることなく、構成要素a、b、c、d…に見られることなく、構成要素a、b、c、d…を観察している──観察対象に知られることなく、見られることなく、観察をすることを可能にする特権的な「場所」(スペース)を確保している。これによって、ある人は「観察する側」に就き、ある人は「観察される側」に就かされる。これは典型的な階層構造(ヒエラルキー)である。
以上のことから、「ある場所」(あるスペース)が「その場所」(そのスペース)であると意味づけられるということは、「ある場所」(あるスペース)を「対象」として観察し、その「対象」に対して「その場所である」ための条件を設定、「その場所である」と命名するなどの権能を有した者の存在が意識されてくる。このとき「ある場所」(あるスペース)を観察する者にとっての観察空間ともいうべき「場所」(スペース)も同時に創設されているだろう。「観察者Q」は「Qクラス空間」を観察することによって、観察者専用のスペース(これを「観察空間Q」と名付ける)を確保し、その「観察空間Q」において「Qクラス空間」の構成要素a、b、c、d…の「動き」を評価する──このとき「観察者Q」は、構成要素a、b、c、d…の「動き」を評価する権能を有していると見なされる。これによって「ある動き」を、何か意味をもった振る舞いであると「評価する側」と「評価される側」という階層構造(ヒエラルキー)が、またしても成立する。

ここで次元の異なる「Qクラス空間」と「観察空間Q」をセットで考えたらどうなるだろうか。すなわち構成要素a、b、c、d…が存在する場所としての「Qクラス空間」と、その「Qクラス空間」を観察対象とする「観察者Q」が存在する「観察空間Q」を、合成された一つの空間(これを「Q×Qスーパークラス空間」と名付ける)と見なすのである。そして「Q×Qスーパークラス空間」の「動き」を観察する──これは、〈わたしたち〉が「観察者Q」のように振る舞うということである。つまり〈わたしたち〉は「観察者Q」の分身になり、さらに別に次元から「観察者Q」の「動き」の真似をする(モノマネのゲームをする)、ということである。〈わたしたち〉は「観察者Q」と「同じ権能」が与えられている、と想定するのである。
構成要素a、b、c、d…と同様、「観察者Q」も「同等の振る舞い」(動き)をする「Q×Qスーパークラス空間」の構成要素と見なす。
構成要素aが「ある動きと近似した動き」を示したときに「観察者Q」は「排除」であると判断し、観察を強制終了(アボート)させる。
構成要素bが「ある動きと近似した動き」を示したときに「観察者Q」は「浄化」であると判断し、観察を強制終了(アボート)させる。
構成要素cが「ある動きと近似した動き」を示したときに「観察者Q」は「排除」であると判断し、観察を強制終了(アボート)させる。
構成要素dが「ある動きと近似した動き」を示したときに「観察者Q」は「浄化」であると判断し、観察を強制終了(アボート)させる。
以下同様。
これをプロトタイプとしてパッケージ化する。この「Q×Qスーパークラス空間」のプロトタイプは、何か値を入力すると、「排除」か「浄化」の文字列を返す単純な関数のようなものと考えてよい。例えば手や足、お腹などを押すと何か言葉を発する人形があるだろう、そんな感じである。「Q×Qスーパークラス空間」のプロトタイプは極めて単純な発想から生まれ、またあらゆる場面で実装しやすい(日本の出来事であっても米国仕様に自動的に変換される)ので多くの「他人を観察する側」「他人を評価する側」「他人を○○する側」に就きたい支配者層にもてはやされている。オペレーターたちは仲間内でこの使い勝手のよい「Q×Qスーパークラス空間」プロトタイプのことを親しみをこめて「クィアちゃん人形」というニックネームで呼んでいる──例えば、”この間の渋谷区の案件、「クィアちゃん人形」であっというまに解決しちゃったよ!”というふうに。

一方で「Q×Qスーパークラス空間」プロトタイプ(以下「クィアちゃん人形」で表記)に対する批判も起きている。それは、何よりもまずパッケージ化された「クィアちゃん人形」に依存した「まことしやかな物語」に対する批判である。
「観察する側」「評価する側」「○○する側」に就きたい「postgraduateQ」は、いくつかの空間における事例を「クィアちゃん人形」を使って組み立てた。
「Qクラス空間011」→ 排除
「Qクラス空間102」→ 排除
「Qクラス空間259」→ 浄化
「Qクラス空間672」→ 排除

