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どの命が、どの身体を有する命が、どのようなあり方をもつ命が、その誕生を許されるのか ~ クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けて、クィアの仕向ける疑似問題に対しプロライフ的視点を導入することによってそれを完備化し、「それ自体を救済する」ために

どの命が、どの身体を有する命が、どのようなあり方をもつ命が、その誕生を許されるのか。胎児を人と見なすこと、または人と見なさないこと、あるいはどの胎児に「将来の価値」を与え、どの胎児に「将来の価値」を与えないのか。その選別は、そのときどきの「政策」によって変わってしまう──それは、そのときどきの「政策」によって、存在していい命と存在してはならない命の線引きをすることではないか。私たちにはそれができるのだろうか? あるいはどのように?

 

もしかしたら、クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けての足掛かりを得ることができるかもしれない。もしかしたら、クィアが提示する疑似問題に対しプロライフ的視点を導入することによって、それを完備化し、「それ自体を救済する」ことができるかもしれない。

 

誰の、どの命が、どの身体を有するであろう命が、どのようなあり方をもつであろうと見なされる命が、その誕生を許されるのか。

 

 この判決(ロウ対ウェイド裁判)は、次の三つの問題を潜在させていると考えられる。


①「線引き」問題
一つは、胎児が一つの生命体として母体の所有者である女性のプライバシー権から逸脱する時期を「母体外で生存可能な時期」と明確に設定したこと、つまり本来連続的であるヒトの成長に「生存権」を主張するに値する主体としての一定の境界線を設定した、という点である。つまり、ある時期まで胎児は「ヒトhuman being」であっても「人間ではない」とする見解である。この問題は「線引き問題」(井上1996: 8)と称される。


②自己決定能力を根拠とする中絶
もう一つは、中絶が個人の身体に対する選択権の中に存するものとみなされた点である。つまり、自己の身体に対し、いかなる選択をすることも自由であるとする「自己決定権」のなかに中絶を位置づけた点である。「個人の選択の自由の保障」、それが「プライバシー権としての中絶」という判決が持つ意味である。この「女性の自己決定権としての中絶」は、自己決定能力のあるものと自己決定能力のないものを区別し、二者の間に葛藤が起こったときにそれを判断の根拠として自己決定能力のあるものの権利を優先する、という議論である。


③「生命の質」による中絶
この判決が含意する問題点の最後の一つは、この判断がサリドマイドによる先天性異常をもつ子どもの大量の出生を背景になされたものである、という点である。そこには明らかに、「先天性の異常を持っているなら、中絶されても仕方ない」もしくは、「先天性異常を持つ子どもは不幸である」というある種の「生命の質Quality of Life」に基づく判断(Singer 1998)が働いていると考えられるのである。

 

麦倉泰子「中絶の倫理問題についての考察」 http://www.rikkyo.ne.jp/grp/cchs/student/img/journal/2005/mugikura.pdf

 

「浄化」されるのはどの命なのか、「排除」されるのはどの身体を有するであろう命なのか、「生存」の危機に晒されているのはどのようなあり方を想定される命なのか。

 

出生前診断による選択的中絶の問題性とは、「障害者に対する差別」という政治的・社会的な問題が女性の個人的な自己決定の問題、すなわち「私は障害者を産みたい/産みたくない」となってしまう点である。結果として起こっている現象とは、先天的障害児の出生率の大幅な減少である。実際にイギリスにおいては、1970年代に二分脊椎症の発生予防として羊水穿刺が推奨され、選択的中絶が個別に行なわれた結果患者の発生率が劇的に抑えられたという。同時に、こうした病気や障害をもって生まれてきた子どもたちは、「中絶を失敗した子ども」「中絶を怠ったために生まれた子ども」という否定的なまなざしにさらされるとともに、専門医の減少などによって社会的支援が受けにくくなり、そのためにますます障害のある子どもを産みにくい社会となるという悪循環が生じた。国家による強制的な断種は行なわれなくなっても、個々の自己決定の集積が結果的に優生学的効果をもたらしうるのである。これをレッセ・フェール優生学という(松原 2000)。「自己決定権」は、障害者差別という政治性を呼び込む装置
となりうる。 

 

麦倉泰子「中絶の倫理問題についての考察」