The Reverberator

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渋谷区の寓話、東京大学の寓話、野宿者排除とクィア・ポリティクス、大学非常勤職員の雇い止め問題とクィア・ポリティクス、ピンクウォッシュの接続、ピンクウォッシングの展開

 

東京大学で起こった、非常勤職員の「雇い止め争議」その内幕 〔現代ビジネス〕2017.08.17

gendai.ismedia.jp

 

 さらに、「東大ルール」には「6か月のクーリング期間の適用」が記載されている。5年働いたパート教職員は、6か月の休業期間を経た後なら、再び上限5年で雇用することを可能、としている。

 

が、改正労働契約法では、一度6か月もの休業期間を経ると、「雇用継続の期待権」がリセットされてしまい、無期転換の機会を失ってしまうことが定められている。5年働いても、その後半年間の休みをとれば、勤務期間がまた「ゼロ」からとなり、いつまでも無期雇用には至らなくなってしまう。

文書では、これがさも合理的であるかのように記載されているが、無期転換(正規雇用化)を阻止するためにクーリングすることは違法、または脱法行為にあたるとさえいわれている。 

 

 

 

では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きてきました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死を導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。

 

 

ローマの信徒への手紙 7.7-11 新共同訳聖書

 

 

 

【関連】

そこにネオリベラリズムの地獄を見た ~ ある大学で発生した非常勤職員の雇止め問題から導かれるクィア・ポリティクスの悪魔的欺瞞とクィア理論そのもののいかがわしさ

東京大学で起こった、非常勤職員の「雇い止め争議」その内幕 〔現代ビジネス〕2017.08.17

gendai.ismedia.jp

 団交の場で、大学側は2018年4月から「職域限定雇用職員」という、フルタイムで定年まで働ける、新たな非正規教職員制度を作ると説明した。契約期間が満了しても引き続き働きたい人は、フルタイムの人もパートの人も、毎年秋に実施される試験を受け、それに合格すれば、非常勤ながら定年まで働くことが可能になる制度だという。

 

大学側は「この試験に合格すれば無期雇用になるので、試験を受けてほしい」と、誰でも受けられることを強調するが、組合側が「試験に受からなかった人はどうなるのか」と質すと、大学側は「試験に落ちた人を保障する必要はない」と回答。つまり、試験で落としてしまえば、その職員を再度雇う必要はない、ということのようだ。

試験に受からない場合は「その人の責任」で、不合格によって雇用が途切れるのは大学側の責任ではない、という理屈をつくるための制度だ、と組合側は受け取っているという。

 

組合側は、無期転換を認めない姿勢はそもそもの法律の趣旨に反していると主張したが、女性が8割を占める短期間有期雇用労働者を雇い止めしようとしている点は、女性に対する雇用差別、とも受け取れるという。

 

 

 

律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分たちでそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮らの子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

 


マタイによる福音書23.2-5、27-33(新共同訳聖書)

 

 

【関連】

わたしたちは「殺す権利」を要求しない、だからあなたたちも「殺す権利」を放棄して欲しい ~ クィア政治とプロライフ政治の親和性

 私たちは中絶しなかった。私たちは生まれてくる子どもを殺さなかった。私たちは「殺す権利」を選択しなかった。私たちは「殺す権利」を行使しなかった。


そもそも私たちに何の罪もない子どもを「殺す権利」があるのだろうか? 私たちに「殺す権利」がないのに、あなたたちにはどうしてそれがあるのか? どうして「殺す権利」があると言えるのか? 


私たちは殺さない。だから、あなたたちも殺さないでほしい。私たちは「殺す権利」を行使しない。だから、あなたちも「殺す権利」を行使しないでほしい。


中絶はそれ自体が積極的な善ではない、それどころかそれは悪なのだから。中絶は何の罪もない子どもを殺すことなのだから。中絶の権利を要求することは、「殺す権利」を要求することなのだから。


だから、私たちは「そうしなかった」。だから、私たちはこれからも「そうしない」。だから、あなたたちも「そうしないでほしい」。

 

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私たちにも、あなたたちにも「殺す権利」はない。「殺す権利」を求めてはいけない。かつて、あなたたちが私たちに説いて聞かせた〈あなたたちの大義〉を思い出してほしい。  

「人の生命にかんする他の例では、フェミニストの一貫した唯一の哲学は、すべての人に尊厳を認めるというものです。私たちは女を階級としてステレオタイプ化するのを止めるよう要求しています。私たちは、年齢や精神的・肉体的条件、あるいは望まれなさの程度に基づく新しい階級別ステレオタイプを導入することはできないし、しようとも思いません。

かつて人間以下のものと定義されていた私たちには、自分たちの権利を主張する中で、彼らは人間ではないという主観的な判断に基づいて他者の権利を否定することはできません。……中絶は何の解決にもなりません。女は中絶に頼るたびに、差別をより強固なものにしているのです。

……あらゆる世論調査で、女よりも男の方が中絶を支持する率が高いのは不思議ではありません。女の中では、男の教育制度で長く教育を受けた人ほど中絶を支持する傾向が強いことも、不思議ではありません」(議会公聴会での、生命を支持するフェミニストのメンバー証言)。

 

 

荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』(岩波書店) p.233-234 *1

 

 

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。

── ヘブライ人への手紙 10.27

 

 

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トランプ大統領、トランスジェンダーの米軍入隊を禁止へ 訴訟の恐れも

 

トランプ米大統領は26日、ツイッターで、心と体の性が一致しないトランスジェンダーの人々について、米軍への入隊を禁止する方針を発表した。時期や方法などの詳細は明らかにしていない。

突然の発表に対し、人権団体や民主・共和両党の一部議員は政治的動機に基づく差別だと非難する一方、保守系団体や一部の共和党議員は賛同する考えを示している。

オバマ前政権は、性的指向性自認に基づく米軍内の障壁撤廃に取り組んできた。

トランプ氏は昨年の大統領選期間中、トランスジェンダーを含む性的少数者(LGBT)のために戦うと公約していた。

しかし、この日のツイートでは「米軍幹部や専門家と協議した結果、米政府は米軍のいかなる職務であれトランスジェンダーの個人を受け入れない方針となった」と発表。「米軍は決定的な勝利に専念する必要があり、トランスジェンダーの受け入れに伴う高額の医療費や混乱を引き受けられない」とした。 

 
 
 

  

私たちは殺さない、だから、あなたたちも殺さないでほしい。私たちは「殺す権利」を行使しない、だから、あなたたちも「殺す権利」を行使しないでほしい。私たちは「そうしない」、だから、あなたたちも「そうしないでほしい」。私たちは殺さない、だから、あなたたちも殺すべきではない。私たちは「殺す権利」を行使しない、だから、あなたたちも「殺す権利」を行使すべきではない。私たちは「そうしない」、だから、あなたたちも「そうすべきではない」。私たちは殺さない、だから、あなたたちも殺してはいけない。私たちは「殺す権利」を行使しない、だから、あなたたちも「殺す権利」を行使してはいけない。私たちは「殺す権利」を要求しない、だから、あなたたちも「殺す権利」を放棄してほしい。私たちは「そうしない」、だから、あなたたちも「そうしてはいけない」。

私たちは〈この殺す権利〉を要求しない、だから、あなたたちも〈その殺す権利〉を放棄してほしい。

  

すでに見たように、中絶反対派は女の胎内にあるものは受精の瞬間から完全な一個の「人格」であり、成長した一人の人間とまったく同様に扱われるべきであると主張している。この観点からすれば中絶は殺人と同義であり、たとえ女にプライヴァシー権や身体に対する自己決定権があるとしても、それは彼女の体内にいるもう一人の「人間」を「殺す権利」を含むものではない、すなわち胎児の生存する権利を上回るものではないということになる。なぜならアメリカ国家の独立宣言が個人の「自由」や「幸福の追求」よりも前に「生命」を掲げているように、人間にとって生命の権利とは至高のものとされているからである。もしも胎内の「人間」の生命権を重さにおいて上回りうるものがあるとすれば、それは妊娠出産によって女性の生命を防衛する権利のみである。

(中略)

これに対する中絶擁護派の反論は、中絶を選択したある女性の次のような感想に、素朴ではあるが率直な形で示されている。
「悪いけど、私はよく知りもしない誰かのために、私の人生を犠牲にする気はないわ。それが中絶の後、私がいちばん強く感じたことだったんです。誰かの命を犠牲にすることで、私は自分の生命を救ったんだって。」

 

 

『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.230-231 

 

 

【関連】

 

*1:

中絶論争とアメリカ社会――身体をめぐる戦争 (岩波人文書セレクション)

中絶論争とアメリカ社会――身体をめぐる戦争 (岩波人文書セレクション)

 

中絶の合法化と「望まれない身体」の排除、あるいは「望まれない身体」の排除を目的にした中絶合法化

「わたしたちの」──と「私たち」を僭称し、身体のあり方を統御する既存の規範に対して「あなたたち」は従順に振る舞っている、と大仰に嘆いて見せる。そして「あなたたち」は……をするのではなかったのか、と、すかさず自分たちに都合のよい事態を「……」に代入する──後のために操作しやすい言葉を巧妙に選ぶ。こういう論法で、いつのまにか「私たち」の目的が遡及的に定められ、それがいつのまにか義務のようなものになり、まるで「そのような契約」をしたかのように取り扱われる。つまり既成事実化される。そこから「あなたたちは○○するはずなのに、○○していない」という批判を展開し、自分たちを「批判する側」「教え諭す側」「観察する側」「評価する側」等に自然に仕立て上げ、「……」に代入した操作しやすい言葉によって、都合のよい説明をまことしやかに繰り広げる。そうやって他人に付け入り、まるで契約不履行を咎める債権者のように振る舞う。そうした後に「皮肉なことに……は……になっている」と時空を超えた高みからまるで預言者のような神託めいた物言いをする。他人の行動を見透かしているかのような物言いで他人を評価し、それによって自分たちの優位性をひけらかす──自分たちは先見の明があり、ずっと以前から「このような」警鐘を鳴らしてた、というわけだ。これを「クィア文」あるいは「クィア論法」と名付けておきたい。


私たちは、「身体のあり方を統御する既存の規範」というものに対し、それがどういうものであるのかを本当に知らされているのだろうか。「身体のあり方を統御する既存の規範」というものをきちんと理解しているのだろうか──自分たち自身でそれを考える余地が与えられているだろうか。「クィア文」あるいは「クィア論法」に誘導されて、知るべき情報がそれに覆い隠されていないだろうか。「非規範的な性」という言葉とセットになった「非規範的な身体」(望まれない身体)──「非規範的な性行為(セックス)」という言葉と相補的に(そして従属的に)表現される「非規範的な身体」──に焦点が当てられるとき、その操作によって、何かを覆い隠しつつ、その者たちに都合のよい結論にいつのまにか導かれていることに、その渦中にあって、どうやって気づくことができるだろうか? そもそもクィア」を標榜する者を、どうして、どうやって、信頼することができるのか。そもそもクィア」を標榜すれば、それらが何か検討に値するように思わされるのは、なぜなのか──その者たちが「弱者」を狙い、その「弱み」に付け込み、「弱み」があるからこそ付け入り、そのように振る舞っているからではないか。これまで、そうやって「ペドフィリアを擁護することを強要」され、平然と性行為に言及され、そうせざるを得ない状況に追い込まれるセクシュアルハラスメントによる苦痛を、その者たちによって、与えられてきたのではないか。

 

それらに抵抗するために、一つの方法が考えられる。それは「クィア・スタディーズ」の名の下に書かれた文章から「クィア的なもの」を極力省き、それをないものと想定して読み、そうしたことによって文章の骨子を取り出すことである。すなわち「クィア的なもの」という「セクシュアルハラスメント」と「知ったかぶり」を無視し、そこで導かれた平凡な結論を見定めること。「クィア」が仕向ける誘導──どのような言葉づかい(例えば「非規範的な性」)で、それによって何を導こうとしているのかに敏感になること──に抵抗しつつ、それを「クィアが導こうとしない問題」との接点を見つけることである。「身体のあり方を統御する既存の規範」によって排除と浄化が導かれることは、何も「クィア」なんかを媒介しなくても、直感で把握できる。確認すべきことは「クィア」がそれをどのような道筋で説明しているかである──「クィア論法」の「解法」を精査することである。「クィア」に利用されないためには、「クィア」が誘導する問題ではなく、「クィア」が誘導しない問題に、「それと同じように」取り組むことである。「アメリカの新興学問」関係者から問題を設定する権能を奪うことである。「その問題」を「この問題」に置き換えることである。

 

そうした場合、「身体のあり方を統御する既存の規範」というものは、中絶の問題に接続できる。人工妊娠中絶の問題から「身体のあり方を統御する既存の規範」とはどういうものであるのかを理解できる。そこに横たわる問題が「ここに」浮上する。人工妊娠中絶は排除と浄化を導くものあると結論づけることが「それによって」可能になる。人工妊娠中絶は、その合法化の際、「身体のあり方を統御する既存の規範」をどのように利用したのか。

 

……問題は、このロウ対ウェイド裁判が起こった背景である。この判決は中絶を厳しく制限する法律に対する約10年にわたる反対運動の結果であった。Singerも指摘しているように、この10年の間にアメリカにおいて中絶法反対運動は取るに足らない少数派から主要な政治勢力へと成長していたのであり、連邦最高裁の判決はその最後に出されたものであった。そして、この中絶法反対運動を引き起こしたのは当時妊婦によって広く服用されていた鎮静剤の「サリドマイド」であった。
当時多くの国でサリドマイドによって奇形児が次々に生まれたが、その原因がサリドマイドであると知れ渡ると、それを知らずに服用していた多くの女性が中絶を求め、さらにそれに関連した事件もたびたび生ずるようになってきた。それを受け、中絶法反対運動が高まりを見せた。1967年イギリス議会は、妊娠を終わらせる場合よりも、妊婦もしくは妊婦の家族のすでに生まれている子供のうち誰かの身体的あるいは精神的健康が損なわれる危険性の方が大きい場合に中絶を認めるという趣旨の法律を通過させたが、これは実質的に中絶自由化であった。(Singer 1998: 120)アメリカにおいても、フィンクベインという女性が自分の住んでいたアリゾナ州で中絶手術を受けようとしたが受けられず、いくつかの州に移り、手術を受けられなかった。全米メディアの同情がフィンクベインにあつまり、さらにケネディ大統領らもこの問題についてニュース番組で議論した。フィンクベインはスウェーデンに飛び、そこで中絶手術を受けたが、その結果胎児に奇形のあることが判明したのである。Mohrはこの事件について「中絶はもはや絶対的なものの間での選択―生かすか殺すか―を意味するのではなく、程度問題―どんな条件の下でどんな生命なら生かすか―を意味するように思われた」(Mohr 1978: 112)と論評している。つまり、中絶を認めるべきか否かの基準として、「生命の質」が考慮されるようになったのである。

 

麦倉泰子「中絶の倫理問題についての考察」 http://www.rikkyo.ne.jp/grp/cchs/student/img/journal/2005/mugikura.pdf

  

羊水穿刺は、胎児のダウン症の検査のために、信頼されて幅広く使用された処置であった。その使用の増加は、当時の中絶の権利をめぐる議論と交差し、それを活発にした。法律は国によって大きく異なっていたが、大体の方向として、1960年代から1970年代に、胎児の選択的中絶に関する刑法が見直されている。

多くの国で中絶が解禁され、母親の健康が危険にさらされる場合を特例とするという病院委員会の裁決のもとで、医師と妊婦に対する処罰が廃止された。ここでの「健康」は様々に解釈されたが、重度障害のある子どもを育てる困難から生じる「精神的健康」が含まれることも多かった。この結果、医師と患者、また(関与可能なところでは)病院委員会は、21トリソミーのある子どもが母親の精神的健康に回復不可能なほどの影響を与えることを根拠にして、中絶を制限する法律の抜け道を得たのである。

 

このように、ダウン症出生前診断の一般的普及は、多くの西洋諸国で中絶法が緩和されなければ起こらなかった。事実、当時の多くの親にとって、出生前診断の第一の目的は、ダウン症のある子どもを持つという「重荷」に対して、妊婦とその夫に心の準備をさせることではなく、合法的な人工中絶の選択をするよう、彼らに迫ることだと思われた。ダウン症協会や支援者団体は、医師と準医療専門家が提示する出生前スクリーニング検査の方法に懸念を表明した。新たな技術は、表面上は妊婦と夫が情報に基づいて意思決定を行う能力を向上させたが、夫婦たちが実際に経験したように、その手続の真の原理は、ダウン症のような遺伝子異常がないかを検査によって発見し、中絶させることであった。実際、ダウン症は、羊水穿刺の促進のために利用される典型的な先天的異常となり、出生前スクリーニング検査の使用をもっと拡大しようという公衆衛生の広告に、恐怖戦術として利用されたのである。

 

デイヴィッド・ライト『ダウン症の歴史』(大谷誠 訳、明石書店)p.174、176-177 *1

  

ダウン症候群が21番染色体のトリソミーであることを1959年に突き止めたジェローム・ルジェーヌ)の評伝を書いた娘のクララ・ルジェールによれば、フランスで羊水検査の手法を開発したのはルジェーヌの友人で、同じように治療に結びつけようと研究をしていたという。クララは「ふたりは自分たちの偉大な発見が、本来の目的とは反対のほうへ覆されてゆく、救いのない目撃者となるしかなかった」と書いている。そして、羊水検査の結果中絶が行われることに反対したルジェーヌは、1960年代から70年代にかけて、中絶合法化を求める人々から「小さな怪物(ダウン症の子のこと)とともに死ね」などの激しい中傷を受けたという。

 

 

酒井律子『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』(NHK出版)p.101 *2

 

【関連】

*1:

ダウン症の歴史

ダウン症の歴史

 

*2:

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま

 

「障害者の浄化」としての役割を果たす人工妊娠中絶

「望まれない身体」が排除され、あの街では浄化が進行している。そのように説く者がいる、そのように教え諭す者がいる。それは、「そのこと」に気づいている「わたし」あるいは「わたしたち」がいて、「そのこと」に気がついていない「あなたたち」がいる。そのような状況を何よりも前提としている──そのような状況であることが必要であるし、そのような状況であることにしておかなければならない。なぜなら、「わたしたち」は「教え諭す側」の人間なのであり、指導教官のように振る舞う権能を有しているからだ。

指導教官のように振る舞うということはどういうことか。それは問題設定は「わたしたち」の手中にあるということだ。Aという事象とBという事象を組み合わせた問題を提出すれば「あなたたち」は確実にジレンマに陥る。そうであれば「あなたたち」は「わたしたち」を無視することはできない。そのために何が問題であるのかを「わたしたち」が設定し、決める。ちょうど小学校の先生が「受け持ちの生徒」に教え諭すように、これは不変の原理なのである。だから、「わたし」は「あなたたちに」に「そのこと」を教え諭す。そういうことを可能にするために、「あなたたち」は「わたし」の「受け持ちの生徒」でなければならない──「受け持ちの生徒」になってもらわなければならない。そうすることによって、「あなたたち」が「わたし」の「受け持ちの生徒」であることを他の学問領域の先生方に知らしめることができる。具体的には、「あなたたち」を「わたし」の業績に直結する学問領域である「クィア理論」という「アメリカの新興学問」に包摂し、そのことを既成事実化する。すでに、他の学問領域の先生方にはそのように話してあるし、そのように受け取れるよう振る舞っているし、そうすることによって国家から研究費を得ているのだから。

 

「望まれない生」(「望まれない身体」を持つと想定される命)が排除されている。「この世界」では健常主義による選択的人工妊娠中絶という名の浄化が進行している。障害者を社会から排除するために中絶を前提にした出生前診断が行われている──「どの」胎児が生存を認められ、「どの」胎児がその生存を認められないのか。「望まれない身体」を持つと診断された胎児が中絶によって抹殺されていっている。「このような浄化」が現にいま進行している。それなのに、このこと説く者が「ここに」はいない、そのように教え諭す者が「ここに」はいない。それは、「そのこと」に気づいている「わたし」あるいは「わたしたち」がいて、「そのこと」に気がついていないふりをしている「あなたたち」がいるということなのか? 「あなたたち」がまことしやかに語る「排除と浄化の理論」には何が書いてあったのか?

 出生前診断において親の自己決定を超える問題があるのは、生きようとしている胎児の生存権があるからだ。それはまた、子どもを育てようとする親の姿勢を守ることが優先される所以でもある。では、この生存権を否定する根拠はどこにあるのだろうか。人工妊娠中絶はそもそも倫理的に正当化することはできない。しかし、個々のケースではやむをえない決定として女性の自己決定による中絶を認めざるをえないと考えられる。これは女性の生存権を守るための、個々のやむをえざる特殊な事情によるものとして理解すべきであり、「自己決定権」として一般化できるようなものではない。では、障害の可能性があるということを根拠として中絶すること(胎児条項)を、普遍的な権利として法に記すことは妥当だろうか。否である。そうすることは、障害者の生が生きる価値において劣っているという差別的な判断を、普遍的な「事実」として示すことになる。
実際には多くの障害者が不幸であるわけではない。まして、生まれてこなければよかったと考える障害者はごくわずかである。にもかかわらず、障害者は生まれてこないように措置するのが当然だとするのはなぜだろうか。それは障害者を排除するのが妥当だとする考え方を社会が作っているからである。それは優生学的な考え方に基づく。優生学とは、「悪い遺伝を避け、いい遺伝をたもって子孫の素質をすぐれたものにすること」(『国語辞典』第四版、三省堂、一九九二年)だが、社会の損得計算の視点から見て、「弱者を人為的に淘汰する」のが適切だという考え方にのっとっている。

 

一九世紀の末に始まり、一九二〇年台以降、精神障害者らの結婚を抑制したり、断種を行ったりした二〇世紀中葉までの優生学に対して、二〇世紀末に著しく普及し始めた出生前診断に代表される新しい形の優生学は「新優生学」とよばれることがある。後者はすでに生まれて生きている人の生殖に対して強制を加え、直接に人権を侵すことはしないように見える。しかし、障害者を社会から排除することが目指されているという点では二つの優生学は同じである。出生前診断によって中絶される胎児はいのちを奪われる。出生前診断を受けずに生まれたり、受けたけれども中絶をせずに生まれた子は、生まれなくてもよかったはずの子として遇される危険にさらされる。生き残った障害児は少数派としての発言権を弱められ、ますます不利な立場に置かれることになる。

 


島薗進「いのちの選別はなぜ避けるべきなのか? 出生前診断をめぐる日本の経験から」 http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/28756/1/da010002.pdf

 

 

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