ここで「postgraduateQ」は「Qクラス空間」と呼ばれる空間の内、"011"、"102"、"259"、"672"の事例を紹介し、「クィアちゃん人形」によって「排除」と「浄化」という結果が得られた、したがって「Qクラス空間」には「暗鬱なストーリーライン」に貫かれている、と発表した。
すぐさま反論が寄せられた──それは当然の結果である、なぜならば「postgraduateQ」は「そういう結果になる事例」だけを自ら選びだし、それを一連の流れであるかのように配置しただけなのだから、と。
別の批判はこうである。そもそも「postgraduateQ」は、「Qクラス空間(011)(102)(259)(672)」に自ら足を運んで、コミュニティに分け入って、コミュニティのメンバーと同じ目線に立って、時間をかけてフィールドワークをしたわけではない。「クィアちゃん人形」が「そうだから」と値を返したから「そうである」としか言っていない。
さらに「クィアちゃん人形」を使用することにも批判が寄せられた。「クィアちゃん人形」は、「ある動きと近似した動き」を観測した時点で「排除」か「浄化」といった値を返し、観察を強制終了(アボート)するものである。構造的に「それ以外の動き」は「排除」か「浄化」を導く前段階の「動き」と見なされてしまう。しかも、そこには「その後」の「それ以外の動き」はないものとされてしまっている。すなわち、その後の「Qクラス空間(X)」というコミュニティのことなど何も考えていない。コミュニティを研究材料にしただけの単なる搾取である、と。

いや、そもそも「クィアちゃん人形」の問題は──と、別の観点からの問題提起がなされる──「あらゆる事例」が一度「アメリカの事例」(あるいは「英米の事例」あるいは「英語圏の事例」)と比較され、米国仕様に自動的にコード変換されるその構造にある。そのステップは必要なのか? 米国仕様にコード変換するときに脱落する情報はないか? 逆に余分な情報が付け加わらないか?

何を言っているのか? 米国仕様にコード変換するステップを省いたら、「クィアちゃん人形」から導かれる判断と、われわれの直感との区別がつかなくなるだろう。

クィアちゃん人形」の問題はその構造だ!

クィアちゃん人形」の問題はその使用だ!

 

クィアちゃん人形」をめぐる議論はますます激しくなり炎上した。しかしそういった批判があることをよそに、日本のある小学校の先生(「小学校の先生Q」)は「受け持ちの生徒」に〈問題〉を与えようと、いまだに「クィアちゃん人形」を使ったテスト問題を作成していた。

 

 

 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

 

マタイによる福音書 27.15-17(新共同訳聖書)

 

 
擬似問題を提示することは、自分たちは「問題を設定する側」であり「問題を与える側」であるということを知らしめるある種の──自然に見える──支配の形態だと思っている。しかし、擬似問題自体は、「問題を与える側」の意図を完全に無視することによって、より適切な問題を考える糸口になる場合もある。それは擬似問題の中に、どこか確からしさを感じさせる「近似した確からしさ」が含まれているからである。その「近似したもの」を「確実なもの」にすることはできないだろうか。

 

私たちは、誰の、どの生命を、私たちが今現在生きている「この空間」から排除してきたのか。私たちが現に存在している「この空間」は、誰の、どの生命を浄化して成り立っているものなのか。

 

擬似問題においては、誰かが「ノーマルに振る舞っている」ことが「非規範的な性」との対比で批判されるようだ。なぜそれが批判になるのか──そのことを突き詰めて整理しておく必要がある。なんのためにそんな批判をするのか。そういう批判をする者は、いったい何者なのか。どうして他人を「非規範的な性」に包摂するのか、どうして他人に「非規範的な性」であることを強要するのか、それはどんな権能に基づいているのか、その目的は?──その目的は「ペドフィリアを擁護することを強要する」ことではないか、あらゆる手段で恫喝をして。

 

どの命が、どの身体を有する命が、どのようなあり方をもつ命が、その誕生を許されるのか。誰の、どの身体を有する人の生命が、どのようなあり方を有するであろう人の生命が、その人の生命を存続させることが許されるのか。

 

「非規範的な身体」を中絶によって、すでに/そして今も/そしてこれからも「排除」しておきながら、「非規範的な性」とやらを謳歌するために議論を費やすことは、誰かが都合よく設定した「近似した確からしさ」にいかに接近するのか、それが目指されているのではないか。

「非規範的な性」に焦点が当てられる──誘導され、そこに仕向けられる──ことによって「非規範的な身体」が「排除」され「浄化」されている事態を想定外に押しやってしまう。

