ロジャー・J.R.レヴェスク『子どもの性的虐待と国際人権』(萩原重夫訳、明石書店)より。なお、下記原文中では「ペドファイル」という言葉が使用されているが、実際に現実に子供に接触しようとする者はそのことによって「チャイルド・マレスター」と呼ぶという意見があり、それをPC(ポリティカル・コレクトネス)的に解釈しタイトルにはそれを反映させた。
チャイルド・ポルノの利用はまた、その搾取的性質を際立たせる。チャイルド・ポルノは、子どもの性的虐待と、結び目を解けないほどしっかりと結びついているように見える。ポルノ製作中の子どもの性的虐待は、搾取の一部に過ぎない。チャイルド・ポルノの有用性の多くは、子どもの心理的抑制度を下げ、子どもを、写真や雑誌に描写されていたのと類似の行為に関わらせるよう、促すために利用されることから出てくる。ポルノは、子どもを訓練し、またある性行為を楽しめるのだと子どもを説得するのに役立つ。ポルノは子どもに、どのようにポーズを取り、あるいは場面を演技するのかを含めて、どのようにふるまうべきかを指示を与える。
同様に、チャイルド・ポルノはまた、子どもを興奮させ、その性的好奇心を掻き立てるのにも役立つ。大人との性行為には気が進まず、また性的に露骨な写真のポーズを取るのをためらう子どもは、時に他の子どもが一見行為を楽しんでいるのを見て納得させられる。同様に重要なのは、ポルノは、子どもたちがするように頼まれていることは、「大丈夫」だと子どもを説得するのに強力な道具を提供する点である。写真は、虐待者の要請を正当化し、虐待を正常と見せかけるのに役立つ。
(中略)
チャイルド・ポルノについて、同様に破壊的だがしばしば無視される側面は、ペドファイルが、自分たち自身の虐待行為を正当化するために、ポルノ素材を用いる方法である。証拠によれば、チャイルド・ポルノは見る者に、子どもに対する性犯罪を実行させる誘因となる。その意図された最も直接的な効果は、性的刺激を生むことである。ポルノは、ペドファイルが、現実に関する異なる見方、すなわち、彼らが継続的に被害者の行為と反応を再解釈する見方を築き上げるのを可能とする。それが子どもに虐待を正常なものと受け取らせるのと同様、ポルノは、子どもは誘惑的で、性交渉から楽しみを受け取り、性的関係を望んでいると示唆することにより、彼らの行動を正常なものとしてしまうのである。
同様に、チャイルド・ポルノは、虐待者が子どもを虐待する前に、彼ら自身の性的刺激を高め、彼らの虐待が、被害者の行動によって支持されているとの再解釈をするのにも役立っている。ある研究では、三分の一以上が、犯罪の実行をポルノによって刺激され、子どもの性的虐待を行った者の半分以上は、ポルノが、犯罪の準備のために意図的い用いられたことを指摘している。こうした結果によって、青少年への加害の研究における確証を見出すことができる。一つの重要な研究が明らかにしているように、研究者が、性的虐待の被害者にポルノについて尋ねなくても、回答者のおよそ四分の一が、性的行為の前に大人の犯罪者がポルノを使ったことを偶然、自発的に証言している。このような結果はハードコアの入手可能性と、学齢期の少女への性的いたずらの明らかな減少との間に関連性を見出した、デンマークの研究に不適切に則った理論である。チャイルド・ポルノが何らかの点で「安全弁」として作用するとする一般的な誤った考えに対する反論となる。
p.107-109
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