The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

Future‐like‐ours

私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思える。私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができる。

数年前、あるいは数十年前、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思っていた。数年前、あるいは数十年前、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができた。

1年後、私たちはパリにいるだろう。そこでも、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思えるだろう。5年後、私たちはコペンハーゲンにいるかもしれない。そこでも、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができるだろう。

 

 

「わたしたち」は現在、「xという空間」(xと名付けられているスペース)に存在している。「わたしたち」が存在していることが、「xというクラス」、そのように名付けられている「xクラス空間」の条件でもある。「わたしたち」は何ものかであって、そして何ものかでもない──「わたしたち」は「この場」(「xクラス空間」)にいる、としか言えない。「わたしたち」は"x"である。

 

 殺すことを不正にするものは、殺人者に対する影響でも、被害者の友人や親族に対する影響でもなく、まずもって殺される被害者への影響である。生命を失うことは、その人が被りうる最大の損害の一つである。生命を失うことは、殺されなければその人の将来を構成することになる経験や活動や計画や楽しみなどのすべてをその人から奪い去ってしまう。したがって、誰かを殺すことが不正なのは、まずもってそれが被害者に起こりうる最大の損害(の一つ)を与えるからにほかならない。


(中略)


殺すことが不正なのは被害者の将来を奪ってしまうからであるという主張は、次の二つの考察によって直接に支持される。第一に、この理論は、なぜわれわれが殺すことを最悪の犯罪の一つとして見なすのかをうまく説明してくれる。殺すことが不正なのは、それが他のいかなる犯罪よりも多くのことを被害者から奪うからである。第二に、エイズや癌を患って自分が死につつあると知っている人は、当然、死は自分にとって非常に悪いことだと信じている。彼らはこう信じている。自分が死ななければ経験するはずの自分の将来を失うことこそが、自分にとって早死にをきわめて悪い事態としているのだ、と。もし仮に、殺すことの不正さに関するこれよりもっと優れた理論が他にあるとすれば、その理論は死ぬことに対する人々の態度ともっとうまく適合するような、殺すことに関する異なった自然的性質を必要とするだろう。それはどんなものでありうるだろう?

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」(山本圭一郎 訳、江口聡 編・監訳『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収、 p.195、197 *1

 

こう考えたらどうだろうか。私たちは、どこかの誰かによって恣意的に都合よく分割された「あるクラスの空間」に押し込まれている。「あるクラスの空間」の構成要素にされている──勝手に強引に、その集合に包摂されてしまっている。ナチス・ドイツがある特定の人たちに、その特定の人たちとそうでない人たちを区別するための目印となるバッジをつけさせたように、私たちは「あるクラスの空間」を構成するのに都合のよい要素として選別され、「そのクラス名」を強制的に名乗らされている。

 

私たちは「わたしはそうである」というそれだけの理由で「Qクラス空間」に関する問題を与えられる──ここにおいて、どういういうわけか、どういう権能に基づいているのか、「他人に問題を与える側」にいる人間がすでに自明視されていることは注意を促しておく。
「Qクラス空間」問題は、その上位または並列する「Pクラス空間」問題と形式的な構造を共有しているとみなす。「Pクラス空間」問題は、その上位または並列する「Oクラス空間」問題と形式的な構造を共有しているとみなす。


このように「Qクラス空間」と「Pクラス空間」の比較ができること、「Pクラス空間」と「Oクラス空間」の比較ができること、「Qクラス空間」と「Oクラス空間」の比較ができること。これらの比較を可能としているのは、問題を提出する側がすでに同様の比較を行っていることに依拠している。例えば、条件の異なる国と国との間の問題──国境に関する問題(仮にこれを「Bクラス空間」と位置付ける)、または外国の都市における特定の地区──例えばフランス・パリのマレ地区の問題(仮に「Mクラス空間」と名付ける)、さらに「Qクラス空間」の下位または並列する空間として東京・渋谷の「Sクラス空間」も想定可能であり、それらとどこが(どこまで)「同じ」で、どこが(どこまで)「違う」のかを比較すること。

つまり、こういった異なる要素や異なる条件の下にある異なるクラス間において、「同じ」かどうかを比較判断できるのは、それぞれが特定の条件と特定の要素から構成されている空間にあっても、そこに何かしら共通する構造を有しているからだと推測できる。「Nクラス空間」問題と「Mクラス空間」問題の比較、「Dクラス空間」問題と「Cクラス空間」問題の比較。それは現在の「Qクラス空間」問題を「起点」とし、より上位のクラスの問題と解答を推定していくものである──「Qクラス空間」の問題と解答を「Pクラス空間」は内包しているだろう、同様に「Oクラス空間」も内包しているだろう、「Nクラス空間」も……。以下同様に……「Aクラス空間」へと特定の誰かによって恣意的に都合よく描かれた軌跡を逆に辿るかのように、そして最後に、特定の誰かによって恣意的に都合よく分割される以前の「唯一のスペース」──それは「この世」としか言いようがない、それを「ゼロ・クラス空間」と位置付ける──へ、その問題とその解答を送り届ける。

 

「わたしたち」はどのクラスの空間(場)にもいた。しかし、そもそも「わたしたち」は「ゼロ・クラス空間」に参入可能だったのか? 「わたしたち」が「この世」としかいいようのない「ゼロ・クラス空間」に(その「場」に)、「いる」こと──それを可能にする「新生児として生まれること」が。「わたしたち」の誰が「いる」ことが認められ、「わたしたち」の誰が「いる」ことが認められなかったのか。すでに「Aクラス空間」以降の内側で生存している「わたしたち」の中で、誰が「ゼロ・クラス空間」で選別されたのか。「わたしたち」は「わたしたち」の誰を置き去りにしてきたのか。