「非規範的な性」をめぐる議論を突き詰めて考える。「非規範的な性」を「非規範的な身体」に置き換えて考える。どこかの誰かに設定された「近似した確からしさ」に限りなく接近する議論ではなく、「近似した確からしさ」を導くパターンを分類する。

「非規範的な身体」を中絶によって「排除」すること、それは「命のジェントリフィケーション」ではないか。

「非規範的な身体」を中絶によって「浄化」すること、それは「命のジェントリフィケーション」ではないか。

 

「望まれない身体」が中絶によって「この空間」から締め出されている。私たちはそのことを知らないままでいられるのだろうか。そのことを見て見ぬふりをすることができるのだろうか。「非規範的な性」の問題に対して「それほどまでに」精緻が議論がなされていると喧伝されるクィア・スタディーズにおいて、もし「そのような考察」がなされ、その知識を得ていながら「望まれない身体」が「この空間」から確実に消されている現実から目を背けることができるのだろうか。

「非規範的な性」の領域における自由だけを追求し、命の選別によって「非規範的な身体」を「予め排除する」不正義を問わない潮流。


クィア」は選択的人工妊娠中絶に対して他人事でいられるのだろうか。

クィア」は自分たちもまた「中絶される側」であったかもしれない、と思わないだろうか。
クィア」が「非規範的な性」についてこの社会で語れる一方、この社会の一員になる前に「置き去り」にされた人がいる。「置き去り」にされた人が「非規範的な生」という「あり方」をもつ人であったなら、「非規範的な性」という「あり方」との違いはいったい何なのか。この社会に存在することが許されて、この社会に存在することが許されないのは誰なのか。

クィア」は、今「非規範的な性」について熱く語っている自分が(隣にいる人ではない)、「中絶サバイバー」だと思うことができないのだろうか。

クィア」は、今、自分がそうであると思って自分の代わりに、中絶によってこの世に誕生することができなかった「誰か」のことを想像できないのだろうか──クィア・スタディーズとはいったい何を考察しているのか?

「同じ非規範的」であって、どうして一方は、社会に「そのこと」を訴えることができ、もう一方は、社会から抹殺され「いなかったもの」とされるのか。「同じ非規範的なもの」じゃないか?

クィア」はいったい誰を「置き去り」にしてきたのか。

それは「置き去り」なのだろうか、それは「身代わり」なのではないか。

クィア」の代わりに「身代わり」になった人がいる。

クィア」はバラバなのである。同じ罪人でありながら、偶然、この社会に「いる」ことが認められた。そしてバラバの代わりに誰かが「身代わり」になった。

 

 場内広場で始めてあの男をみたときから、なにかしら不思議なところがある男だ、とバラバは思っていたのだった。それがどういうことなのか、彼は口に出していえなかった。ただ彼が感じたものなのであった。こんな人間はいままでに見たことがない、と思ったのだ。彼は牢獄から出てきたばかりで、目がまだ光線になれてはいなかった、ということのせいもおそらくあったと思われたが。だから始めのうちは彼には、その男がまるでまばゆい光にとりかこまれているように思えた。しかしもちろんその光はすぐに消え失せてしまい、彼の視線が平常になり、広場にただひとり立っていた男のことだけではなく、すべてのことがわかってきた。それでもなお彼は、その男には非常に不思議なものがある、ふつうの人間とは違っている、と思った。そしてその男が囚人であり、自分とまったく同じように死刑の宣告をうけていたのだということは、彼にはどうしても理解できないことであった。彼にはそれが腑に落ちなかった。自分に関係があるというのではなかったが──いったいどうしてこんな裁きができたのだろうか。あの男には罪がないことは、明白だったではないか。

 

ラーゲルクヴィスト『バラバ』(尾崎義 訳、岩波文庫)p.5 *1

 

 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 しかし祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。

 

マタイによる福音書 27.19-22 


誰の、どの生命が生きる価値において劣っていると判断されるのか。誰の、どの生命が将来の価値を否定されるのか。誰の、どのような「あり方」を持つであろう生命が──まさに今生きている/生きようとしている生命が──人為的な手段によってその生存を停止させられるのか。

 

