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The Reverberator

メモ用

ようこそ、不幸な子どもが生まれない社会へ

クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けて、クィアが仕向ける疑似問題をプロライフの視点によって救済するために

1966年から1974年にかけて兵庫県である施策が行われた。それは県衛生部が「不幸な子どもの生まれない対策室」を設置し、出生前診断を奨励、羊水検査でダウン症候群など染色体異常の可能性のある胎児を見つけることを推進した──パンフレットを作成し、それを配った。行政側が「不幸な子ども」を定義し、その「不幸な子ども」が生まれてこないよう監視し、出生前診断の一部費用を県が負担するなどの介入を図ったのである。つまり「不幸な子ども」の出生抑制政策である。これが一連の「不幸な子どもの生まれない運動」と呼ばれるものである。*1

 

 兵庫県「不幸な子どもの生まれない運動」の経過】


1966 年4月 兵庫県衛生部が中心となって同運動スタート
同年 6月「不幸な子どもの生まれない施策を進めるために」(兵庫県 医第556 号)策定。以降、各種施策とともに県民大会等を展開。
1970 年8月 兵庫県「不幸な子どもの生まれない対策室」設置
1974 年4月 障害者団体の抗議を受けて、「不幸な子どもの生まれない対策室」廃止、運動の名称も変更される

 

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_20/pdf/o1.pdf 

 

 兵庫県は1966~74年、「不幸な子どもの生まれない県民運動」を推進した過去がある。

 「不幸な子ども」を中絶や死産に加え、知的、身体などの障害児と定義。70年には対策室を設置した。障害者団体の抗議を受けて廃止するまで、遺伝病の予防や障害者のリハビリなど幅広い施策を展開し、他府県から視察が相次いだという。

 県健康増進課は「当時の国の母子保健施策に沿った運動。障害者に不幸な存在とレッテルを張るのは今なら許されない」と話す。

 

 

相模原事件 兵庫県「不幸な子」生まぬ運動の過去 神戸新聞NEXT 2016/9/5 

https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201609/0009459314.shtml

 

 

ある人が「ある空間」の条件を設定し、その条件を満たした構成要素の「動き」を観察する。その場合の「ある空間」は、既存の境界(例えば国境)を利用するものであったり、宗教などの文化的なエリアを当てはめたものであったり、あるいは……「ある結論」を導くために最適化されたコロニーのようなもの──比喩的に言えば、ある特定の微生物の培養実験を観察するための「滅菌された」シャーレも「ある空間」としての要件を十分に満たしているだろう。

 

 

「ある空間」における構成要素の「動き」を、「排除」や「浄化」という言葉に置き換えたとき、観察者はいったいそこに何を見ているのか、実のところはよくわからない。何をもって「排除」と見なしているのか、何をもって「浄化」と見なしているのか。「Aという空間」における構成要素の「動き」をもって「それは浄化である」と判断する根拠と、「Bという空間」における構成要素の「動き」をもって「それは浄化である」と判断する根拠は「同じもの」なのだろうか。根拠が「同じもの」であるから「Aという空間」における「浄化」と「Bという空間」における「浄化」は「同じ浄化」と言えるのか。観察者がそのように思えば、そうなのか。

観察者aが「Aという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
観察者bが「Bという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
観察者cが「Cという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
以下同様…。
観察者d(a,b,cの何れかであっても構わない)はこれによって「排除(浄化)理論」を発見/発明するだろう。別の観察者fはこの「排除(浄化)理論」を利用するだろう。

新進気鋭の観察者Qは、発表されたばかりの「排除(浄化)理論」を早速「Xという空間」に適用するだろう。「排除(浄化)理論」に照らし出された「Xという空間」の構成要素の「動き」は、もちろん条件が様々に違っているので「同じ」とはさすがには言えない。だから新進気鋭の観察者Qはそれを「近似した動き」と表現する。「Xという空間」における構成要素は「排除(浄化)理論」を十分に満たすための「近似した動き」を期待されるだろう。ところで、ここにおいて、「近似」という言葉の意味を限定する条件は、今のところ示されてはいない。そうであるならば、「排除(浄化)理論」を成り立たせる「近似した動き」は、「排除(浄化)理論」を知らない一般の人の直感に限りなく接近し、理論に導かれたものと直感によって得られたものが「ほとんど同じ」──それ自体が「近似したもの」──になるかもしれない。

