The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

「障害者の浄化」としての役割を果たす人工妊娠中絶

「望まれない身体」が排除され、あの街では浄化が進行している。そのように説く者がいる、そのように教え諭す者がいる。それは、「そのこと」に気づいている「わたし」あるいは「わたしたち」がいて、「そのこと」に気がついていない「あなたたち」がいる。そのような状況を何よりも前提としている──そのような状況であることが必要であるし、そのような状況であることにしておかなければならない。なぜなら、「わたしたち」は「教え諭す側」の人間なのであり、指導教官のように振る舞う権能を有しているからだ。

指導教官のように振る舞うということはどういうことか。それは問題設定は「わたしたち」の手中にあるということだ。Aという事象とBという事象を組み合わせた問題を提出すれば「あなたたち」は確実にジレンマに陥る。そうであれば「あなたたち」は「わたしたち」を無視することはできない。そのために何が問題であるのかを「わたしたち」が設定し、決める。ちょうど小学校の先生が「受け持ちの生徒」に教え諭すように、これは不変の原理なのである。だから、「わたし」は「あなたたちに」に「そのこと」を教え諭す。そういうことを可能にするために、「あなたたち」は「わたし」の「受け持ちの生徒」でなければならない──「受け持ちの生徒」になってもらわなければならない。そうすることによって、「あなたたち」が「わたし」の「受け持ちの生徒」であることを他の学問領域の先生方に知らしめることができる。具体的には、「あなたたち」を「わたし」の業績に直結する学問領域である「クィア理論」という「アメリカの新興学問」に包摂し、そのことを既成事実化する。すでに、他の学問領域の先生方にはそのように話してあるし、そのように受け取れるよう振る舞っているし、そうすることによって国家から研究費を得ているのだから。

 

「望まれない生」(「望まれない身体」を持つと想定される命)が排除されている。「この世界」では健常主義による選択的人工妊娠中絶という名の浄化が進行している。障害者を社会から排除するために中絶を前提にした出生前診断が行われている──「どの」胎児が生存を認められ、「どの」胎児がその生存を認められないのか。「望まれない身体」を持つと診断された胎児が中絶によって抹殺されていっている。「このような浄化」が現にいま進行している。それなのに、このこと説く者が「ここに」はいない、そのように教え諭す者が「ここに」はいない。それは、「そのこと」に気づいている「わたし」あるいは「わたしたち」がいて、「そのこと」に気がついていないふりをしている「あなたたち」がいるということなのか? 「あなたたち」がまことしやかに語る「排除と浄化の理論」には何が書いてあったのか?

 出生前診断において親の自己決定を超える問題があるのは、生きようとしている胎児の生存権があるからだ。それはまた、子どもを育てようとする親の姿勢を守ることが優先される所以でもある。では、この生存権を否定する根拠はどこにあるのだろうか。人工妊娠中絶はそもそも倫理的に正当化することはできない。しかし、個々のケースではやむをえない決定として女性の自己決定による中絶を認めざるをえないと考えられる。これは女性の生存権を守るための、個々のやむをえざる特殊な事情によるものとして理解すべきであり、「自己決定権」として一般化できるようなものではない。では、障害の可能性があるということを根拠として中絶すること(胎児条項)を、普遍的な権利として法に記すことは妥当だろうか。否である。そうすることは、障害者の生が生きる価値において劣っているという差別的な判断を、普遍的な「事実」として示すことになる。
実際には多くの障害者が不幸であるわけではない。まして、生まれてこなければよかったと考える障害者はごくわずかである。にもかかわらず、障害者は生まれてこないように措置するのが当然だとするのはなぜだろうか。それは障害者を排除するのが妥当だとする考え方を社会が作っているからである。それは優生学的な考え方に基づく。優生学とは、「悪い遺伝を避け、いい遺伝をたもって子孫の素質をすぐれたものにすること」(『国語辞典』第四版、三省堂、一九九二年)だが、社会の損得計算の視点から見て、「弱者を人為的に淘汰する」のが適切だという考え方にのっとっている。

 

一九世紀の末に始まり、一九二〇年台以降、精神障害者らの結婚を抑制したり、断種を行ったりした二〇世紀中葉までの優生学に対して、二〇世紀末に著しく普及し始めた出生前診断に代表される新しい形の優生学は「新優生学」とよばれることがある。後者はすでに生まれて生きている人の生殖に対して強制を加え、直接に人権を侵すことはしないように見える。しかし、障害者を社会から排除することが目指されているという点では二つの優生学は同じである。出生前診断によって中絶される胎児はいのちを奪われる。出生前診断を受けずに生まれたり、受けたけれども中絶をせずに生まれた子は、生まれなくてもよかったはずの子として遇される危険にさらされる。生き残った障害児は少数派としての発言権を弱められ、ますます不利な立場に置かれることになる。

 


島薗進「いのちの選別はなぜ避けるべきなのか? 出生前診断をめぐる日本の経験から」 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/28756/1/da010002.pdf

 

 

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