The Reverberator

EFFORTLESS FRENCH

ようこそ、不幸な子どもが生まれない社会へ

1966年から1974年にかけて兵庫県である施策が行われた。それは県衛生部が「不幸な子どもの生まれない対策室」を設置し、出生前診断を奨励、羊水検査でダウン症候群など染色体異常の可能性のある胎児を見つけることを推進した──パンフレットを作成し、それを配った。行政側が「不幸な子ども」を定義し、その「不幸な子ども」が生まれてこないよう監視し、出生前診断の一部費用を県が負担するなどの介入を図ったのである。つまり「不幸な子ども」の出生抑制政策である。これが一連の「不幸な子どもの生まれない運動」と呼ばれるものである。*1

 

 兵庫県「不幸な子どもの生まれない運動」の経過】


1966 年4月 兵庫県衛生部が中心となって同運動スタート
同年 6月「不幸な子どもの生まれない施策を進めるために」(兵庫県 医第556 号)策定。以降、各種施策とともに県民大会等を展開。
1970 年8月 兵庫県「不幸な子どもの生まれない対策室」設置
1974 年4月 障害者団体の抗議を受けて、「不幸な子どもの生まれない対策室」廃止、運動の名称も変更される

 

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_20/pdf/o1.pdf 

 

 兵庫県は1966~74年、「不幸な子どもの生まれない県民運動」を推進した過去がある。

 「不幸な子ども」を中絶や死産に加え、知的、身体などの障害児と定義。70年には対策室を設置した。障害者団体の抗議を受けて廃止するまで、遺伝病の予防や障害者のリハビリなど幅広い施策を展開し、他府県から視察が相次いだという。

 県健康増進課は「当時の国の母子保健施策に沿った運動。障害者に不幸な存在とレッテルを張るのは今なら許されない」と話す。

 

 

相模原事件 兵庫県「不幸な子」生まぬ運動の過去 神戸新聞NEXT 2016/9/5 

https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201609/0009459314.shtml

 

 

ある人が「ある空間」の条件を設定し、その条件を満たした構成要素の「動き」を観察する。その場合の「ある空間」は、既存の境界(例えば国境)を利用するものであったり、宗教などの文化的なエリアを当てはめたものであったり、あるいは……「ある結論」を導くために最適化されたコロニーのようなもの──比喩的に言えば、ある特定の微生物の培養実験を観察するための「滅菌された」シャーレも「ある空間」としての要件を十分に満たしているだろう。

 

 

「ある空間」における構成要素の「動き」を、「排除」や「浄化」という言葉に置き換えたとき、観察者はいったいそこに何を見ているのか、実のところはよくわからない。何をもって「排除」と見なしているのか、何をもって「浄化」と見なしているのか。「Aという空間」における構成要素の「動き」をもって「それは浄化である」と判断する根拠と、「Bという空間」における構成要素の「動き」をもって「それは浄化である」と判断する根拠は「同じもの」なのだろうか。根拠が「同じもの」であるから「Aという空間」における「浄化」と「Bという空間」における「浄化」は「同じ浄化」と言えるのか。観察者がそのように思えば、そうなのか。

観察者aが「Aという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
観察者bが「Bという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
観察者cが「Cという空間」における構成要素の「動き」から「排除」(「浄化」)という現象を導いた。
以下同様…。
観察者d(a,b,cの何れかであっても構わない)はこれによって「排除(浄化)理論」を発見/発明するだろう。別の観察者fはこの「排除(浄化)理論」を利用するだろう。

新進気鋭の観察者Qは、発表されたばかりの「排除(浄化)理論」を早速「Xという空間」に適用するだろう。「排除(浄化)理論」に照らし出された「Xという空間」の構成要素の「動き」は、もちろん条件が様々に違っているので「同じ」とはさすがには言えない。だから新進気鋭の観察者Qはそれを「近似した動き」と表現する。「Xという空間」における構成要素は「排除(浄化)理論」を十分に満たすための「近似した動き」を期待されるだろう。ところで、ここにおいて、「近似」という言葉の意味を限定する条件は、今のところ示されてはいない。そうであるならば、「排除(浄化)理論」を成り立たせる「近似した動き」は、「排除(浄化)理論」を知らない一般の人の直感に限りなく接近し、理論に導かれたものと直感によって得られたものが「ほとんど同じ」──それ自体が「近似したもの」──になるかもしれない。