 

 

ある(複数の)観察者が、自分(たち)の管轄である「prefecture という空間」の構成要素の一部対象者を「不幸な子ども」であると定義した。
一方、その構成要素としての対象者は、そのとき、自分たちのことを「そのように」思っているのか。その構成要素としての対象者が「そのように」思っているのか、「そのように」思っていないのか、観察者はどうやってそれを知ることができたのか。観察者はそれを知らなくてもいいのだろうか。
構成要素としての特定の対象者が「そう思わなくても」、観察者がそう思えばそれは「不幸な子ども」であると言えるのか。構成要素としての特定の対象者が「そう思うことができなくても」、観察者がそう思えば、それは「不幸な子ども」であると言えるのか。観察者の意見が構成要素としての対象者のそれよりも優先されるのだろうか。だとしたら、それはなぜなのか。
「prefecture という空間」の構成要素としての特定の対象者が「そう思わなくても」、自分たち以外の人たちが自分たちのことを「そうである」と思っていることを、特定の対象者は知ることができる。むしろ、知らされると言ったほうがよいのかもしれない。
では、構成要素としての特定の対象者は、自分(たち)が「不幸な子ども」であると見なされ、「望まれない生」であると見なされていることに、いつ、どのようにして気がつくのか──いつ、どのようにして、それを知るのか、そして、いつ、どのようにして、それを思い知らされるのか。

 

 

かつて「ある空間」の構成要素として勝手に強引に選別され、ナチス・ドイツがやったように「クィア」という名のついたバッジを無理やり付けさせられた人たちがいた。「クィア」に勝手に強引に包摂されることは深刻な人権侵害であると何度も何度も訴えても、その訴えは無視された。「他人のあり方」を規定すること──それが「その名」においてなされていた。

そして他人に「その名」を強制的に付与する権能を自分たちは有してるかのように振る舞っている者たちがいた。思い上がりを絵に描いたようなその者たちは、さらに、どういうわけか、どのような権能に基づいているのか、自分たちを「観察する側」においていた。

そのような傲慢な連中たちの観察の対象であるにすぎなかった「そのような」人たちが、観察者が所有している方法論(クィア・スタディーズ)を逆に抵抗のために捉え返し、それを他の目的のために役立てる──これはそういう「物語」でもある。
ただし、言うまでもなく、クィア・スタディーズにおける「排除」や「浄化」の問題は、すでに第一段階の「排除」や第一段階の「浄化」が終了した時点以降の範囲を扱っているにすぎない。観察者も対象者も、すでに第一段階の「排除」や第一段階の「浄化」を免れた人たちなのである。クィア・スタディーズとは、すでに誰かのことを「排除」し、誰かのことを「浄化」し、誰かのことを「置き去り」にし、そのことを忘却し、その忘却に支えられて成立しているものなのである。「非規範的な生」なるものはすでに「排除」され「浄化」されているのである──そのことを問わない潮流によってクィア・スタディーズ自体が支えられているのである。
現在、観察者の目の前に広がっている「普通の景色」は、すでに多くの障害をもった人たちが選択的人工妊娠中絶によって選別され、この社会から「排除」され、この社会から「浄化」されたものなのである。

 

 

誰の、どの身体を有する人の生命が、どのようなあり方を有するであろう人の生命が、その人の生命を存続させることが許されるのか。

 

 障害をもって生まれることは不幸であるという意識は、当時も現在も多くの人のなかにあまり変わりなくあるだろう。でなければ、出生前診断の技術が進歩し続けているわけがない。しかし、このような決めつけは、障害をもって現に生きている障害者からみれば、どうしても納得できないものである。なぜならば、障害をもって生きることが、「幸せ」なのか、「不幸」なのかは、その本人以外誰も判断できないからである。

