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The Reverberator

メモ用

 

周知のように、女の子として承認されるには、女の子であるだけでは十分ではない。絶えず女性性の証拠をつけ加えなければならない。そして、これらの証拠は、しばしば性器とは無関係なのである。「男の子は男の子自身として欲望される。女の子は──もし欲望されるとすれば──ある価値の尺度にしたがって欲望される。

  • 女の子はいっそう思いやりがある、
  • 彼女たちはいっそう感謝の気持ちをもっている、
  • 彼女たちは可愛らしく、おしゃれである、
  • 彼女たちは家事の仕事を手伝う」

ようするに、どんな小さな女の子もさまざまな理由から「女の子」として受け入れられるが、それらの理由が彼女の現実の性器を考慮に入れることは決してない。女の子は条件付で「女の子」として承認される。一方、男の子は、もっぱらその性器ゆえに男の子として承認される。女の子は自己の女性性について、つねに証拠を示さなければならないのである。その結果、どうすれば女性はこの女性性の記号を誇示する必要にかられないというのだろう。自分が〈女性〉であると終生、証明しつづけなければならないと信じる者の苛酷な人生。女性は自分が女性であることの本当の意味で確信をもつことができない。というのも、彼女の社会的な同一性が彼女の身体的な性に淵源すると思われたことは一度もないからである。

苦痛に満ちたジレンマである。そこでは同一化(として- 在る)が同一性(自己 - で在る)に優先し、ふりを - する本当のものの代わりをする。

 

女の子のドラマとは、彼女の身体がだれの身体のようでもないということである。

 

 

 クリスティアーヌ・オリヴィエ『母の刻印 イオカステーの子供たち』p.90-91