 

 

ある(複数の)観察者が、自分(たち)の管轄である「prefecture という空間」の構成要素の一部対象者を「不幸な子ども」であると定義した。
一方、その構成要素としての対象者は、そのとき、自分たちのことを「そのように」思っているのか。その構成要素としての対象者が「そのように」思っているのか、「そのように」思っていないのか、観察者はどうやってそれを知ることができたのか。観察者はそれを知らなくてもいいのだろうか。
構成要素としての特定の対象者が「そう思わなくても」、観察者がそう思えばそれは「不幸な子ども」であると言えるのか。構成要素としての特定の対象者が「そう思うことができなくても」、観察者がそう思えば、それは「不幸な子ども」であると言えるのか。観察者の意見が構成要素としての対象者のそれよりも優先されるのだろうか。だとしたら、それはなぜなのか。
「prefecture という空間」の構成要素としての特定の対象者が「そう思わなくても」、自分たち以外の人たちが自分たちのことを「そうである」と思っていることを、特定の対象者は知ることができる。むしろ、知らされると言ったほうがよいのかもしれない。
では、構成要素としての特定の対象者は、自分(たち)が「不幸な子ども」であると見なされ、「望まれない生」であると見なされていることに、いつ、どのようにして気がつくのか──いつ、どのようにして、それを知るのか、そして、いつ、どのようにして、それを思い知らされるのか。

 

 

かつて「ある空間」の構成要素として勝手に強引に選別され、ナチス・ドイツがやったように「クィア」という名のついたバッジを無理やり付けさせられた人たちがいた。「クィア」に勝手に強引に包摂されることは深刻な人権侵害であると何度も何度も訴えても、その訴えは無視された。「他人のあり方」を規定すること──それが「その名」においてなされていた。

そして他人に「その名」を強制的に付与する権能を自分たちは有してるかのように振る舞っている者たちがいた。思い上がりを絵に描いたようなその者たちは、さらに、どういうわけか、どのような権能に基づいているのか、自分たちを「観察する側」においていた。

そのような傲慢な連中たちの観察の対象であるにすぎなかった「そのような」人たちが、観察者が所有している方法論(クィア・スタディーズ)を逆に抵抗のために捉え返し、それを他の目的のために役立てる──これはそういう「物語」でもある。
ただし、言うまでもなく、クィア・スタディーズにおける「排除」や「浄化」の問題は、すでに第一段階の「排除」や第一段階の「浄化」が終了した時点以降の範囲を扱っているにすぎない。観察者も対象者も、すでに第一段階の「排除」や第一段階の「浄化」を免れた人たちなのである。クィア・スタディーズとは、すでに誰かのことを「排除」し、誰かのことを「浄化」し、誰かのことを「置き去り」にし、そのことを忘却し、その忘却に支えられて成立しているものなのである。「非規範的な生」なるものはすでに「排除」され「浄化」されているのである──そのことを問わない潮流によってクィア・スタディーズ自体が支えられているのである。
現在、観察者の目の前に広がっている「普通の景色」は、すでに多くの障害をもった人たちが選択的人工妊娠中絶によって選別され、この社会から「排除」され、この社会から「浄化」されたものなのである。

 

 

誰の、どの身体を有する人の生命が、どのようなあり方を有するであろう人の生命が、その人の生命を存続させることが許されるのか。

 

 障害をもって生まれることは不幸であるという意識は、当時も現在も多くの人のなかにあまり変わりなくあるだろう。でなければ、出生前診断の技術が進歩し続けているわけがない。しかし、このような決めつけは、障害をもって現に生きている障害者からみれば、どうしても納得できないものである。なぜならば、障害をもって生きることが、「幸せ」なのか、「不幸」なのかは、その本人以外誰も判断できないからである。

(中略)


優生保護法改正反対運動というと、青い芝の会がクローズアップされがちであるが、当時の多くの障害者運動に「優生保護法改正反対」という単一の争点での共闘を実現させることになり、それがその後の優生施策に抵抗する障害者運動の連帯行動の基盤を形づくることになったといわれる。(田中耕一郎〔2005〕p.37)