(中略)


優生保護法改正反対運動というと、青い芝の会がクローズアップされがちであるが、当時の多くの障害者運動に「優生保護法改正反対」という単一の争点での共闘を実現させることになり、それがその後の優生施策に抵抗する障害者運動の連帯行動の基盤を形づくることになったといわれる。(田中耕一郎〔2005〕p.37)

ただ、青い芝の会の障害者たちは、「不幸な子どもの生まれない施策」のいうところの不幸な子どもや母親に殺された子どもと「脳性まひ」という障害(impairment)をもっている点で共通している。青い芝の会の障害者たちは、自分の子どものころとこのような子どもたちとが重なったのであろうし、大人になっても脳性まひという障害をもっていることは変わらないため、「障害者は、不幸な存在である」や「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という意識が存在する社会では、「いつ、自分達も・・・」という危機感になったのであろう。
ところで、1980 年代、イギリスにおいても日本と同じような現象がみられる。ここでも脳性まひの障害者たちは、障害を理由にした中絶を容認するような社会的傾向に恐怖を感じたといわれている。イギリスの障害学の文献には以下の記述がある。

 

「もし、胎児が特定の状況にあるために、殺すのが正しく適切だと決定されるのなら、なぜその胎児と同じ状況にある人々が、単に年齢を経ているというだけで権利を認められるのだろうか」(Daves,1989:83)。(コリン・バーンズ他〔2002〕p.288)

 

一般に胎児は、法的に権利主体ではないと解釈されることが多い。しかし、ここで登場した同じような状況(「障害者は、不幸な存在である」や「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という意識が存在する社会において脳性まひという障害をもっていることは、大人になっても変わらない)におかれている障害者たちにとって、障害をもつ可能性が高い胎児も出生前or 出生後を問わず地続きの仲間なのであろう。言い換えると、こうした同じような状況におかれている障害者たちは、障害をもつ可能性がある胎児を同じ範疇にいる仲間ととらえているといえる。

 

 

笹原八代美「選択的人工妊娠中絶と障害者の権利 : 女性の人権の問題としての性選択との比較を通して」 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/3383/2/SR0002_160-181.pdf 

 

 

現在、成人である〈わたし〉は、ある障害をもっている──障害をもって生まれ、その障害をもった身体を生きている。そして、〈わたし〉は、「障害者は、不幸な存在である」「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という社会規範が「普通の景色」であるこの社会に生きている。〈わたし〉は、自分と同じ障害をもった胎児が中絶されているのを知っている。中絶によって〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児の生存は途絶える。そのことをいつも、いつも思い知らされる。いったい、〈わたし〉と「あの胎児」を区別するものは何なのか? 「あの胎児」に生きる資格がないのなら、どうして同じ障害をもち、同じ状況にある、単に年齢を経ただけの〈わたし〉は、そうでないと思えるのか。だから、このような社会にあって「望まれない身体」を有した〈わたし〉は、「いつか自分も……」と常に危機感を抱かざるを得ない。「生存」という言葉が重くのしかかる。自分と同じ障害をもった胎児が中絶され、その生命の存続を拒絶されるのが「普通の景色」になっている社会に生きているのだから。〈わたし〉にとって「普通の景色」は、〈わたし〉であることが可能な場であってほしい。〈わたし〉にとって「普通の景色」は、〈わたし〉が不幸な存在であると見なされずに、そして〈わたし〉自身も〈わたし〉自身をそのように思える場であってほしい。〈わたし〉の願う「普通の景色」は、〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児の願いでもある。〈わたし〉にとって〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児は仲間なのである。「あの胎児」と〈わたし〉は地続きの存在なのである。それを切り離して物事を考えることはできない。だから、そういった仲間との「コンタクト」をうみだす力を欲し、その力の存在を信じている。出生前/出生後の区分を攪乱し、〈わたし〉と〈あなた〉の「コンタクト」をうみだす力を。〈わたし〉は〈あなた〉の誕生をいつか(きっと、必ず)心より祝福したい──ようこそ、不幸な子どもなんかいない世界へ。

 

  

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