 

 殺すこと一般を第一義的に不正とするのは、その被害者が自分の将来の価値を失うことであるという主張は、中絶の倫理に対して自明な結論をもたらす。一連の経験、計画、活動などが含まれているという点で、胎児の将来は成人の将来や年若い子どもの将来と同じである。上に述べた、生まれた後の人間を殺すのが不正であるのはなぜであるかを説明するのに十分な理由は、胎児についてもまた当てはまる。このため、特段の理由がなければ、中絶は道徳的にきわめて不正であるという結論になる。
上の議論は、ひとを殺すことは不正なので潜在的なひとを殺すことも不正である、という妥当でない推論には依拠していない。ここで提出している分析において、道徳的な意味で核心となるカテゴリーは、われわれと同じような価値ある将来をもっているというカテゴリーであって、ひとであるというカテゴリーではない。他に特段の理由がなければ、中絶はきわめて不正であるという趣旨の結論となるこの議論は、ひとの観念や潜在的なひとの観念、もしくはこれに類似した観念とは独立に進められてきた。論者の中には、このような分析を人間の将来の価値という点から出発して、ごく稀な状況を除いて中絶が道徳的にきわめて不正であると結論し、胎児が生存する権利をもっていると推論し、そしてその結果として胎児を「ひと」と呼びたいと考える者もいるかもしれない。このような場合には、ひとというカテゴリーはその分析の論証を生み出すためではなく、むしろその分析の結論を述べるために用いられているのは明らかである。

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」 p.199-200 

 

「Qクラス空間」問題で示唆される解答──それは曖昧に濁され、まるで小学校の先生が「自分の受け持ちの生徒」に自分で問題を解くように「教え諭す」かのような独特な配慮がなされているかもしれない──が「わたしたちを殺すことは不正である」だとしたら、それは、対象となる内部の要素や条件が異なっても、同じ構造を有しているとみなされるすべてのクラスの空間にも「同じ解答」を導く「同じ問題」を設定できるだろう。

「Qクラス空間」で提示された解答は、「Pクラス空間」においてもその解答(「Qクラス空間」における解答)によって、その解答を導くための問題を設定できるだろうし、「Mクラス空間」でも「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導くための問題を設定することが可能である。以下同様に……「Bクラス空間」でも「その問題」が成り立ちうる。そして、恣意的に都合よく分割される──「Qクラス空間」もそうである──以前の「唯一のスペース」である「ゼロ・クラス空間」においても「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導く「同じ問題」を設定できる。いや、「同じ問題」を設定できなければならないのだ。

 

「ゼロ・クラス空間」における問いは、「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導く問題だけである。それが唯一の問題である。この世に生まれること、生を受けること、それだけである。殺されないこと、生誕を認められること、それが「フル・パーティシペイション」のすべてである。都市スペース特有のガヤガヤとした騒音=「知ったかぶり」に耳を塞ぎ、遠くから聞こえてくる声に耳を澄ますこと──「わたしたちを殺すことは不正である」。これ以上ないほどのシンプルな問い。「わたしたちを殺すことは不正である」。最終の、そして原初の問い。「わたしたちを殺すことは不正である」


「この世」としか言いようがない「ゼロ・クラス空間」において、現在、わたしたちがそう思っているように「わたしたちを殺すことは不正である」と思うことのできなかった「わたしたち」は無価値なのか? 「ゼロ・クラス空間」において、現在、わたしたちがそう言っているように「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことのできなかった「わたしたち」の生は無価値なのか?

 

 中絶反対という帰結を避けるための別の戦略があるとすれば、それは「将来の価値」説の範囲を限定することだろう。もっと正確に言えば、この戦略は「将来の価値」説(もしくは他のあらゆる中絶反対派の議論)を胎児に適用しようとすれば最も肝心となるはずの性質を、胎児はもっていないと主張しようとする。
このための方策の一つは、ある人の将来に価値があると言うための必要条件は、その人が将来に価値を認めることだ、という主張に基づいている。価値があるということは、価値づけを行う人がいるということを必然的に伴う。この主張を考慮すれば、胎児は自分の将来を価値づけることができないのであるから、胎児の将来はその胎児にとって価値あるものではない、と論ずることもできるかもしれない。それゆえ、胎児の生命を意図的に絶つことは、胎児に対して深刻な不正を行っているわけではない、と。
しかし、このような方策は失敗に終わる。なぜなら、この議論にはいくつかの不明瞭な点があるからである。誰かがあるものに価値があると認めない限り、それは価値があるものとはなりえない、と想定してみよう。しかし、だからといって、「私が」自分の生命を自分で価値があると認めない限り私の生命は無価値である、ということが論理的に出てくるわけではない。絶望の淵にあるとき、私は自分の将来がまったく無価値であると思うかもしれない。しかし、私以外の人たちが正しくも私の将来に価値──しかも大きな価値──を見いだすのだから、私は間違っているかもしれない。そのうえ、私の将来は私が価値を置かないとしても私にとって価値あるものでありうる。たとえば、ある若者が自殺未遂を図ったものの、一命をとりとめ、やがて偉業を成し遂げるに至るような場合がそうである。こうした若い人々の将来は、自殺を図った時点では彼らに価値がないように見えるとしても、結局は彼らにとって価値あるものなのである。同様な仕方で、胎児の将来も胎児にとって価値あるものでありうる。

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」p.207-208 

 

 

【関連】

 

*1:妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理