ただ、青い芝の会の障害者たちは、「不幸な子どもの生まれない施策」のいうところの不幸な子どもや母親に殺された子どもと「脳性まひ」という障害(impairment)をもっている点で共通している。青い芝の会の障害者たちは、自分の子どものころとこのような子どもたちとが重なったのであろうし、大人になっても脳性まひという障害をもっていることは変わらないため、「障害者は、不幸な存在である」や「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という意識が存在する社会では、「いつ、自分達も・・・」という危機感になったのであろう。
ところで、1980 年代、イギリスにおいても日本と同じような現象がみられる。ここでも脳性まひの障害者たちは、障害を理由にした中絶を容認するような社会的傾向に恐怖を感じたといわれている。イギリスの障害学の文献には以下の記述がある。

 

「もし、胎児が特定の状況にあるために、殺すのが正しく適切だと決定されるのなら、なぜその胎児と同じ状況にある人々が、単に年齢を経ているというだけで権利を認められるのだろうか」(Daves,1989:83)。(コリン・バーンズ他〔2002〕p.288)

 

一般に胎児は、法的に権利主体ではないと解釈されることが多い。しかし、ここで登場した同じような状況(「障害者は、不幸な存在である」や「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という意識が存在する社会において脳性まひという障害をもっていることは、大人になっても変わらない)におかれている障害者たちにとって、障害をもつ可能性が高い胎児も出生前or 出生後を問わず地続きの仲間なのであろう。言い換えると、こうした同じような状況におかれている障害者たちは、障害をもつ可能性がある胎児を同じ範疇にいる仲間ととらえているといえる。

 

 

笹原八代美「選択的人工妊娠中絶と障害者の権利 : 女性の人権の問題としての性選択との比較を通して」 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/3383/2/SR0002_160-181.pdf 

 

 

現在、成人である〈わたし〉は、ある障害をもっている──障害をもって生まれ、その障害をもった身体を生きている。そして、〈わたし〉は、「障害者は、不幸な存在である」「障害者は、この世に存在しないほうがいい」という社会規範が「普通の景色」であるこの社会に生きている。〈わたし〉は、自分と同じ障害をもった胎児が中絶されているのを知っている。中絶によって〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児の生存は途絶える。そのことをいつも、いつも思い知らされる。いったい、〈わたし〉と「あの胎児」を区別するものは何なのか? 「あの胎児」に生きる資格がないのなら、どうして同じ障害をもち、同じ状況にある、単に年齢を経ただけの〈わたし〉は、そうでないと思えるのか。だから、このような社会にあって「望まれない身体」を有した〈わたし〉は、「いつか自分も……」と常に危機感を抱かざるを得ない。「生存」という言葉が重くのしかかる。自分と同じ障害をもった胎児が中絶され、その生命の存続を拒絶されるのが「普通の景色」になっている社会に生きているのだから。〈わたし〉にとって「普通の景色」は、〈わたし〉であることが可能な場であってほしい。〈わたし〉にとって「普通の景色」は、〈わたし〉が不幸な存在であると見なされずに、そして〈わたし〉自身も〈わたし〉自身をそのように思える場であってほしい。〈わたし〉の願う「普通の景色」は、〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児の願いでもある。〈わたし〉にとって〈わたし〉と同じ障害をもつ胎児は仲間なのである。「あの胎児」と〈わたし〉は地続きの存在なのである。それを切り離して物事を考えることはできない。だから、そういった仲間との「コンタクト」をうみだす力を欲し、その力の存在を信じている。出生前/出生後の区分を攪乱し、〈わたし〉と〈あなた〉の「コンタクト」をうみだす力を。〈わたし〉は〈あなた〉の誕生をいつか(きっと、必ず)心より祝福したい──ようこそ、不幸な子どもなんかいない世界へ。

 

  

【関連】

Future‐like‐ours

私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思える。私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができる。

数年前、あるいは数十年前、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思っていた。数年前、あるいは数十年前、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができた。

1年後、私たちはパリにいるだろう。そこでも、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と思えるだろう。5年後、私たちはコペンハーゲンにいるかもしれない。そこでも、私たちは「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことができるだろう。

 

 

「わたしたち」は現在、「xという空間」(xと名付けられているスペース)に存在している。「わたしたち」が存在していることが、「xというクラス」、そのように名付けられている「xクラス空間」の条件でもある。「わたしたち」は何ものかであって、そして何ものかでもない──「わたしたち」は「この場」(「xクラス空間」)にいる、としか言えない。「わたしたち」は"x"である。

 

 殺すことを不正にするものは、殺人者に対する影響でも、被害者の友人や親族に対する影響でもなく、まずもって殺される被害者への影響である。生命を失うことは、その人が被りうる最大の損害の一つである。生命を失うことは、殺されなければその人の将来を構成することになる経験や活動や計画や楽しみなどのすべてをその人から奪い去ってしまう。したがって、誰かを殺すことが不正なのは、まずもってそれが被害者に起こりうる最大の損害(の一つ)を与えるからにほかならない。


(中略)


殺すことが不正なのは被害者の将来を奪ってしまうからであるという主張は、次の二つの考察によって直接に支持される。第一に、この理論は、なぜわれわれが殺すことを最悪の犯罪の一つとして見なすのかをうまく説明してくれる。殺すことが不正なのは、それが他のいかなる犯罪よりも多くのことを被害者から奪うからである。第二に、エイズや癌を患って自分が死につつあると知っている人は、当然、死は自分にとって非常に悪いことだと信じている。彼らはこう信じている。自分が死ななければ経験するはずの自分の将来を失うことこそが、自分にとって早死にをきわめて悪い事態としているのだ、と。もし仮に、殺すことの不正さに関するこれよりもっと優れた理論が他にあるとすれば、その理論は死ぬことに対する人々の態度ともっとうまく適合するような、殺すことに関する異なった自然的性質を必要とするだろう。それはどんなものでありうるだろう?

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」(山本圭一郎 訳、江口聡 編・監訳『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収、 p.195、197 *1

 

こう考えたらどうだろうか。私たちは、どこかの誰かによって恣意的に都合よく分割された「あるクラスの空間」に押し込まれている。「あるクラスの空間」の構成要素にされている──勝手に強引に、その集合に包摂されてしまっている。ナチス・ドイツがある特定の人たちに、その特定の人たちとそうでない人たちを区別するための目印となるバッジをつけさせたように、私たちは「あるクラスの空間」を構成するのに都合のよい要素として選別され、「そのクラス名」を強制的に名乗らされている。

 

私たちは「わたしはそうである」というそれだけの理由で「Qクラス空間」に関する問題を与えられる──ここにおいて、どういういうわけか、どういう権能に基づいているのか、「他人に問題を与える側」にいる人間がすでに自明視されていることは注意を促しておく。
「Qクラス空間」問題は、その上位または並列する「Pクラス空間」問題と形式的な構造を共有しているとみなす。「Pクラス空間」問題は、その上位または並列する「Oクラス空間」問題と形式的な構造を共有しているとみなす。


このように「Qクラス空間」と「Pクラス空間」の比較ができること、「Pクラス空間」と「Oクラス空間」の比較ができること、「Qクラス空間」と「Oクラス空間」の比較ができること。これらの比較を可能としているのは、問題を提出する側がすでに同様の比較を行っていることに依拠している。例えば、条件の異なる国と国との間の問題──国境に関する問題(仮にこれを「Bクラス空間」と位置付ける)、または外国の都市における特定の地区──例えばフランス・パリのマレ地区の問題(仮に「Mクラス空間」と名付ける)、さらに「Qクラス空間」の下位または並列する空間として東京・渋谷の「Sクラス空間」も想定可能であり、それらとどこが(どこまで)「同じ」で、どこが(どこまで)「違う」のかを比較すること。

つまり、こういった異なる要素や異なる条件の下にある異なるクラス間において、「同じ」かどうかを比較判断できるのは、それぞれが特定の条件と特定の要素から構成されている空間にあっても、そこに何かしら共通する構造を有しているからだと推測できる。「Nクラス空間」問題と「Mクラス空間」問題の比較、「Dクラス空間」問題と「Cクラス空間」問題の比較。それは現在の「Qクラス空間」問題を「起点」とし、より上位のクラスの問題と解答を推定していくものである──「Qクラス空間」の問題と解答を「Pクラス空間」は内包しているだろう、同様に「Oクラス空間」も内包しているだろう、「Nクラス空間」も……。以下同様に……「Aクラス空間」へと特定の誰かによって恣意的に都合よく描かれた軌跡を逆に辿るかのように、そして最後に、特定の誰かによって恣意的に都合よく分割される以前の「唯一のスペース」──それは「この世」としか言いようがない、それを「ゼロ・クラス空間」と位置付ける──へ、その問題とその解答を送り届ける。

 

「わたしたち」はどのクラスの空間(場)にもいた。しかし、そもそも「わたしたち」は「ゼロ・クラス空間」に参入可能だったのか? 「わたしたち」が「この世」としかいいようのない「ゼロ・クラス空間」に(その「場」に)、「いる」こと──それを可能にする「新生児として生まれること」が。「わたしたち」の誰が「いる」ことが認められ、「わたしたち」の誰が「いる」ことが認められなかったのか。すでに「Aクラス空間」以降の内側で生存している「わたしたち」の中で、誰が「ゼロ・クラス空間」で選別されたのか。「わたしたち」は「わたしたち」の誰を置き去りにしてきたのか。

 

 殺すこと一般を第一義的に不正とするのは、その被害者が自分の将来の価値を失うことであるという主張は、中絶の倫理に対して自明な結論をもたらす。一連の経験、計画、活動などが含まれているという点で、胎児の将来は成人の将来や年若い子どもの将来と同じである。上に述べた、生まれた後の人間を殺すのが不正であるのはなぜであるかを説明するのに十分な理由は、胎児についてもまた当てはまる。このため、特段の理由がなければ、中絶は道徳的にきわめて不正であるという結論になる。
上の議論は、ひとを殺すことは不正なので潜在的なひとを殺すことも不正である、という妥当でない推論には依拠していない。ここで提出している分析において、道徳的な意味で核心となるカテゴリーは、われわれと同じような価値ある将来をもっているというカテゴリーであって、ひとであるというカテゴリーではない。他に特段の理由がなければ、中絶はきわめて不正であるという趣旨の結論となるこの議論は、ひとの観念や潜在的なひとの観念、もしくはこれに類似した観念とは独立に進められてきた。論者の中には、このような分析を人間の将来の価値という点から出発して、ごく稀な状況を除いて中絶が道徳的にきわめて不正であると結論し、胎児が生存する権利をもっていると推論し、そしてその結果として胎児を「ひと」と呼びたいと考える者もいるかもしれない。このような場合には、ひとというカテゴリーはその分析の論証を生み出すためではなく、むしろその分析の結論を述べるために用いられているのは明らかである。

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」 p.199-200 

 

「Qクラス空間」問題で示唆される解答──それは曖昧に濁され、まるで小学校の先生が「自分の受け持ちの生徒」に自分で問題を解くように「教え諭す」かのような独特な配慮がなされているかもしれない──が「わたしたちを殺すことは不正である」だとしたら、それは、対象となる内部の要素や条件が異なっても、同じ構造を有しているとみなされるすべてのクラスの空間にも「同じ解答」を導く「同じ問題」を設定できるだろう。

「Qクラス空間」で提示された解答は、「Pクラス空間」においてもその解答(「Qクラス空間」における解答)によって、その解答を導くための問題を設定できるだろうし、「Mクラス空間」でも「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導くための問題を設定することが可能である。以下同様に……「Bクラス空間」でも「その問題」が成り立ちうる。そして、恣意的に都合よく分割される──「Qクラス空間」もそうである──以前の「唯一のスペース」である「ゼロ・クラス空間」においても「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導く「同じ問題」を設定できる。いや、「同じ問題」を設定できなければならないのだ。

 

「ゼロ・クラス空間」における問いは、「わたしたちを殺すことは不正である」という解答を導く問題だけである。それが唯一の問題である。この世に生まれること、生を受けること、それだけである。殺されないこと、生誕を認められること、それが「フル・パーティシペイション」のすべてである。都市スペース特有のガヤガヤとした騒音=「知ったかぶり」に耳を塞ぎ、遠くから聞こえてくる声に耳を澄ますこと──「わたしたちを殺すことは不正である」。これ以上ないほどのシンプルな問い。「わたしたちを殺すことは不正である」。最終の、そして原初の問い。「わたしたちを殺すことは不正である」


「この世」としか言いようがない「ゼロ・クラス空間」において、現在、わたしたちがそう思っているように「わたしたちを殺すことは不正である」と思うことのできなかった「わたしたち」は無価値なのか? 「ゼロ・クラス空間」において、現在、わたしたちがそう言っているように「わたしたちを殺すことは不正である」と言うことのできなかった「わたしたち」の生は無価値なのか?

 

 中絶反対という帰結を避けるための別の戦略があるとすれば、それは「将来の価値」説の範囲を限定することだろう。もっと正確に言えば、この戦略は「将来の価値」説(もしくは他のあらゆる中絶反対派の議論)を胎児に適用しようとすれば最も肝心となるはずの性質を、胎児はもっていないと主張しようとする。
このための方策の一つは、ある人の将来に価値があると言うための必要条件は、その人が将来に価値を認めることだ、という主張に基づいている。価値があるということは、価値づけを行う人がいるということを必然的に伴う。この主張を考慮すれば、胎児は自分の将来を価値づけることができないのであるから、胎児の将来はその胎児にとって価値あるものではない、と論ずることもできるかもしれない。それゆえ、胎児の生命を意図的に絶つことは、胎児に対して深刻な不正を行っているわけではない、と。
しかし、このような方策は失敗に終わる。なぜなら、この議論にはいくつかの不明瞭な点があるからである。誰かがあるものに価値があると認めない限り、それは価値があるものとはなりえない、と想定してみよう。しかし、だからといって、「私が」自分の生命を自分で価値があると認めない限り私の生命は無価値である、ということが論理的に出てくるわけではない。絶望の淵にあるとき、私は自分の将来がまったく無価値であると思うかもしれない。しかし、私以外の人たちが正しくも私の将来に価値──しかも大きな価値──を見いだすのだから、私は間違っているかもしれない。そのうえ、私の将来は私が価値を置かないとしても私にとって価値あるものでありうる。たとえば、ある若者が自殺未遂を図ったものの、一命をとりとめ、やがて偉業を成し遂げるに至るような場合がそうである。こうした若い人々の将来は、自殺を図った時点では彼らに価値がないように見えるとしても、結局は彼らにとって価値あるものなのである。同様な仕方で、胎児の将来も胎児にとって価値あるものでありうる。

 

 

ドン・マーキス「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」p.207-208 

 

 

【関連】

 

*1:妊娠中絶の生命倫理

妊娠中絶の生命倫理

 

 

どの命が、どの身体を有する命が、どのようなあり方をもつ命が、その誕生を許されるのか ~ クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けて、クィアの仕向ける疑似問題に対しプロライフ的視点を導入することによってそれを完備化し、「それ自体を救済する」ために

どの命が、どの身体を有する命が、どのようなあり方をもつ命が、その誕生を許されるのか。胎児を人と見なすこと、または人と見なさないこと、あるいはどの胎児に「将来の価値」を与え、どの胎児に「将来の価値」を与えないのか。その選別は、そのときどきの「政策」によって変わってしまう──それは、そのときどきの「政策」によって、存在していい命と存在してはならない命の線引きをすることではないか。私たちにはそれができるのだろうか? あるいはどのように?

 

もしかしたら、クィア・ポリティクスから「新しいプロライフ運動」へ向けての足掛かりを得ることができるかもしれない。もしかしたら、クィアが提示する疑似問題に対しプロライフ的視点を導入することによって、それを完備化し、「それ自体を救済する」ことができるかもしれない。

 

誰の、どの命が、どの身体を有するであろう命が、どのようなあり方をもつであろうと見なされる命が、その誕生を許されるのか。

 

 この判決(ロウ対ウェイド裁判)は、次の三つの問題を潜在させていると考えられる。


①「線引き」問題
一つは、胎児が一つの生命体として母体の所有者である女性のプライバシー権から逸脱する時期を「母体外で生存可能な時期」と明確に設定したこと、つまり本来連続的であるヒトの成長に「生存権」を主張するに値する主体としての一定の境界線を設定した、という点である。つまり、ある時期まで胎児は「ヒトhuman being」であっても「人間ではない」とする見解である。この問題は「線引き問題」(井上1996: 8)と称される。


②自己決定能力を根拠とする中絶
もう一つは、中絶が個人の身体に対する選択権の中に存するものとみなされた点である。つまり、自己の身体に対し、いかなる選択をすることも自由であるとする「自己決定権」のなかに中絶を位置づけた点である。「個人の選択の自由の保障」、それが「プライバシー権としての中絶」という判決が持つ意味である。この「女性の自己決定権としての中絶」は、自己決定能力のあるものと自己決定能力のないものを区別し、二者の間に葛藤が起こったときにそれを判断の根拠として自己決定能力のあるものの権利を優先する、という議論である。


③「生命の質」による中絶
この判決が含意する問題点の最後の一つは、この判断がサリドマイドによる先天性異常をもつ子どもの大量の出生を背景になされたものである、という点である。そこには明らかに、「先天性の異常を持っているなら、中絶されても仕方ない」もしくは、「先天性異常を持つ子どもは不幸である」というある種の「生命の質Quality of Life」に基づく判断(Singer 1998)が働いていると考えられるのである。

 

麦倉泰子「中絶の倫理問題についての考察」 http://www.rikkyo.ne.jp/grp/cchs/student/img/journal/2005/mugikura.pdf

 

「浄化」されるのはどの命なのか、「排除」されるのはどの身体を有するであろう命なのか、「生存」の危機に晒されているのはどのようなあり方を想定される命なのか。

 

出生前診断による選択的中絶の問題性とは、「障害者に対する差別」という政治的・社会的な問題が女性の個人的な自己決定の問題、すなわち「私は障害者を産みたい/産みたくない」となってしまう点である。結果として起こっている現象とは、先天的障害児の出生率の大幅な減少である。実際にイギリスにおいては、1970年代に二分脊椎症の発生予防として羊水穿刺が推奨され、選択的中絶が個別に行なわれた結果患者の発生率が劇的に抑えられたという。同時に、こうした病気や障害をもって生まれてきた子どもたちは、「中絶を失敗した子ども」「中絶を怠ったために生まれた子ども」という否定的なまなざしにさらされるとともに、専門医の減少などによって社会的支援が受けにくくなり、そのためにますます障害のある子どもを産みにくい社会となるという悪循環が生じた。国家による強制的な断種は行なわれなくなっても、個々の自己決定の集積が結果的に優生学的効果をもたらしうるのである。これをレッセ・フェール優生学という(松原 2000)。「自己決定権」は、障害者差別という政治性を呼び込む装置
となりうる。 

 

麦倉泰子「中絶の倫理問題についての考察」

 

”人件費を抑えるため、身分が不安定な任期つき雇用を増やさざるを得ない国立大が増えている””非正規なくして○○大学なし”──これがクィアポリティクスの成れの果てなのか? ネオリベラリズムへの警鐘を鳴らし、その処方箋だと嘯いてきた「アメリカの新興学問」の正体なのか? インチキじゃないか? 詐欺じゃないか? 

”人件費を抑えるため、身分が不安定な任期つき雇用を増やさざるを得ない国立大が増えている””非正規なくして○○大学なし”──これがクィアポリティクスの成れの果てなのか? ネオリベラリズムへの警鐘を鳴らし、その処方箋だと嘯いてきた「アメリカの新興学問」の正体なのか? インチキじゃないか? 詐欺じゃないか? 「非常勤講師ノーマティビティ」そのものの事例じゃないか? 「ラディカルな政治」っていうのはこういうことを押し黙りつつ、覆い隠しつつ、自分たちは「他人を評価する側」に就き、「他人を評価する側」になることを目指し、それを自明視させ、自分たちは「他人を教え諭す側」であることを自他ともに既成事実化させるものなのか? どこからそんな権能が与えられのだ? 良心というものはないのだろうか?

 

国立大の若手教員、任期つき雇用が急増 今年度は63% 朝日新聞

2016年11月22日

 

 全国86の国立大学の40歳未満の若手教員のうち、5年程度の「任期つき」の雇用が急増し、2016年度は63%に達したことが文部科学省への取材でわかった。

 

こうした現状について、文科省は「人件費を抑えるため、身分が不安定な任期つき雇用を増やさざるを得ない国立大が増えている」とみる。

 

http://www.asahi.com/articles/ASJCC7WLKJCCUTIL04X.html

 

東北大、3200人を一斉「雇い止め」に職員が反対運動…大学側が一方的に規則変更 Business Journal  

2016.12.27

 

2015年5月1日現在の東北大学の職員は1万457人。そのうち非正規職員は5771人で約55%を占め、「非正規なくして東北大学なし」といえるほどだ。ところが、同大学は、3243名もの非正規職員を事実上クビにしようとしている。

 今年2月から4月にかけての説明会等で東北大が、18年4月から数年で大量の非正規職員について、契約更新をしないと宣告した。いわゆる「雇い止め」だ。ただでさえ正規職員に比べてはるかに低い給与を強いられている非正規職員の雇用を奪い、その家族まで窮地に陥れる方針との批判も多い。

 

http://biz-journal.jp/2016/12/post_17576.html

 

 

 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽りの者で、その人の内には真理はありません。

 

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。

 

ヨハネの手紙 一 2.4,4.1(新共同訳聖書) 

 

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チャイルド・マレスターは「チャイルド・ポルノ」を利用する、子どもにそれを見せそれと同じことをするよう要求するために利用する、子どもにそれを見せ「それ」が自然な行為であると説得するために利用する、子どもを洗脳し、共犯者に仕立てるためにそれを利用する、それによってチャイルド・マレスターは自分の行為を正当化する

ロジャー・J.R.レヴェスク『子どもの性的虐待と国際人権』(萩原重夫訳、明石書店)より。なお、下記原文中では「ペドファイル」という言葉が使用されているが、実際に現実に子供に接触しようとする者はそのことによって「チャイルド・マレスター」と呼ぶという意見があり、それをPC(ポリティカル・コレクトネス)的に解釈しタイトルにはそれを反映させた。

チャイルド・ポルノの利用はまた、その搾取的性質を際立たせる。チャイルド・ポルノは、子どもの性的虐待と、結び目を解けないほどしっかりと結びついているように見える。ポルノ製作中の子どもの性的虐待は、搾取の一部に過ぎない。チャイルド・ポルノの有用性の多くは、子どもの心理的抑制度を下げ、子どもを、写真や雑誌に描写されていたのと類似の行為に関わらせるよう、促すために利用されることから出てくる。ポルノは、子どもを訓練し、またある性行為を楽しめるのだと子どもを説得するのに役立つ。ポルノは子どもに、どのようにポーズを取り、あるいは場面を演技するのかを含めて、どのようにふるまうべきかを指示を与える。

同様に、チャイルド・ポルノはまた、子どもを興奮させ、その性的好奇心を掻き立てるのにも役立つ。大人との性行為には気が進まず、また性的に露骨な写真のポーズを取るのをためらう子どもは、時に他の子どもが一見行為を楽しんでいるのを見て納得させられる。同様に重要なのは、ポルノは、子どもたちがするように頼まれていることは、「大丈夫」だと子どもを説得するのに強力な道具を提供する点である。写真は、虐待者の要請を正当化し、虐待を正常と見せかけるのに役立つ。


(中略)

 

チャイルド・ポルノについて、同様に破壊的だがしばしば無視される側面は、ペドファイルが、自分たち自身の虐待行為を正当化するために、ポルノ素材を用いる方法である。証拠によれば、チャイルド・ポルノは見る者に、子どもに対する性犯罪を実行させる誘因となる。その意図された最も直接的な効果は、性的刺激を生むことである。ポルノは、ペドファイルが、現実に関する異なる見方、すなわち、彼らが継続的に被害者の行為と反応を再解釈する見方を築き上げるのを可能とする。それが子どもに虐待を正常なものと受け取らせるのと同様、ポルノは、子どもは誘惑的で、性交渉から楽しみを受け取り、性的関係を望んでいると示唆することにより、彼らの行動を正常なものとしてしまうのである。

同様に、チャイルド・ポルノは、虐待者が子どもを虐待する前に、彼ら自身の性的刺激を高め、彼らの虐待が、被害者の行動によって支持されているとの再解釈をするのにも役立っている。ある研究では、三分の一以上が、犯罪の実行をポルノによって刺激され、子どもの性的虐待を行った者の半分以上は、ポルノが、犯罪の準備のために意図的い用いられたことを指摘している。こうした結果によって、青少年への加害の研究における確証を見出すことができる。一つの重要な研究が明らかにしているように、研究者が、性的虐待の被害者にポルノについて尋ねなくても、回答者のおよそ四分の一が、性的行為の前に大人の犯罪者がポルノを使ったことを偶然、自発的に証言している。このような結果はハードコアの入手可能性と、学齢期の少女への性的いたずらの明らかな減少との間に関連性を見出した、デンマークの研究に不適切に則った理論である。チャイルド・ポルノが何らかの点で「安全弁」として作用するとする一般的な誤った考えに対する反論となる。

 

p.107-109 

 

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