「技術の進歩が社会のなかの”排除”を加速させています。治療によって病気をなくすのではなく、病人そのものを排除する、これは病気を持つ人を理解しようとする方向性をまったく逆にするものです。私たちは(妊婦へのマススクリーニング)検査の導入は悪いことだと正々堂々と言いたいのです」
──21トリソミーの人たちに不利益がある、ということでしょうか。
「生きにくくさせています。80万人の妊婦に破壊的(カタストロフィック)なイメージが広がっています。検査を受けますか?と言われるたびに、妊婦は21トリソミーに対する悪いイメージを医師から聞くのです。不当なレッテルです。世論がこれほどネガティブだと、私たちのキャンペーンが追いつきません。景気の悪化で社会保障費も抑えられています。21トリソミーの研究についても、根絶の対処にいったい誰が研究費を割くでしょうか? もういないのだから……と言われてしまうのです」
(中略)
「スクリーニングが広範に普及するいまの状況は前代未聞です。医学は病気と闘わなければならないのに、医学の名において大量に排除していっています。この15年は技術の進歩、市場主義によって、優生思想が強まっているのです。弱い人を排除していこうとするのはかつてのナチだけではありません。いまもそのまま続いているのです

 

 

酒井律子『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』(NHK出版)p.76-77 *2

 

 96%の中絶という結果に行きつくフランスの出生前スクリーニングは、その入口のところで女性たちがあまりよくわからないままに「選択」のコースに乗っている実態があった。
だが、これこそが問題だと思っている医師もいる。
ルブランに紹介された、産婦人科のデルフィーヌ・オリーヴ医師。働きはじめて13年という中堅である。96%について次のように言う。
「例えば大統領選挙などで、どちらの候補が96%の票を集める、ということがあるでしょうか? この数字は自由な選択の結果とはとても思えません。21トリソミーの子の家族に対する視線という意味でも、迫害とも言える深刻な意味を持っています。あるお母さんの言葉ですが、21トリソミーの子をベビーカーに乗せていると、スクリーニングがこんなにしっかりしているのになんで生まれちゃったの?と言われたといいます。「スクリーニングの失敗作」というふうに見られるのです」

 


『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』p.97

 

ダウン症候群が21番染色体のトリソミーであることを1959年に突き止めたジェローム・ルジェーヌ)の評伝を書いた娘のクララ・ルジェールによれば、フランスで羊水検査の手法を開発したのはルジェーヌの友人で、同じように治療に結びつけようと研究をしていたという。クララは「ふたりは自分たちの偉大な発見が、本来の目的とは反対のほうへ覆されてゆく、救いのない目撃者となるしかなかった」と書いている。そして、羊水検査の結果中絶が行われることに反対したルジェーヌは、1960年代から70年代にかけて、中絶合法化を求める人々から「小さな怪物(ダウン症の子のこと)とともに死ね」などの激しい中傷を受けたという。

 

 

『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』p.101 

 

 1980年代から、イギリスでダウン症スクリーニングプログラムの土台をつくったのが、かつて(デイヴィッド)ブロックに二分脊髄の研究をうながした、ニコラス・J・バルドとハワード・カックルである。
(中略)
ふたりが技術の洗練のほかにこれを公費で行うための根拠としたのが、「費用対効果」であった。ふたりは1992年の論文で、次のように述べている。
ダウン症の出生を1件回避するために必要なコストの見積高は。3万8000ポンドであり、この額はダウン症の人の一生の福祉コストに比べてはるかに安い」。従って、全英でこのスクリーニングを行うべきだと主張した。

 


『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』p.142-143

 

 誰もが優生政策を大合唱するなかで、圧倒的少数者である「青い芝の会」がそれに異議を唱える原動力は何だったのか? 横田とともに一連の反対運動を担った小山正義はそこに横田が抱く「肌で感じる「殺される者」としての恐怖感」があったという。「障害を理由にある者の存在を否定することは、その障害とともにしか存在し得ない他の者の存在意義を否定することでもある」という感じ方、考え方である。横田弘の残した文章を詳細に研究した国文学者の荒井祐樹は、「青い芝の会」が言う「障害者が本来あってはならない存在」だという認識について、それを規定するのは経済市場主義の国家権力だが、障害者の最も身近な存在である親、特に母親を通じて顕在化する、と彼らが考えたことを「優生思想を国家規範と個人との共犯関係として認識していた先駆性」だと評価している。

 


『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』p.194

 

産婦人科の語源のラテン語”obstare”は生まれる子を「前で受け止める」という意味です。つまりどんな子どもでもきちんと迎える、というプロであることが産婦人科医であると思っています。そんな産婦人科医の仕事ができることがうれしくて医師になったのに、いまはデータの世界です。市場の手先になった気持ちもします。それは憤りや怒りというより、悲しみに近いかもしれません」

 

『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』p.72-73 

 

【関連】

*1: 

バラバ (岩波文庫)

バラバ (岩波文庫)

 

 

*2:

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま